安倍晋三の福島の事故関係の外国技術吸収を「苦い教訓」とする言葉の感性と日本のNIH症候群言及の蒙昧性

2013-10-09 09:19:36 | 政治


 
 安倍晋三が10月6日(2013年)の「科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム」(STSフォーラム)年次総会の挨拶しているが、「フクシマと事後の顛末」に関して外国の技術と知恵を学ばなければならなかったことを「苦い教訓」だと言っているように私には思えて仕方がない。

 「科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム」2013年年次総会安倍晋三挨拶(首相官邸/2013年〈平成25年〉10月6日)
  
 安倍晋三「尾身会長、御列席のゲスト、ならびに参加者の皆様、皆様方の年次総会が10周年を迎えましたことを、お慶び申し上げます。歴史的な機会に参加をさせていただいて、大変嬉しく思っています。
 さて、皆様は、科学者でいらっしゃる。あるいは技術の専門家です。大学の先生も大勢おいでで、皆様にとって大事なお仕事は、見たり、聞いたりしたことを吟味して、評価することではないでしょうか。これは、少しばかり危険な場所へ来たなと思っているところです。

 ですからここは極力短く、ポイントをいくつかご紹介するだけに留めることにします。

 第一の点とは、我が国が学ばざるを得なかった、苦い教訓についてです。STS、それは科学と、技術の、社会におけるあり方という意味ですが、まさしくそのことを、私達はこれ以上ない厳しさとともに学んで参りました。フクシマと事後の顛末についてであります。

 申し上げますが、俗にいうNIH症候群、つまり技術における自前主義の病弊から、私どもはもはや、脱しました。課題への対処のためには、世界中から、能うる限り最も先進的な知見を吸収しなくてはなりません。そのため広く、自らを開いております。
 
 打ち続く問題との取り組みに、我が国は皆さまの知恵を必要としています。ご専門の知識を必要としています。

 一方我が国とその技術にも、世の中に役立つものがあります。それが第二のポイントです。

 試みに、ご想像いただきたいのですが、中国とインドにある製鉄所が、日本の技術を採り入れたとしますと、それだけで、温暖化ガスの排出を大いに削減することができます。2030年時点での削減幅は5億トン。これがどれくらいの規模かというと、日本全体が現在1年で排出する量の、4割に相当します。

 カーボン・ファイバーが、もうひとつの例です。非常に強い素材ですから、自動車で使用する鉄を、代替できます。同時に極めて軽量なので、クルマにカーボン・ファイバーを用いれば用いただけ、少ない量のガソリンしか使わないですみます。

 こうしたことから予測をし、2050年時点で、現状に比べ二酸化炭素の排出量は47億トン減らせるとする見立てがあります。日本全体の、現在の排出量に対し、4年分に当たる量です。そしてカーボン・ファイバーを最も多く生産するのはというと、日本です。市場シェアは、およそ7割になります」――

 「NIH症候群」という言葉の意味は発言趣旨から大体のところを汲み取ることができたが、具体的には知らなかったから、インターネットで調べてみた。

 「NIH症候群」(英: Not Invented Here syndrome)――「ある組織や国が別の組織や国(あるいは文化圏)が発祥であることを理由にそのアイデアや製品を採用しない、あるいは採用したがらないこと」。

  「Invente」――「考案する。発明する」

 簡略化させて、「自前主義」との意味を与えているようだ。

 安倍晋三の発言は一見すると、「フクシマと事後の顛末」は「我が国が学ばざるを得なかった、苦い教訓」だと言っているように見えるが、「STS、それは科学と、技術の、社会におけるあり方という意味ですが、まさしくそのことを、私達はこれ以上ない厳しさとともに学んで参りました」と言っているように、「苦い教訓」と表現した経験に対する学習の具体的対象は「科学と、技術の、社会におけるあり方」であって、「フクシマと事後の顛末」を学習の具体的対象としているわけではないことと、「科学と、技術の、社会におけるあり方」とは、日本は技術の自前主義の病弊から脱して世界の技術と知見を「吸収」し、その一方で日本の技術と知見も外国は必要としているとする技術と知見の相互主義への言及であって、そのような発言の趣旨から判断して、「フクシマと事後の顛末」について外国の技術と知恵を学び、吸収しなければならなかったことを「苦い教訓」だと表現しているはずで、私にはそのようにしか解釈できない。

 「フクシマと事後の顛末」に関わる対応で外国の技術と知恵を取り入れなければならなかったことを「我が国が学ばざるを得なかった、苦い教訓」だと表現することは果たして妥当と言えるだろうか。

