川勝知事の校長名公表/テストの成績でその人の将来が決まるなら、お笑いタレントは殆ど存在しなくなる

2013-09-22 07:00:22 | Weblog



 2013年4月24日(水曜日)実施2013年度全国学力・ 学習状況調査で静岡県は小学6年生の国語のうち基礎的な知識をみる「問題A」で全国最下位の名誉ある成績を獲得したらしい。

 その名誉をどう讃えるかだが、静岡県知事の川勝平太65歳は成績の低い学校の校長名を公表する方針を示した。

 表彰台に立たせることまで考えたかどうかは分からないが、発表されたなら、高校や大学の合格者発表の掲示板に書かれた合格者名のように校長たちの名前は象徴的な意味で高々と掲げられることとなったに違いない。

 《静岡知事 成績低い校長名公表》NHK NEWS WEB/2013年9月9日 21時13分)

 9月9日の記者会見――

 川勝平太「危機感を持っている。責任は子どもではなく、子どもの能力を引き出す役割を担う先生にある。先生に責任感を持ってもらうために、成績が下から100校か平均点以下の学校の校長の名前を公表したい」――

 記事は、〈全国学力テストについては、序列化や過度な競争につながるのを避けるべきだとして、実施要領で個々の学校名は公表しないとされてい〉ると解説している。

 静岡県教育委員会「学校の序列化につながらないよう配慮が必要で、実施要領に反していないか、文部科学省にも問い合わせたうえで判断すべき」

 文部科学省担当者「校長名を出せば学校名も明らかになり、実施要領に反する。ルールに従ってほしい」――

 ところが、文科省は「学力向上に活用するためには、学校ごとに公表すべきだ」という指摘を考慮、専門家会議を設け、都道府県知事や市区町村長のほか、教育委員会や小中学校1000校、保護者約1万人を対象にアンケート調査を行っていて、今年11月をメドに今後の公表の在り方を纏めることにしていると記事は書いている。

 川勝平太の9月9日の記者会見から8日経過した9月17日、安倍徹静岡県教育委員会教育長が文部科学省から県教委に送付された学校別成績データを知事に非公表を条件に提出。

 川勝平太は非公表に不同意を表明。

 テレビで、教育長が成績データをテーブルに置いたまま立ち去ろうとしたのに対して川勝平太が「非公表できないのに置いていってどうするんだ」とか強い口調で言うと、教育長は振り返って持ち去っていくシーンを流していた。

 多分、川勝平太と教育委員会側と話し合いが行われたのだろう、3日後の9月20日、成績が下から100校か平均点以下の学校の校長名の公表ではなく、「現場で指導している先生を褒めるため」として、「国語A」の成績が全国の平均点以上だった86の小学校の校長名を20日夕方、県のホームページに50音順に公表したと別の「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。

 静岡県のHPを覗いてみた。参考までにHPで述べている川勝平太側からの公表の理由について記載してみる。 

 県民の皆様、特に先生方に

平成25年9月20日
静岡県知事 川勝平太
本日になってようやく、「全国学力・学習状況調査」の結果を示すデータを教育長から受けとることができました。

私は、自らの責任において、「全国学力・学習状況調査」に参加した県下507の小学校のうち、国語Aの成績が全国の平均点以上の86の小学校(全体の17%)の校長名を公表します(別紙1(PDF:55KB))。

 *なぜ校長名を公表するのか

校長名を公表するのは、学校教育の責任は現場の先生にあることを明確にするためです。

実施要領では、学校名の公表は禁じられています。校長名と学校名とは同じだという主張があります。それは誤っています。

学校と校長は同じではありません。なぜなら、学校は変わりませんが、校長・教師は異動するからです。よい教師に恵まれれば、その学校の教育水準はあがります。逆も真です。子供の能力を引き出すのは先生方の仕事です。子供の学力は教師の指導力・授業力に大きく依存しています。高校野球でも、よい監督に恵まれたチームは強くなりますが、監督の指導がよくないとチームの実力は伸びません。まして、小学校の子供の学力の伸びは、先生の指導力に大きく依存しています。小学校の校長は、その学校全体の教師の授業力・指導力をあげる責任をもっているので、責任をもっている者の氏名を公表するのです。

