この記事では、「Wikipedia」が取り上げている情報や『文藝春秋』2007年4月特別号の『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』に記してある情報、あるいは2012年8月15日NHK総合テレビNHKスペシャル「終戦 なぜもっと早く決められなかったのか」で放送された情報等、既に広く知られている情報を、以前ブログに利用した趣旨と違って、戦前の日本指導部が如何に無能集団であったかを証明する趣旨で再度利用することになることを前以てお断りしておく。
中国も韓国も閣僚やその他の国会議員の靖国参拝をA級戦犯が合祀されていることを主たる理由として批判している。対して右翼の軍国主義者安倍晋三に任命された菅官房長官の立場は、右翼の軍国主義者安倍晋三のお友達なのだから、当然のことだが、A級戦犯合祀容認の立場を取っている。
《A級戦犯も慰霊対象=菅官房長官》(時事ドットコム/2013/10/18-20:23)
10月18日の記者会見。
菅官房長官「国のために戦って貴い命を犠牲にされた方に尊崇の念を表明するのは当然のことだ。
(A級戦犯合祀に関して)亡くなった方というのは皆、一緒にとらえるのが日本の歴史ではないか」――
要するに生きて国家の運営に携わっていた責任の質は一切問題とせず、死ねばその責任の質は消え去り、国家指導者も一般戦死兵士もそれぞれの責任を問題としない同等の存在となるということを宣言している。
死後はそのような扱いでいいのかもしれない。死後のことを問題にしているのではない。生きて国家の運営に携わっていた責任の質を問題にしているのであり、歴史を記すためにも問題としなければならないはずだ。
問題としないから、日本は、あるいは日本人は戦争を総括することができない。戦前の日本はどこが間違っていたのかの歴史的検証を回避することになる。
国家の指導部に所属した人間の生きて国家の運営に携わっていた責任の質を問わないということは、同時に歴史の否定となるはずである。少なくとも歴史の曖昧化の意志を窺うことができる。
「亡くなった方というのは皆」、如何に無能な人間たちであり、無能な人間たちによって戦前の日本の国家指導部が成り立っていたのかということと、国家指導部に属した人間を一般戦死兵士と「一緒にとらえ」て、死後の世界の問題とのみ把えて矮小化することも、歴史の事実を抹消することも決してできないことを証明したいと思う。
先ず、日本の対米英開戦時の内閣総理大臣である東条英機。東京裁判でA級戦犯(平和に対する罪)に問われて死刑宣告を受け、処刑され、1978年(昭和53年)10月17日、「昭和殉難者」(昭和の時代の国家の犠牲者)として靖国神社に合祀された。
国家の犠牲者と把えるのではなく、国家を犠牲にしたと把えるべきだろう。
「Wikipedia―東条英機」から。
1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務める。
1941年(昭和16年)10月14日の閣議。
近衛首相(日米衝突の回避を願って)「日米問題は難しいが、(中国に於ける)駐兵問題に色つやをつければ、(和平の)成立の見込みがあると思う」
東条英機陸軍大臣「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか。譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交か、降伏です」
形は天皇統治下の内閣制であっても、軍部が実権を握っていた。「軍部大臣現役武官制」によって陸軍大臣・海軍大臣共に補任資格を現役大将・現役中将と規定され、シビリアンコントロールの思想は未だ存在していなかった。首相主導の政策に不満があった場合、陸軍大臣か海軍大臣のいずれかが辞任して後任を送らなければ、内閣は機能停止し、総辞職せざるを得なくなって、結果として政治をコントロールできる。
近衛文麿は東条の反対によって、逆に辞表を提出。
近衛文麿辞表「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが、遂に説得出来ず輔弼(ほひつ・天皇を補助すること)の重責を全う出来ない」
「Wikipedia」――〈近衛の後任首相については、対米協調派であり皇族軍人である東久邇宮稔彦を推す声が強かった。皇族の東久邇宮であれば和平派・開戦派両方をまとめながら対米交渉を再び軌道に乗せうるし、また陸軍出身であるため強硬派の陸軍幹部の受けもよいということで、近衛や重臣達だけでなく東條も賛成の意向であった。