 「学ばざるを得なかった」という言葉の意味は、「学ばないわけにはいかなかった」、あるいは「学ばなければならなかった」という意味で、必要性を見極めた上での自発的な外国の技術・知識の積極的採用ではなく、自前の技術では補うことができなかったことからの止むを得ない選択という非自発的な採用を指しているはずである。

 このことは外国の技術・知識の学習を「苦い教訓」としていることにも現れている二重の非自発性でもあるはずである。

 「苦い教訓」とは積極的に否定すべき経験を対象として、そこから以後の行動に役立つ何らかの反面教師的な学習材料を学び取り、それを生かして初めて、「苦い教訓」との価値づけが可能となる。

 例えば日本の戦後の平和国家としての歩みは戦前の侵略戦争と植民地主義を否定すべき経験とし、それらを反面教師として歴史的な「苦い教訓」としたからこそ、可能となったようにである。

 当たり前のことだが、肯定すべき経験を決して「苦い教訓」とは言わない。

 だが、「フクシマと事後の顛末」に関わる対応で外国の技術と知恵を学んだことを「苦い教訓」とすることは、外国の技術と知恵の学びを否定すべき経験とすることになって、安倍晋三の言葉使い方のセンスの問題となる。

 以上のことが勘繰りでしかない解釈間違いだとしても、何も問題がないわけではない。「フクシマ」の事故が起きて初めて「NIH症候群、つまり技術における自前主義の病弊」から脱出できたとしている点である。

 そして今更ながらに外国の技術と知恵の吸収と日本の技術と知恵の外国に於ける利用の相互主義に言及する。

 この蒙昧性は如何ともし難い。

 律令時代は中国・朝鮮の技術や文化を学び、室町・安土桃山時代以降はポルトガルから技術を学び、江戸時代に入ってオランダから、幕末以降はイギリスやフランス、ドイツの技術を学び、戦中から戦後以降はアメリカの技術を主として学んで日本の技術を成り立たせ、国を発展させてきた姿を取ってきた。

 いわば「技術における自前主義」と言っても、日本の技術の大本(おおもと)は外国の技術であって、実態は外国の技術に日本の改良を加えて自前とした技術であって、そのような技術の偏重(裏返すと外国技術の排斥)を以って自前主義だとしたのは単なる勘違いの罷り通りに過ぎず、純粋に自前とする技術は殆ど存在しないのが実情であろう。

 安倍晋三にしても自前とする勘違いに陥っていたからこそ、今更ながらに「我が国が学ばざるを得なかった、苦い教訓」だなどと、技術と知恵の外国との間の相互主義に言及することになったはずだ。

 日本の自前技術を譬えるとするなら、文字を持たなかった日本民族が中国から「漢字」が伝わって文字を持つことになり、その漢字からひらがなとカタカナをつくり出したことを文字に於ける日本の自前の技術と言うことができ、外国の技術と自前の技術の関係性をそこに見ることができる。

 では、外国の技術の助けなし日本の技術を確立することができなかったにも関わらず、いわゆる自前とすることができなかったにも関わらず、なぜ日本人は、安倍晋三にしてもそうだが、「技術における自前主義の病弊」に陥ったのだろう。

 それは日本人が持つ日本民族優越主義と健忘症が成せる技としか答を見い出すことはできない。民族的優越意識が客観的認識性を奪ってありとあらゆる相互主義を排除し、結果として自己を絶対視するに至っていたために、そこに健忘症を介在させることになり、日本という国が日本の技術だけで成り立たせてきたわけでもないのに日本の技術は優秀だという過信に取り憑かれて「技術における自前主義の病弊」に陥ることとなった。

 安倍晋三は特にその傾向が強いにも関わらず、技術の相互主義を言い出したのは発言の場が「科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム」であったことと、日本の技術を海外に売り込んで日本の経済成長の一助としなければならない立場に立っているからだろう。

 日本が福島原発事故に終止符を打ち、一定の期間が経ったなら、再び健忘症が頭を持ち上げて、残存している日本民族優越主義から、「技術における自前主義の病弊」に再度陥らない保証はない。

 相互主義を常に頭に置くことが唯一、日本民族優越主義を免れる有効な道であろう。男性と女性の関係も同じで、そこに相互主義を置いていないと、それぞれに強弱はあるだろうが、男尊女卑の上下関係を取ることになる。

 安倍晋三の相互主義が俄仕込み(にわかじこみ)だとすると、普段言っている「女性の活用」も経済成長に利用するためだけの活用の疑いが濃い。

 いずれにしても安倍晋三の挨拶から、そのお粗末・貧困な客観的認識性を窺うこととなった。

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