このたび、成績が上位の小学校の校長名を公表したのは、校長にもまして、その学校で実際に指導にあたっている多数の現場の先生方を褒めるためです。しかし、それが目的ではありません。

私の本当の関心事は、問題をかかえている先生方です。氏名を公表しなかった校長のもとで、日々子供と向き合っている先生方にこそ、私の最大の関心が向いています。うまくいっているところは放っておいてもよいのです。うまく指導ができないで困っている先生方は、私に勇気をもって申し出てください。助けます。

特に成績下位校の先生方の多くは問題や悩みをかかえているに違いありません。35人学級の実施にともない、かえって余裕を失っている学校のあることも知っています。問題をかかえた子供がいたり、日本語の不自由な子供がいたり、指導法に自信を失ったり、校長・教頭の管理職との関係がうまくいかなかったりと、悩まれている先生がいるにちがいありません。当初、成績下位校の校長のみを公表するといったのは、それらの学校の先生方に集中的に県の助力を傾注するためです。弱いところを支え、強くすることが、私の仕事です。ところが「校長の個人批判につながる」と県教委から強く反対されました。

たまたま成績が下位の学校の先生方は、独りで苦しんだり、悩んだりすることはありません。静岡県の教育方針は「地域の子供は地域全体で育てる」というものです。地域ぐるみ、社会総がかりです。地域社会の代表は県知事です。県知事としての私の信条は「来るものは拒まず、助力は惜しまず、見返りは求めず」です。知事室のドアは、いつも文字通りオープン、開いたままです。子供の指導で悩んでいる先生方は、いつでも来てください。助力を惜しみません。

 *これまでの経緯

ここに至る経緯を記しておきます。

8月28日(水曜日)―静岡新聞の一面トップに「本県小6国語A最下位」という大見出しが躍り、全国学力・学習状況調査の結果が文科省から発表されたことを知りました。私が結果を知ったのは県民の皆様と同じ日です。

8月29日(木曜日)―静岡新聞の社説の見出しは「全国学力テスト、最下位とはショックだ」です。
そして同日、この件をテーマに、県教育委員会が開かれました。

8月30日(金曜日)―静岡新聞が前日の県教委の議論の内容を一面トップで報道しました。見出しは「学力低下、危機感薄く、県教委、順位は議論されず」というものです。これを受けて、私はその日に県教育委員会にデータの提供を申し出ました。

驚いたことに、「データは届いておらず、文科省に照会する」というものでした。以後、再三、同じやりとりがありました。

9月9日(月曜日)―定例記者会見の日です。幹事社からあらかじめ寄せられた質問は「全国学力・学習状況調査の結果について知事の感想を求める」というものでした。ところが、データがないので、県教委に求めたところ、県教委担当課長から「文科省に照会中です」と、同じ返事でした。記者会見で私は質問に答え、「ショックを受けている。学校教育の責任は教員にあり、最下位の校長100名の氏名を公表します」と述べ、あわせて、県教委担当課長が同席していたので、突然、「いつデータが届きますか」と問いかけました。同課長は「9月中旬に届く予定で、それを知事に渡します」と記者団の前で明言しました。

後日、県教委は「データはすでに届いていた」とこれまでの説明を修正しました。

9月17日(火曜日)―教育長と教育委員長代理がデータをもって知事室を訪れました。しかし「校長名の公表は控えるべし」という条件がつけられたので、受け取りませんでした。

9月19日(木曜日)―昨日のことですが、私は県教委に「データの開示請求をするので、その用意をしていただきたい」と申し入れました。そうしたところ、本日の朝になって、教育長が教育委員長代理とともに、データをもってこられたという次第です。