ところが木戸幸一内大臣は、独断で東條を後継首班に推挙し、天皇の承認を取り付けてしまう。この木戸の行動については今日なお様々な解釈があるが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であったので、昭和天皇の意を汲んで戦争回避にもっとも有効な首班だというふうに木戸が逆転的発想をしたととらえられることが多い。天皇は木戸の東條推挙の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。この首班指名には、他ならぬ東條本人が一番驚いたといわれている。〉――
木戸幸一内大臣「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。(東久邇宮以外に)宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。・・・優諚(ゆうじょう・天子の有り難い言葉)を実行する内閣であらねばならなかった」
東条英機は天皇の意向を受けて、対米戦争回避=対米和平交渉に努める。外相に対米協調派の東郷茂徳を据えたのも、その現れだとしている。
日本側の和平案に対してアメリカは1941年11月26日提示のハル・ノートを以って返答とした。
中国本土からの即時全面撤退
重慶政府(蒋介石国民党政権)以外の政府の否認
三国同盟の否認(『大日本史広辞典』山川出版社)
当時南京に日本傀儡政権の汪兆銘政権が存在していた。毛沢東の中共軍は第2次国共合作によって蒋介石国民党政権に組み込まれていた。
日本と日本軍が汪兆銘政権を使って戦う相手は重慶の蒋介石国民党政権であったから、それを唯一の政権として認めることは中国に於けるすべての権益の放棄を意味し、中国本土からの即時全面撤退と同意味を成す。全面撤退は汪兆銘政権の崩壊へと進み、蒋介石国民党政権を唯一政権とすることを結果とするだろうからである。
東条英機はハル・ノートを最後通牒と受け止め、対米開戦へと傾いていく。
だが、東条英機の本質は中国大陸の維持=日本化である。東条にしたら、それまでに支払った日本の甚大な犠牲から判断してもを中国を手放すことはできなかったろう。
犠牲に見合う権益を中国大陸に確保しない限り、アメリカのどのような妥協を図る和平案も受け入れることはできなかったに違いはない。
勝てる見込みのないことを計算できずに勝てる見込みありと計算して対米戦争に突入していったのだから、どのみち開戦を選択したはずだ。
以下、「Wikipedia―総力戦研究所」から。
昭和15年(1940年)9月30日付施行の勅令第648号(総力戦研究所官制)により内閣総理大臣直轄の研究所として総力戦研究所が設立された。
国家総力戦に関する基本的な調査研究と同時に総力戦体制に向けた教育と訓練を設立目的とし、研究生は各官庁・軍・民間などから選抜された若手エリートたちとなっている。
昭和16年(1941年)7月12日、飯村総力戦研究所長から研究生に対して日米戦争を想定した、研究生を閣僚とした演習用の青国(日本)模擬内閣実施の第1回総力戦机上演習(シミュレーション)計画が発表された。
東条英機が1941年(昭和16年)10月18日に首相就任する3カ月前で、当時は陸軍大臣の地位にあった。
〈模擬内閣閣僚となった研究生たちは1941年7月から8月にかけて研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。
その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。
これは現実の日米戦争における(真珠湾攻撃と原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致するものであった。
この机上演習の研究結果と講評は8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』において当時の近衛文麿首相や東條英機陸相以下、政府・統帥部関係者の前で報告された。
研究会の最後に東條陸相は、参列者の意見として以下のように述べたという。
東条英機「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戰争といふものは、君達が考へているやうな物では無いのであります。
日露戦争で、わが大日本帝國は勝てるとは思はなかつた。然し勝つたのであります。あの当時も列強による三國干渉で、止むに止まれず帝国は立ち上がつたのでありまして、勝てる戦争だからと思つてやつたのではなかつた。
