安倍晋三は2013年9月26日、第68回国連総会で一般討論演説を行い、日本は「積極的平和主義」の道を進み、9月30日の「日英安全保障協力会議」での基調講演では、「積極的平和主義」を日本の自画像とすると宣言した。
安倍晋三「国際社会との協調を柱としつつ、世界に繁栄と、平和をもたらすべく努めてきた我が国の、紛うかたなき実績、揺るぎのない評価を土台とし、新たに『積極的平和主義』の旗を掲げる。
・・・・・・・
開かれた、海の安定に、国益を託す我が国なれば、海洋秩序の力による変更は、到底これを許すことができません。
宇宙、サイバースペースから、空、海に至る公共空間を、法と、規則の統(す)べる公共財として、よく保つこと。我が国に、多大の期待がかかる課題です」(首相官邸HP)――
この「積極的平和主義」の宣言は中国の「力の支配」に対する対抗概念として提示したはずである。
尤も安倍晋三の「積極的平和主義」が中国の軍事力を背景とした「力の支配」に対する非軍事的「積極的平和主義」なのかどうかは現在のところは分からない。軍事力増強を衝動としている安倍晋三からしたら、軍事力をも用いた「積極的平和主義」ということもあり得る。
そして4日後の9月30日、都内開催の「日英安全保障協力会議」での基調講演で、「積極的平和主義」を日本の自画像とすると、国家主義者・軍国主義者にふさわしくないことを口にしている。
安倍晋三「いまや、人類にとっての公共空間がすべてボーダーレスになり、そこにある一切合財が、ネットワークによって結ばれるとき、法の支配を重んじる、価値観をともにする国々は、ますます力を合わせ、叡智を分かち合わなくてはなりません。
そんなとき、私は、私の愛する祖国に、進んで、世界の平和と、安定に奉仕する、ネットの貢献者であり続けてほしい。日本は世界の平和と安定を支える鎖の弱い環であってはならないと思います。
長らく自由で平和な国際環境、穏やかな海洋秩序から裨益してきた一大通商国家なのですから、日本には、果たすべき相応の責任があります。
そんなつもりで、私は先週、国連総会などニューヨークにおける一連の機会をとらえ、新しい日本の自画像を打ち出すことにしました。『積極的平和主義』という、これからの日本を代表し、導いて行くひとつの旗印です」(首相官邸HP)――
ここでも、「人類にとっての公共空間」に於ける「法の支配」を訴えてから、「積極的平和主義」を持ち出している。当然、中国の「力の支配」に対する対抗概念として提示したと見做さないわけにはいかない。
また「積極的平和主義」は外交分野のみへの主張を意図するわけではなく、内政分野への主張をも意図していなければ、「平和主義」とは言えない。前者のみへの主張を意図しているとしたら、独裁国家に対してはダブルスタンダードと化す。
安倍晋三の政治的・外交的センスによって日中、日韓共に関係が険悪化しているが、日本国民は韓国には抱かない漠然とした不安を中国に持ってしまうのはその強大な軍事力そのものよりも、国家体制が民主主義を構造としているのではなく、共産党一党独裁を構造としていて、国家権力の意志決定が民主体制が持つオープンな議論と合意のプロセスを経た決定ではなく、独裁構造が持つ密室的な権力の恣意性を背景として、なおかつ強大な軍事力を基盤として成り立たせていることの不透明性への疑惑が原因となっているはずだ。
しかし韓国の場合は明らかに軍事力ではなく、民主主義を基盤として国家権力の意志決定を成り立たせていると確信できるから、韓国に対しては漠然とした不安は感じない。
例えばアメリカは世界一の軍事力を誇るが、アメリカのその軍事力に不安や恐怖を持つのは非民主主義国家が殆どであろう。アメリカは民主主義国家であるゆえに国家権力の意志決定は国民の意思(=世論)を背景として成り立たせているがゆえに権力の恣意性を免れているが、非民主主義国家は自らの国家権力の意志決定を国民の意思を無視、あるいは犠牲にして成り立たせていることの権力の恣意性がアメリカの民主体制との対立原因となって、その軍事力を恐れることになる。
いわば基本的には軍事力そのものが問題ではなく、国家権力の意志決定が民主主義を基盤としているか否かによって、その軍事力を少なくとも警戒の対象とするかしないかに左右される印象ということになる。
