40歳女性の人を助けようとして自分が生命(いのち)を落とすことになった踏切事故に感じた個人的な謎

2013-10-06 11:53:51 | Weblog


 
 9月1日(2013年)午前11時半頃、40歳の女性が横浜市緑区のJR横浜線踏切内の線路上に横たわっていた74歳の男性を助けようして、自身は電車にはねられて死亡し、男性は鎖骨を折るなどの重傷を負ったものの一命を取り留める事故が起きた。

 助けようとした人間が命を落とし、助けられた人間だけが助かるというのはまさに皮肉な結果としか言いようがないが、マスコミは不謹慎と考えたのか、誰も皮肉な結果とは書いていない。

 私自身は、「皮肉だな」と思った。年齢で生命(いのち)の価値に上下の差別をつけてはならないが、74歳の男性が助かり、40歳の女性が亡くなったことにも、正直な感想として皮肉を感じた。

 「MSN産経」記事によると、74歳の男性は神奈川県警緑署や目撃者の証言として、〈レールの上に首を置いた状態で倒れていたが〉、女性がその身体を線路の間に横たわらせる状態に向きを変えたために電車がその上を通過、緑署はそのことが救命の原因となったと見ているという。

 〈レールの上に首を置いた状態〉とは、レールを枕にして身体を仰向けに寝かせた姿勢で気を失っていた、あるいは半意識状態で朦朧としていたことを言うはずだ。いわばそのような心身状態でレールに対して身体を直角に位置させていたことになる。

 仰向きになって喉の辺りをレールに乗せていたなら、〈レールの上に首を置いた状態〉とは言わないだろう。

 女性は警報が鳴って降りてきた遮断機で停車した車列の先頭の父親の運転する車の助手席に座っていて、線路上に倒れている男性を目撃、父親の制止を振り切って車から降り、遮断機を潜(くぐ)って踏切内に足を踏み入れ、助けに向かった。

 非常ボタンを押した人「ちょうど、女性の方は、お父さんと一緒に車に乗っていて、言い争いというか、『やめろよ』みたいな形で。お父さんは、『危ないから』と言われていたみたいです。車から出ようとするのを止めていました」(FNN)――

 助ける、いや、危ないからやめろといった言い合いはあったのだろうが、「車から出ようとするのを止めていました」という目撃と運転席と助手席の間での父親の娘に対する制止から考えて、父親が娘の腕を掴んでか、服を掴んでの制止ということでなければならない。

 目撃者は実際に父親の制止する言葉を聞いたわけではなく、印象から制止の言葉を発していると見えた。そういった状況下で、もし最後まで「おい、やめろ」といった言葉だけの制止だとしたら、離れた位置から「車から出ようとする」態勢にあった女性に対する制止を窺うことは困難だろう。

 助ける、いや、危ないからやめろといった言い合いが女性が車を降りようとする瞬間、服を掴むか腕を掴むかする身体的制止が加わったと考えるのが自然であるはずだ。

 例えそうではなかったとしても、父親の制止によって僅かであったとしても時間を取られたことは皮肉な結果を招いた一因となったことを認めないわけにはいかないはずだ。

 いわば父親の制止が災いしたと言うこともできる。尤も父親はその時点で最悪の結果を予想し得なかったのだから、制止したことに関しては父親に責任があるわけではなく、あくまでも結果論に過ぎない。 

 皮肉な結果となったなという思いと同時に40歳の女性の行動は美しい勇気ある行動だが、記事が伝えていないことに関していくつかのごくごく個人的が謎が残った。

 先ず74歳の男性が〈レールの上に首を置いた状態で倒れていた〉と言うが、何か持病を抱えていて、踏切を渡る途中、突然何かの発作に襲われて〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉込んだのだろうか。

 単に線路につまずいて倒れたというのなら、前方に倒れるだろうから、後頭部を打つ危険性は少なく、すぐに立ち上がることができたはずだ。

 足をひねるかして倒れたとしたら、足のひねりと同時に身体をひねることになって側頭部、最悪後頭部を打つ可能性は否定できず、直ちに立ち上がることができなくても不思議はないが、〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉るには、レールの一歩か二歩手前で倒れなければ、都合よく〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉ることはできない。

 レールにつまずいて〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉るには、特異な偶然を必要とする。

 当然、レールの手前で段差等、けつまずく障害が何もなかったにも関わらず、何かの持病を抱えていて、突然の発作に襲われて倒れ込んで、〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉たとしか考えることができない。

 どの記事も持病があったことも、逆に健康な状態であったことも触れていないから、健康状態を窺うことができないが、持病あるなしに関係せずに、あるいは発作があったなしに関係せずに、〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉るもう一つの可能性として覚悟の自殺を考えることができる。

 不謹慎で想像してはいけないことだし、そんなことはあるはずはないと思いながら、「MSN産経」記事が父親の話として、〈踏切の手前で停車したところ、反対側から無職男性が踏切内に入るのが見えた。その後、男性は線路内でうずくまるような格好をして、首を線路に乗せた。〉と伝えている。

 記事の解説から見る限り、遮断機のある踏切は電車が通過する際は先ず警報音が鳴ってから一定の間隔を置いて遮断機が降りる仕掛けとなっているから、74歳の男性は少なくとも警報音を無視して踏切内に入ったことになる。そして〈線路内でうずくまるような〉行動を取ってから、〈首を線路に乗せ〉る順序立った特定の行動を意図したことになって、突然の発作に襲われたとは考えにくい。

