ニュージーランド先住民マオリ族入墨女性入浴お断りを日本人の単一民族論・単一文化論から考える

2013-09-14 08:23:00 | 政治


 
 北海道恵庭市内の温泉施設が顔に入墨のあるニュージーランドの先住民マオリの女性の入浴を断ってことが分かり、その是か否にちょっとした波紋を広げているようだ。

 《先住民族の女性 入れ墨理由に入浴拒否》NHK NEWS WEB/2013年9月13日 17時15分)

 〈今月8日、ニュージーランドの先住民族マオリの60歳の女性が女性を招いたアイヌ語の復興を目指す団体の関係者とともに、北海道内の温泉施設を訪れた際、顔にある入れ墨を理由に入浴を拒否された〉。

 〈女性は、あごと唇に家系や社会的地位を表す「モコ」と呼ばれる入れ墨をしてい〉た。

 女性側「現地の民族の伝統的な文化に基づいたもので反社会的な入れ墨ではなく、差別にあたるのではないか」(と抗議)

 温泉施設側(入り口に「入れ墨・泥酔の方お断り」と明示している。)「入れ墨には威圧感を感じるお客さんも多く、入れ墨を確認したら一律にお断りをしている」

 公衆浴場法では入墨の有無に関しての規定はないという。

 全国浴場組合「東京オリンピックに向けて多くの外国人が日本を訪れるので、入れ墨などに関してルール作りができないか、政府や自治体などと共に検討したい」

 マオリ女性「私にとってモコという入れ墨は、日本の皆さんにとっての着物の家紋のようなものかもしれません。世界には私のように入れ墨をする習慣がたくさんありますから、世界にはいろんな人がいるんだということを理解することが大事だと思います」――

 例えそれが反社会的世界の入墨であっても、反社会的世界なりの一つの文化ではあるが、当然、それが反社会的世界を象徴する文化であるゆえに一般社会側から拒絶の対象足り得て許容はできないとしても、一般社会に於いても入墨は文化として存在し、その文化は他の文化と同様、多様性を持つ。

 温泉施設側はそのことの理解がなく、「入れ墨には威圧感を感じるお客さんも多」いと、入墨を反社会的世界の文化だとのみ固定観念としていることによって結果的に気づかないままに入墨文化の多様性を排除してしまった。

 昨年2月に市職員が児童福祉施設で児童に入墨を見せていたことが発覚したことを受けて橋下徹大阪市長が5月1日に全職員約3万8000人を対象に入れ墨の有無を調べる書面調査を始めた動機に似ている。

 橋下市長名通達「入墨が見えるような服装で業務を行うことは不適切で、市民の目に触れれば不安感や威圧感を持ち、市の信用失墜につながる」――

 橋下徹も入墨を反社会的世界の文化だとのみ把握している。 

 この温泉施設側の入墨反社会的世界単一文化論ともいうべき入墨観は次の記事での施設側の言い分に象徴的に現れている。

 《顔に入れ墨、マオリ女性の入浴断る 北海道の温泉施設》MSN産経/2013.9.12 13:31)

 温泉施設側(取材に対して)「伝統文化であっても、一般の方からすれば入れ墨の背景は判断できない」――

 確かに「一般の方からすれば入れ墨の背景は判断できない」という正当化理由は一見一理あるように見えるが、温泉施設側は単に入墨反社会的世界単一文化論に立って、自らの入墨文化論を一般社会の一般人の入墨観に機械的・一律的に網をかけたに過ぎない。

 入墨を彫っている人間を見たなら、それがどんな入墨でも、反社会的世界の人間に決まっているというわけである。

 上記「NHK NEWS WEB」記事の〈あごと唇に家系や社会的地位を表す「モコ」と呼ばれる入れ墨をしてい〉たという説明の参考に下記「MSN産経」記事に載せた無断引用写真からも分かるように、反社会的世界の入墨文化とは明らかに異なる入墨文化だと簡単に理解できるはずだ。

 当然、「入墨の背景」も異なり、そこに多様性を見なければならないことになる。

 例え一部のアフリカの原住民が慣習として全身に入墨を入れていたとしても、その入墨は日本の反社会的世界の入墨とは明らかに異なる。日本の反社会的世界の入墨は自分自身の勲章としていると同時に一般社会の一般人に対する威嚇としての文化をも担わせている。

 そのような文化であるからこそ、「入れ墨には威圧感を感じるお客さんも多く」ということになるが、入墨の排除・拒否はあくまでも反社会的世界の入墨に限ってという限定つきでなければならない。

 要するに温泉施設側は視野が狭く、哀しいことに狭い視野で入墨文化の多様性を排除したに過ぎない。

 この件で菅官房長官が9月13日午前記者会見で発言している。《マオリ女性入浴拒否、東京五輪控え「多用な文化への敬意、対応策必要」菅長官》MSN産経/2013.9.13 12:43)
 
 菅義官房長官「施設の判断で断ったのだと思うが、2020年の東京五輪開催にあたり、さまざまな国の方がわが国に来てくれることが予測される。

 外国の様々な文化に対して敬意を払い理解を進めていくことが大事だ。外国人を迎えるため、しっかりと対応策を考える必要がある」――
 
 こういった場合に用意されているような、ありきたりの発言となっている。「外国の様々な文化に対して敬意を払い理解を進めていくことが大事だ」と当たり前のことを当たり前のように言ってはいるが、日本人の多くが単一民族論・単一文化論に侵されていて、このことを背景とした、その延長線上にある日本人の多様性の排除傾向が誘発した温泉側の入墨反社会的世界単一文化論でもあり、単一民族論・単一文化論から脱することを前提としなければ、容易には解決できない外国の様々な文化に対する敬意と理解ということになる。

 菅義官房長官にはその認識がないから、ありきたりの発言で済ますことができる。

 日本国内に限っても律令社会以前から中国・朝鮮半島からヒト・モノ、文化・制度を受け入れて日本という国を成り立たせてきたのだから、単一民族・単一文化であろうはずはない上にグローバル社会の一員となった以上、多民族・多文化の多様な世界を日々刻々と生きなければならないはずだが、今更ながらに「外国の様々な文化に対して敬意を払い理解を進めていくことが大事だ」などと言っている。

 日本の政治家の情けない姿でもある。

 
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