私が県教委にデータ提供を申し入れた8月30日から、すでに三週間がたっています。

文科省が県教委にデータを送ったのは8月27日であったことがわかっています。それからすると、実に24日間もデータを県教委が独占し、秘匿していたことになります。

以上の経緯から、私は県教委の閉鎖的体質を改めて痛感しました。県の教育行政は改善の余地があります。県教委事務局には272人もの校長経験者、校長予備軍の教員がおり、その数は事務局員全体の6割をしめてます。県教委事務局の9人の課長のうち6人が校長経験者の教員です。このような方々は、子供から離れ、教室という現場とは別のところにおり、退職校長を含む、閉じられた校長サークルをつくっており、独善的ともいえる管理をしています。それを改革するために、先に教育委員会事務局組織体制の見直しに着手していますが、教育委の組織は岩盤のように固いというのが印象です。県庁内の椅子に座っている300人に近い事務局の教員の中には優れた教員がいます。彼らを子供たちのいる教室に戻すのが大きな目的です。

また、「全国学力・学習状況調査」については、テスト結果の入手がかくも難しく、一部の教育関係者の独占管理するところとなって、彼らの判断に基づいて、教育現場の先生が働かされるというのは、「民はよらしむべし、知らしむべからず」という専制者の姿勢ではないかと思います。知事は民の代表です。私を含む地域社会全体で検討したり、さまざまな地域の指導者とともに、子供の能力の開発に生かせないような「全国学力・学習状況調査」は不要ではないかとも思いました。

*現在進めている教育改革

この機会に、現在進めている本県の教育改革を紹介しておきます。

私は第一次安倍内閣の教育再生会議のメンバーでした。同会議では、ダメ教師を排除するという姿勢が強く出て、私は強い違和感をいだいていました。私の立場は、一貫しており、先生を大事にする、というものです。先生方を大事にしなければ、生徒はよくならないからです。知事に就任した4年余り前から一貫して教育改革をかかげ、先生方を大事にすると訴え、かつ政策を実施してきました。先生の負担を軽減するために、全国に先駆けて、一学級35人以下を小学校1年生から中学3年生まで前倒しで実現したのも、そのためです。

子供一人当たりの教育費が、静岡県は全国最低だという、現場を知らない誤った論評があります。過疎地や離島の小・中学校では、数人の生徒しかいません。中学では科目ごとの先生がいりますから、おのずと10人ほどの先生がつきます。ですから、子供一人当たりの教育費は高くなります。また、分校の数の多い都道府県も子供一人当たりの教育費は高くなります。

それに対し、静岡県は過疎の学校が少なく、分校は中学校は1校、小学校は5校しかありません。教師と生徒の数がバランスがとれ、効率的な学校運営ができています。数字をあげるなら、以下のことを見過ごすべきではありません。

各都道府県の歳出費に占める教育費の割合では、静岡県は全国で4位です。(平成21年度決算)
教育費の大半は人件費です。静岡県の教育費は全国で10位です。(平成23年度決算)
人材育成のためには予算は惜しんでいません。私は教育委員会の予算要求を削ったことはありません。もっと、予算を要求するようにと求めているほどです。良き人材すなわち徳のある人を育成することが本県の大目標だからです。

なお、現在進めている教育改革については、別紙2(PDF:168KB)(「教育改革に関する提案」)を参照してください。これらは、下村文科大臣にも報告してあります。以上。 

 校長名の公表は名前のみの羅列となっていて、面白味も何もない。どうせなら、顔写真付きで公表したなら、成績を上げている校長の顔というものをじっくりと拝めて、何らかの共通する情報を得て、ご利益を感じるかもしれないが、そんなこともない。

 尤も静岡県の小学校に通う子どもを抱えた父兄にとって、通う学校の校長名が乗っているかどうかは関心があるかもしれないが、載っていなければ、平均点以下の学校に通っていることを悟ることになるから、父兄からしたら、上位・下位、どちらの公表であっても、結果は同じである。

 校長からしたら、平均点以上で名前が公表されることは名誉となるかもしれないし、平均点以下で公表された場合の校長は不名誉となるだろうが、父兄や子どもにとってはどちらの公表にするかは小さな争いにしか見えないことになる。

 少なくとも父兄や子どもは小さな争いと見なけれがならないはずだ。なぜなら、テストの成績がすべてではないからであるのは断るまでもない。

 もし学校でのテストの成績がすべてで、テストの成績で将来が決まるなら、お笑いタレントは殆ど存在しなくなるだろう。中には京大卒だ、東大卒だといったお笑いタレントも存在するようだが、少なくとも芸能としてのお笑いは学校時代のテストの成績でその能力が決定されるわけではない。

 封建時代の足軽がよく付けている名前にあるような川勝平太は最初の方で、「校長名を公表するのは、学校教育の責任は現場の先生にあることを明確にするためです」と言っているが、全国学力テストの成績に限定した「学校教育」とし、「学校教育の責任」としている。

 その貶め・間違いに気づかない。

 改めて言うが、子供の将来は学校のテストの成績を絶対基準として決定されるわけではない。だが、テストの成績を絶対基準とした学校評価・校長評価となっている。

 このような評価基準は成績の上位・下位に関係せずに校長をしてテストの成績を上げなければならないとう強迫観念を植えつけ、テストの成績向上に特化した学校教育に走らせることになるだろう。

 現在に於いても、また将来に於いてもテストの成績がすべてではない子どもにとって、テストの成績向上に特化した学校教育は偉い迷惑で、そのような教育の被害者とならない保証はない。

 例え元々テストの成績が良い子どもであっても、学校教育がテストの成績向上に特化され、そのことだけを目的とした場合、学校教育の優先順位を現在以上にテスト教育に置くことになり、当然、時間の点でもエネルギーの点でも、注力に関してテスト教育に重きが置かれて、結果としてより肝心な人間教育が時間の点でもエネルギーの点でも削られていく反対給付を必然とすることになり、テスト教育の犠牲者という位置づけに変りはないはずだ。

 こういった状況を迎えた場合、テストの成績を上げなければならないという強迫観念は校長や教師だけではなく、子どもたちにも植えつけることになるだろう。

 学校教育がテスト教育一辺倒に彩られ、テストの成績が良い子どもに対しても悪い子どもに対しても、それぞれの尻を叩いて成績を上げさせるのではなく、将来的に自分の可能性を見つけることができるキッカケを学校生活の中で教えることが公平な学校教育であるはずだ。

 「テストの成績がすべてではない。テストの成績に関係なく、何か取り柄のある人間に育て」と、あくまでも人間を基準とした教育のことを言っている。

 人間を基準とせずにテストの成績を基準とした学校教育を日本の教育としながら、一方で規範意識を欠いているだ、道徳心がないだと、その人間性の欠如を騒ぐ。

 あるいはコミュニケーション能力を欠いているだ、何だと、人間能力の欠陥を騒ぐ。

 川勝平太は「Wikipedia」によると、早稲田の大学院経済学研究科を博士課程単位取得満期退学し、オックスフォード大学大学院を修了、前職は静岡文化芸術大学学長であって、先に掲げた校長名公表の理由の中で、「私は第一次安倍内閣の教育再生会議のメンバーでした」と言っている。

 要するに学校教育に造詣深い人間であるはずだが、テストの成績を基準とした教育観に侵されているこのような川勝平太を教育再生会議のメンバーの一人とする安倍晋三も大した教育観の持ち主でないことを暴露することになる。

 最後にもう一度言う。お笑いという素晴らしい能力を日夜発揮するお笑いタレントはテストの成績を能力の出発点としたわけではないはずだ。殆どがテストの成績を排除した場所から巣立っているはずだ。

 将来を決定する可能性は多様に亘るということに常に留意しなければならない。

 参考までに。

 2008年10月18日記事――《大阪府学力テスト結果開示/テストの成績が生徒すべての可能性を約束するわけではない - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》  

 2008年12月27日記事――《橋下府知事/テスト成績を公表するのが「バカ」なのか、しないのが「バカ」なのか ‐『ニッポン情報解読』》


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする