高円宮妃久子さまも日本国憲法が規定している天皇の形式的存在性を担っていることに留意しなければならない

2013-09-12 04:30:52 | 政治


  
 日本国憲法は「第1章天皇」、「第3条 天皇の国事行為に対する責任」で、「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」と規定し、「第4条 天皇の機能」で、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」と規定している。

 この二つの規定自体によって、既に天皇を形式的存在化させている。天皇は国政に関する権能を持たず、国事行為に関してのみ内閣の承認と助言と責任で動き、自身は責任を持たない存在だとしているのだから、形式的存在以外の何ものでもないことになる。

 天皇は「国政に関する権能を有しない」にも関わらず、戦前の戦争や歴史認識に関して日本国を代表する形で外国に対して日本の立場を述べる国政に関わる「天皇のお言葉」を情報発信してきた。

 このことが許されているのは「天皇のお言葉」発信が天皇自身のお言葉ではなく、「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」との規定を換骨奪胎して時の内閣の助言という規定を超えて内閣自身の作成にかかり、内閣自身の承認を得て発信という構造を取っていることから、内閣による「国政で」であって、天皇自身の「国政」とは見做してはいないからであろう。

 要するに「天皇のお言葉」作成の主役は内閣であって、天皇は日本国代表の形式を取りながら、内閣作成の「お言葉」をアナウンスする役目を担っているに過ぎない。これを以て、天皇の政治的利用でも何でもない国事行為としている。

 当然、内閣の実質性に対して天皇は形式的存在であることを物語ることになる。

 この実態を知らないと、李明博韓国大統領のように勘違いすることになる。2012年8月10日竹島(韓国名・独島=トクト)訪問後の日本の植民地支配からの韓国独立記念日の8月15日の前日8月14日、忠清北道(チュンチョンブクト)の大学で天皇の訪韓に関して次のように発言している。 

 李明博韓国大統領「私は、日本には(国賓としては)行っていない。シャトル外交はするが。日本の国会で私の思うままにしたい話をさせてくれるなら、(話を)しよう。(天皇も)韓国を訪問したいならば、独立運動をして亡くなられた方々のもとを訪ね、心から謝罪すればいい。何か月も悩んで『痛惜の念』などという言葉一つを見つけて来るくらいなら、来る必要はない」>(YOMIURI ONLINE

 天皇が日本国を代表して韓国に対する植民地支配を心から謝罪したいと思っても、「お言葉」に表れている謝罪の言葉は内閣作成による謝罪であって、日本国代表も形式に過ぎないことになって、聞く方の国としたら、心からの謝罪は望みようがなく、結局のところ、「痛惜の念」といった、何度も使われて形式化した堅苦しい言葉を聞くことになり、「何か月も悩んで『痛惜の念』などという言葉一つを見つけて来るくらいなら、来る必要はない」といった勘違いを犯すことになる。

 天皇が持つ形式的存在性は当然、他の皇族にも反映されることになる。このことは高円宮妃久子さまに関して言うと、各種スポーツ団体、その他の名誉総裁、あるいは名誉副総裁という形で現れている。

 「Wikipedia」によると、以下の名誉総裁を引き受けている。

 日本赤十字社名誉副総裁
 日本水難救済会名誉総裁
 日本海洋少年団連盟名誉総裁
 日本サッカー協会名誉総裁
 日本ホッケー協会名誉総裁
 日本フェンシング協会名誉総裁
 いけばなインターナショナル名誉総裁
 他多数 

 「他多数」と書いてあるから、驚きである。

 異なる種目や異なる分野の団体の名誉職を一手に引き受けていること自体が種目ごと、分野ごとに専門的ではなく、既に役割の形式性を表していることになる。

 実質的な「総裁」であったなら、人事や文科省の外郭団体を通した助成金の交渉、あるいは国のスポーツ政策等に関わらない保証はなく、当然、政治行為に発展して、国政に関係しないとも限らなくなる。

 要するに名誉総裁や名誉副総裁等に皇族を据えるということはその名前だけを求めて、役割に関しては団体の実質的統治者としてではなく、形式性を求めていることになる。

 役割が形式的であっても、皇族側からしたら、天皇や皇族が持つ元々からの形式的存在性にマッチする形で抵抗もなく受け入れられている側面も有するはずだ。

 でなければ、「他多数」と書かれる程にたくさんの名誉総裁、名誉副総裁を一手に引き受けることはできない。

 下村博文が高円宮妃久子さまが9月7日にブエノスアイレスで開かれたIOC総会で行ったIOCによる東日本大震災の復興支援に感謝するスピーチの出来栄えを褒め、「数多くのスポーツ団体の名誉総裁を務められて、スポーツ界との関わりも深い」とか、「スポーツに造詣が深い」とか発言していたのをテレビで放送していたが、暗にオリンピックというスポーツの祭典に関わる場でスピーチするのは皇室の政治利用でも何でもないかのような態度を取っていたが、高円宮妃久子さま自身が作ったスピーチであったとしても、またスピーチの内容がいくら素晴らしく、感動的であったとしても、皇族としての役割の形式性とスポーツ団体に於ける役割の形式性から発した、言葉によってつくり出した素晴らしさ、感動であって、そのことへの視点を欠いている。

 このことは地球温暖化の環境問題やマラリヤ等の難病問題、アフリカその他の地域の貧困問題、さらにはイギリスのチャールズ皇太子のように反中国の立場からチベット問題に深く関わって政治的発言を繰返す欧州の王室に於ける実質的な政治的活動との違いに現れている。
 
 欧州の王室の実質性に対して日本の皇室の形式性というふうに対置させることができる。

 当然、社会的・国際的諸問題に関わっている欧州の王族の発するスピーチと実質性に於いて違いが出てくることになる。

 日本の皇室が形式性を役割としているからこそ、そこに政治権力者によって皇室の政治的利用が入り込みやすくなる。

 皇族を名誉総裁に据えること自体が、皇族というブランドによって何らかの利益を得ようとする皇室の政治的利用を意味するのかもしれない。

 例えば高円宮妃久子さまは日本サッカー協会名誉総裁を務めているが、そういった形式性に価値を見い出すのではなく、日本のサッカーの技術向上という実質性にこそ、価値を置くべきだろう。

 後者を成し遂げることができなければ、前者は意味を失う。大した仕事ができないにも関わらず、名刺だけ立派なものを作るようなものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする