――安倍晋三も、そのアホな自民党議員の一人ということでなければならない――
昨9月18日夜の十数人の女性国会議員や安倍晋ら党幹部も出席した都内開催自民党女性議員の集いでの脇雅史自民党参院幹事長の挨拶。《「選ぶ人がアホでも」 自民参院幹事長、有権者軽視?》(asahi.com/2013年9月18日21時33分)
脇雅史「選挙制度改革を行う際に女性議員を増やす観点が必要だ。
今の制度は政党の段階で候補者の選び方が未熟だ。政党が本当に正しい意味で国会議員を選べるか。これさえしっかりしていれば、あまり大きな声では言えないが、選ぶ人がアホでも、選ばれる人は立派だ。
国民のレベル以上の国会議員は出てこないというが、もっと国会議員の選び方を厳正にする仕掛けが必要だ」(下線個所は解説文を会話体に直した。)
記事解説。〈政党の候補者選びの重要性を指摘したものだが、有権者を軽視した発言とも受け止められそうだ。〉
発言後記者たちに。
脇雅史「発言を撤回するつもりはない」
記者に対する発言は、「MSN産経」記事だと次のようになっている。
脇雅史>「選挙民がアホだと言ったわけではないことは明白だ。政党の候補者選びがダメだと選挙民がいくら立派でも良い国会議員は生まれない。発言を撤回する必要はない」――
「選挙民がアホだと言ったわけではないことは明白だ」と言っているが、実際には「明白」に「選挙民がアホだと言った」のであり、「選ぶ人がアホ」であるために、選ばれた国会議員もアホだと言ったのである。
「テレビ朝日」記事によると、〈同席していた安倍総理大臣は、その場で注意を促した〉ことになっている。
だからと言って、安倍晋三がアホな選ぶ人から選ばれたアホな一人であることに変わりはない。
脇雅史は「今の制度は政党の段階で候補者の選び方が未熟だ」と言っている。
政党とは当選した国会議員の集合体である。その政党が候補者を選ぶ段階で未熟だと言う。
国会議員の多くが立派な大卒という肩書を持ち、大卒という立派な教育経験は勿論、何らかの立派な社会経験を積んでいる。そのような国会議員が「選ぶ人」の立場となっていざ候補者を選ぶ段階で未熟だと言うことは国民が国会議員を選ぶ段階と同じように、「アホ」ということになる。
「選ぶ人がアホ」と言うことは、選ぶことに未熟だということでもあるはずだからだ。
いわば脇雅史は「今の制度は政党の段階で候補者の選び方が未熟だ」と言うことによって、候補者を「選ぶ人がアホ」だと、国会議員をアホと見做したのである。
国会議員をアホと見做すことによって、「国民のレベル以上の国会議員は出てこないというが」と言っている、一種の経験則からの教訓と整合することになる。
問題は国会議員をアホと見做していながら、些か矛盾するが、政党が本当に正しい意味で国会議員を選ぶ選び方を厳正にする仕掛けさえしっかりと作りさえすれば、国民を指して「選ぶ人がアホでも、選ばれる人は立派だ」だと考えている点である。
この主張の基本にあるのは無誤謬思想である。一見、条件付き無誤謬思想のように見えるが、仕掛けさえしっかりできれば、立派な人が選ばれるとしている決めつけ以降は立派な無誤謬思想となる。
当然、選ばれた立派な人達が作るすべての政策、そこから導き出される法律・制度・体制・規則・規範等々、すべて瑕疵一つない、矛盾一つない完璧・万能――いわば無誤謬の機能を備えることになる。
このような無誤謬を成果としなければ、「選ぶ人がアホでも」、立派な人が選ばれた意味を失うし、「選ぶ人がアホでも」、立派な人を選ぶためにしっかりとこしらえた仕掛けそのものも意味を失う。
要するに選ぶ仕掛け次第で「選ぶ人がアホでも、選ばれる人は立派だ」とした時点で、既に無誤謬思想に侵されていたのである。
例えどのように優れた法律・制度・規則・規範であっても、矛盾や瑕疵や漏れ一つない完璧な内容・作りは存在しない。存在したなら、社会の矛盾や混乱はこの世のものではなくなる。
当然、そこには政党が国会議員を選ぶ仕掛けも入る。
つまり政党がどのように立派で完璧な国会議員を選ぶ仕掛けをしっかりと作ろうとも、「選ばれる人は立派だ」とは限らないということである。
人間は利害の生き物である。同じ一つの政党であっても、様々に利害を異にする。利害を異にする形の一つとして同一政党内に派閥とかグループとか、政策面や選挙面で意見や考えや主張を異にする集団が存在することになる。
利害を異にする以上、法律・制度・規則・規範等々、何を一つ作るにしても、それぞれが利害を異にする立場立場から利害を異にする自分たちの意見や考えや主張を反映させようと凌ぎ合い、勢い、勢力の強い利害集団の意見や考えや主張がより色濃く反映されることになって、結果、成立した法律・制度・規則・規範等々から受ける恩恵もより多くなり、逆に反映させることができなかった利害集団は受ける恩恵も少なくなる。
このような反映の多寡と、それに連動した恩恵の多寡の構造が経済的格差をつくり出したり、憲法9条に対するように思想上の争いを招いたりする。
選ぶ仕掛け次第で確実に立派な人が選ばれるというわけでは決してない。
立派な人が選ばれると考えて無誤謬思想に囚われることとなった脇雅史が一番の「アホ」ということになる。
アホなことは会合後の記者たちに対する「選挙民がアホだと言ったわけではないことは明白だ」とゴマ化している点にも現れている。
自分のアホを棚に上げて、選挙民をアホだと言い、自分では気づかなくても、選ばれた国会議員もアホだと言ったのである。
当然、脇雅史の“選ぶ人アホ論”からすると、2012年衆院選でアホな選挙民がアホな自民党議員を大量に当選させたことになる。
勿論、安倍晋三もその一人だということである。国民は大いに反省しなければならない。
「選挙民がいくら立派でも」などと心にもない持ち上げでゴマ化す言い逃れは薄汚い限りである。