 もし警報音が鳴っていた時点で既に何かの発作の初期状況に見舞われて警報音が聞こえない状態になっていたとしても、そうであるなら、足取りにふらつくかよろよろするかの何らかの症状が現れていて、誰かがその様子を目撃するはずだ。

 だが、触れた記事に関してはそういった事実を伝えている記事を見かけることはできない。

 覚悟の自殺を意図して〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉たとしたら、その生命(いのち)を危険を顧みずに助けようとした40歳の女性が逆に生命(いのち)を落とし、自殺を意図した74歳の男性の生命(いのち)を助けたことになって、その皮肉な結果は譬えようもなく滑稽な憤りを感じないわけにはいかない。

 もう一つの謎は父親の危険だからと制止した態度は無理のないことだとしても、娘が遮断機を潜って線路内に立ち入った時点で、なぜ娘の救命を助ける行動に出なかったのだろうか。

 父親はまだ67歳だというから、一般的にはまだまだ元気だろうし、必死になって行動すれば、普段以上の力を発揮する。

 運転席に座ったまま、娘が線路上に倒れこんだ74歳の男性の身体を動かそうとする姿と電車が近づいてきて、娘の身体に衝突、その身体を跳ね飛ばす瞬間を逐一傍観していた。

 あるいは電車が娘を跳ね飛ばそうとする瞬間、ハンドルに顔を伏せて目を閉じたかもしれない。

 父親だけではなく、目撃者にしても非常ボタンを押した人も、誰も助けに出ず、傍観者となっていた。

 事故後、父親はその日の夕方、自宅前で記者に対してだろう、娘の死について話している。

 父親「助けた人が無事というのが、せめてもの救いだが、私より先に死んでほしくなかった。遮断機が下りる前に踏切を渡っていればよかった」(TOKYO Web)―― 

 自身を慰めるに「せめてもの救い」としか言い様がないのだろうが、74歳の男性を助けて、助けようとした40歳の自分の娘が助けた男性よりも遥かに若いのに命を落とさなければならなかったことの不条理と同時に娘の行動を最初は制止し、行動に出てからも傍観者であり続けたことの自責の念を何も感じなかったわけではあるまい。
 
 だが、残酷なことであっても、傍観者であり続けたことをも含めた起こったことの事実はもはや変えることができないにも関わらず、あるいは現実を受け入れなければならないにも関わらず、遮断機がまだ降り始めない内の警報音だけが鳴っている間に無理して踏切を渡っていれば、何事も起こらなかったはずだという思いからの「遮断機が下りる前に踏切を渡っていればよかった」という後悔は不条理な事実ばかりか、傍観者であり続けた事実をも抹消できるという願望からも発した思いであるはずだ。

 父親は今後、その不条理の思いと自身が傍観者であり続けたことの自責の念との、明らかに後者が上回ることになる差引き勘定に苦しめられることになるのではないだろうか。

 そのことをも不条理そのものではあるが。

 自らの生命(いのち)を顧みずに人命救助に向かった女性の勇気ある行動にJR東日本が事故現場の踏切に設けた献花台に多くの人が訪れて花を手向け、女性の冥福を祈ったと多くの記事が伝えている。

 神奈川県も横浜市も感謝状を送り、神奈川県警も感謝状を送るということである。

 菅偉義官房長官の9月4日の記者会見。

 菅官房長官「他人にあまり関心を払わない風潮の中で、他人のために自らの生命の危険を顧みず、救出に当たった行為を国民と共に胸に刻んでまいりたい。安倍総理大臣は、『勇気ある行為を、国民の皆さんの胸に刻んでおくという意味で、ぜひ、讃えたい』と話している」(NHK NEWS WEB)――

 その上で、女性に対して安倍晋三がその勇気ある行為を讃えると共に弔意を表す感謝状を贈ることと、4日の閣議で人命救助活動で功績のあった人や団体に贈られる紅綬褒章を贈ることを決めたことを発表したという。

 感謝状は菅官房長官がが9月6日に遺族の元に届けるということだ。

 果たしてこういったことだけで片付けていいことなのだろうか。

 美しい勇気ある行動であることは誰もが否定できない事実だが、いくつかの謎が釈然としない疑問を残すことになった。

 余談だが、倒れている身体を移動させるには身体を仰向かせて、頭の方から両腋に左右の手をそれぞれ差し込み上体を持ち上げるか、足の方から足首を握って引くずるかして移動させるが、体重が重くて女性の力では上体を持ち上げることができなければ、後者の方法で引きずる方が移動させやすい。

 線路上、あるいは路上に電車や車の通行方向と平行に倒れていた場合、通行方法と直角の方角に自分を位置させて電車や車を避ける方法で身体を移動させることによって、自身をより安全に守ることができるようにしなければならない。

 だが、今回の場合、レールを枕にして線路に直角に仰向きになっていた状態であったことを考えると、下半身が線路からより多くはみ出していたはずだから、最初から線路の外に自分を位置させておき、電車が走ってくる方向に視線を向けながら、足を引っ張ってそのまま線路とは直角の方向に引きずり出す遣り方で助け出す方法を取り、間に合わないと思ったなら、足を離して自分だけ助かる道を選択しなければならなかったはずだが、焦っていたのか、あるいは助け出すことだけを考えて夢中になっていて電車の警笛が耳に入らなかったのか、線路に直角に倒れていた男性を逆に自身も線路内に入って、レールとレールの間に平行に移動させてしまった。

 止むを得ないことだったとしても、その間違いは物悲しい。

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