戦といふものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がつていく。したがつて、諸君の考へている事は机上の空論とまでは言はないとしても、あくまでも、その意外裡の要素といふものをば、考慮したものではないのであります。なほ、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬといふことであります。」〉――
先ず第一に1904年(明治37年)2月8日から1905年( 明治38年)9月5日までの日露戦争を戦った時代と1940年代後半の時代との違いを無視している。日本でもその時代から技術の進歩を果たして、当時の日本に至っているはずだが、アメリカの技術にしても進歩を果たしていて、その両者の進歩の速度・違いを見極める合理的な目を持っていない。
陸軍大臣でありながら、この無能は如何ともし難い。
本来なら、「如何なる策を以ってしたなら、勝算ありや」と聞き、それもでなお総力戦研究所の模擬内閣閣僚たちが、「如何なる策を以てしても勝算なし」と答えたなら、譲歩に譲歩を重ねて対米開戦を回避すべきを、そういった選択をしなかった。
また技術の進歩や自国資源の違いによって生じる、国民総生産は約1千億ドルと10倍以上、総合的国力は約20倍の格差があったと言われていた、総力戦研究所の研究生によって構成された模擬内閣閣僚が目を向け、現実の日米戦争に於ける(真珠湾攻撃と原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致していたのだから、冷静かつ合理的に計算したその日米の差に向ける目をも欠いていた。
また、現役の軍人であり、陸軍大臣でありながら、国力や軍事力、戦術等の彼我の力の差を計算に入れた戦略(=長期的・全体的展望に立った目的行為の準備・計画・運用の方法)を武器とするのではなく、それらを無視して、最初から「意外裡」(=計算外の要素)に頼って、それを武器にして巨大国家アメリカに戦争を挑もうというのだから、精神力に傾斜した合理性の欠如を指摘されても仕方があるまい。
だが、こういった無能な人物が大日本帝国軍隊で出世し、関東軍参謀長となって、陸軍大臣となり、ついには首相となって、日米開戦を決定した。
大日本帝国陸軍自体が無能集団であったからこそ、無能な人物の出世を許すことになったはずだ。
無能な人物をトップに据えるということは組織の構成員が全体的に無能だからである。全体的に有能な人物で組織が構成されていたなら、無能な人物が組織のトップに上りつめることなどあり得ない。
無能のどんぐりの背比べで組織内で出世できるシステムになっていたからこそ、無能がトップを占めることができる。そして無能なトップに無能集団が動かされることになる。
いわば大日本帝国軍隊という集団の無能があって、その偉大なる反映として陸軍大臣東条英機の、あるいは大日本帝国総理大臣東条英機の無能があったと言うことができる。
太平洋戦争開戦時の陸軍参謀総長だった杉山元の無能さ加減を見てみる。
『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』(文藝春秋/2007年4月特別号)から。
〈日記「昭和16年9月5日(金)」
近衛首相4・20-5・15奏上。明日の御前会議を奉請したる様なり。直に御聴許あらせられず。次で内大臣拝謁(5・20-5.27-5・30)内大臣を経、陸海両総長御召あり。首相、両総長、三者揃って拝謁上奏(6・05-6・50)。御聴許。次で6・55、内閣より書類上奏。御裁可を仰ぎたり。〉――
これだけの記述だが、昭和史研究家・作家の半藤利一氏が解説を加えている。
半藤一利氏解説「改めて書くも情けない事実がある。この日の天皇と陸海両総長との問答である。色々資料にある対話を、一問一答形式にしてみる」
昭和天皇「アメリカとの戦闘になったならば、陸軍としては、どのくらいの期限で片づける確信があるのか」
杉山陸軍参謀総長「南洋方面だけで3ヵ月くらいで片づけるつもりであります」
昭和天皇「杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あの時、事変は1カ月くらいにて片づくと申したが、4ヵ年の長きにわたってもまだ片づかんではないか」
杉山陸軍参謀総長「支那は奥地が広いものですから」
昭和天皇「ナニ、支那の奥地が広いというなら、太平洋はもっと広いではないか。如何なる確信があって3ヵ月と申すのか」