日本が軍備増強した場合のアジア諸国からの不安は日本が民主主義を体制としていながら、過去の経験からその底に軍国主義を隠しているのではないかという疑惑が不安を煽る原因となっているはずだ。
それ程までに戦前は日本の軍国主義は猛威を振るったと言うことことであり、そのことを過去の経験が教えているということであるはずだ。
中国の「力の支配」は海洋に対する支配のみならず、国家権力の国民に対する支配等、広い範囲に及んでいる。言論統制、抗議や集会の排除、法律に基づかない、あるいは恣意的理由をつけた拘束等々の力の支配(=力の統制)を国民統治の方法としている。
「積極的平和主義」が中国の「力の支配」に対する対抗概念として提示した理念であり、中国に対する不安・警戒が民主主義を基盤とした国民に対しても外国に対してもルールある国家権力の意志決定ではなく、共産党一党独裁体制を基盤とした国民に対しても外国に対しても権力維持の方向のみに向けた恣意的な国家権力の意志決定にあるなら、その独裁構造のその強固な一枚岩は直接的には突き崩すことは困難であっても、国民世論は決して一枚岩ではなく、民主体制への渇望を示す国民が無視し難く存在する以上、後者の国民世論を動かして多数派とまでいかなくても、一定の勢力を形成するよう仕向けるのも一つの手であり、最終的には「積極的平和主義」に基づいた平和外交につながっていくはずである。
要はそれを「積極的」に行うかどうかである。
だが、安倍晋三は中国の「力の支配」に対する批判の言動を展開し、「法の支配」だ、「価値観外交」だとバカの一つ覚えを繰返すのみで、共産党一党独裁体制から民主体制への転換を期待できる活動要素として存在する劉暁波氏等の人権活動家を、中国当局が世論を動かすことへの警戒から不当に拘束、投獄して、その言論と活動を封じ込めても、何ら抗議の声を発しない「積極的平和主義」に反する非積極性の傍観態度を見せるのみである。
中国当局がNHK海外放送のニュース番組を遮断しても、例え安倍晋三が外務当局を通して抗議を行ったとしても、その声が表に出ないことによって無言を通したことになり、国家体制への圧力となり得る可能性を秘めた民主体制への渇望を示す中国国民のなお一層の圧力化への力となることはなかった。
最低限、「言論の自由・表現の自由を保証する日本では国家権力に都合の悪い報道であっても、遮断するようなことはしない」といったメッセージを発したなら、例え中国当局の反発を買ったとしても、民主体制への渇望を示す中国国民に独裁体制の過ち、基本的人権の保障が認められていないことの不当性、恥ずかしさを確認させることになって、その是正への思いを強くすることになるはずである。
彼らはインターネットを武器にして中国のネット人口約5億人に向かって国家の正当性ある国民統治の在り様(ありよう)を訴え、支持・共鳴を求めて、その支持・共鳴を独裁体制に対抗する一つの勢力化を目論んでいるはずであり、劉暁波氏などの人権活動も同じ目的に立っているはずである。
だが、中国当局は、〈インターネットや中国版ツイッター「微博」に書き込まれる情報を当局の指示に従って監視し、報告や削除を行う“検閲官”が全土に約200万人〉配置されていると、「MSN産経」が伝えている。
今に始まったことではない中国政府の言論統制・表現の自由に対する弾圧は共産党一党独裁、あるいは国家権力の恣意性をより強固な方向へと進める常なる動きとはなっても、その反対に民主化への渇望をより弱体化する方向に進める動きとなる。
このような動きは海洋に於ける「力の支配」とも連動し、当然、価値観外交の排除とも連動することになって、「積極的平和主義」の阻害要件となって立ちはだかることになる。
安倍晋三のこれらの中国の人権状況に対する非積極的な関心は結果として、自らが掲げる「積極的平和主義」が実は非積極性を性格とした、口先だけの内容空疎な理念に過ぎないことを物語ることになるはずだ。
要するに中国に対抗するために掲げたキレイゴトに過ぎないということになる。
その程度が相応しい、安倍晋三の「平和主義」ということなのだろう。