半藤一利氏解説「杉山総長はただ頭を垂れたままであったという」――
以前ブログに次のように書いた。〈支那の奥地が広いことは支那に侵略して初めて知った地理的特徴ではなく、最初から把握し、その情報をも参考にして立てた支那支配の、あるいは支那植民地化の戦略であったはずである。
それを後になってから支那の奥地の広さを知ったかのように戦争膠着化の言い訳に使う。
1937年(昭和12年)7月7日の蘆溝橋事件に端を発した支那事変(日中戦争)は結局のところ日本が1945年8月15日のアメリカとの戦争による敗戦に伴って終結することになった。1カ月くらいで片付けるつもりであったのが、その96倍の8年間も手こずって、手こずったままの状況で日本の方が退散することとなった。
大日本帝国軍隊が支那一つに手こずっていたにも関わらず、国力も軍事力も桁違いに大きなアメリカに「3カ月くらいで片づけるつもりで」1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾奇襲を以って戦争を挑み、「3カ月」が3年8カ月もかかって、それも戦争に勝利したなら、「3カ月」が3年8カ月もかかろうと言い訳も立つが、日本の方が無残にも片付けられた。
杉山陸軍参謀総長のこの有能さを以ってのことなのだろう、二人しか存在しないうちの一人として、陸軍大臣、参謀総長、教育総監(日本陸軍の教育を掌る役職)の陸軍三長官を全て経験した上で元帥という最高峰を極めたというのだから、最高峰中の最高峰だったわけで、杉山なる軍人に最高峰中の最高峰を許した最高峰以下の日本の軍人の有能さは押して知ることができることになる。〉・・・・・・
この無能な人物の簡単な略歴を「Wikipedia」から見てみる。
〈1937年(昭和12年)、林銑十郎内閣下の陸軍大臣に就任、続く第一次近衛内閣でも留任。盧溝橋事件では強硬論を主張し、拡大派を支持。1938年(昭和13年)辞任。軍事参議官となり、同年12月北支那方面軍司令官となり山西省攻撃を指揮。
1939年(昭和14年)、靖国神社臨時大祭委員長。1940年(昭和15年)から1944年(昭和19年)まで参謀総長に就任し、太平洋戦争開戦の立案・指導にあたる。1943年(昭和18年)元帥。
1944年(昭和19年)の東條英機首相の参謀総長兼任の際には統帥権独立を盾に抵抗するが、山田乙三教育総監を味方につけた東條とその一派(富永恭次陸軍次官など)の策略に屈して辞任し、教育総監に再任。小磯國昭内閣で陸軍大臣に再任される。1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎内閣成立後、本土決戦に備えて設立された第1総軍司令官となったが、敗戦後の9月12日に司令部にて拳銃自決。〉
拳銃自殺していなければ、A級戦犯に列していたはずだ。
この無能な人物を陸軍大臣や陸軍参謀総長、教育総監等の地位に就けることとなったのは周囲の人物を見る目があったからこそであろう。尊敬の対象とする目、敬意の対象とする目が鈍(なまく)らであった。
要するに無能と無能が響き合った成果として導き出した陸軍大臣や陸軍参謀総長、教育総監等の地位であった。
大日本帝国陸軍だけが無能集団だったわけではあるまい。大日本帝国海軍は制海権・制空権を失いながら、当然、米軍に対して全体的な打撃を与えて形勢を決定的に逆転し得る戦術とはならない、いわば点と線をつなげていって全体的な面に影響を及ぼす戦術とはならない、物量を誇っていた米艦船一隻一隻を点とする単一的攻撃で終わる人間魚雷を考案したこと自体、そして実戦配備したこと自体が無能集団ならではの一時凌ぎとしかならなかった戦術であろう。
最後に陸軍・海軍だけではなく、当時の政府自体も無能集団であった決定的証拠は、ソ連の戦勝国に位置すべく謀った参戦意志を見誤ったこと、最早戦争を維持する国力を失いながら、なおかつソ連の参戦を受けても、効果的な終戦の道を見い出せなかったことにある。
広島と長崎に原爆を投下され、結局後がなくなって、降伏を受け入れざるを得なくなって受け入れた。
かくこのような無能集団の中から指導部を形成した無能な指導者の面々が、その無能ゆえにA級戦犯(平和に対する罪)として断罪されたにも関わらず、菅官房長官は「亡くなった方というのは皆、一緒にとらえるのが日本の歴史ではないか」とその無能と無能ゆえの責任の質を無罪放免とし、A級戦犯に対する参拝を容認する。
相互に無能ゆえの責任の質を響き合わせなければできない戦前日本国家指導部の責任の質の無罪放免であり、A級戦犯に対する参拝容認でなければならない。