川勝静岡県知事の個人の可能性をテストの成績に限った、その成績向上要求は独裁的号令一下の全体主義教育

2014-09-07 08:42:43 | Weblog


 川勝静岡県知事が今年4月実施全国学力テストの小学校国語Aの結果が全国平均を上回った262校の校長名と35市町別の公立小学校の科目別平均正答率に限って公表した。小学校国語Aは昨年のテストで最下位だったが、今年は27位。

 その努力と成果を褒め称えると言うわけなのだろう。

 だが、問題点がいくつかある。今年から学力テストの結果は教育委員会の判断で公表が可能となったが、そこに知事は含まれていず、明らかにルール違反になるとマスコミは伝えている。

 これは表向きの問題点であろう。

 小学生やその父兄が公表された校長名を探して、見つけることができ、自分の学校が全国平均を上回ったと確認して安心したとしたら、あるいは逆に見つけることができず、全国平均以下だったんだと確認して、何がしかの負の感情を抱いたとしたら、それぞれの可能性(=潜在的な発展性)を学校の勉強に限定する性格傾向に囚われていることになり、その可能性や潜在的な発展性をテストの成績で計っていることになる。

 ごく当たり前のことを言うが、個人それぞれの可能性や潜在的な発展性は多様であり、それらすべての可能性がテストの成績に基づいた学校の成績で計ることができるわけではない。学校の成績が良い生徒であっても、その将来的な可能性は必ずしも学校の成績に従うわけではないだろう。

 大体が自身の可能性が学校の成績通りであったなら、面白くも何ともないはずだ。その通りであったなら、特異な俳優も、特に脇役も、異彩放つ漫才師やお笑いタレントも、この世には生まれてこないだろう。

 学校の成績通りの可能性とは1+1=2から出ない可能性のことを言い、それが悪い成績であっても、学校の成績を超えた可能性とは1+1=を3にも4にも5にも発展させることができる可能性のことを言うはずである。

 いわば学校のテストの成績を上げるために植えつけられた知識はテストの回答には役立てることができても、様々に発展させる想像力(創造力)を持たなければ(1+1=を3にも4にも5にも発展させることができなければ)、植えつけられた知識そのままの(1+1=2そのままの)活用しかできない限定された可能性に陥りかねない。

 あるいは学校が教えた1+1=2から学校が教えないことを自分で学ぶことによって1+1=を3にも4にも5にも発展させることができるはずだから、教えられること以上に自分が学ぶことが自身の可能性や潜在的な発展性のためには重要な要素となるはずである。

 だが、川勝知事の全国学力テストの成績が悪かったからといって、その成績に重点を絞って上げるよう、知事の権限で県教育委員会の尻を叩く形で叱咤し、県教委かそれぞれの学校へ圧力をかける教育は生徒それぞれの可能性や潜在的な発展性を自ずとテストの成績に限定していることになるばかりか、生徒に対しても生徒それぞれの可能性(=潜在的な発展性)がテストの成績によって表されることになることを植えつけることになる。

 また、今年の学力テストの成績が知事の指示に忠実に従った前年と比較した今年の成績向上であるなら、学校側にしても全国学力テストの成績を上げることだけに重点を置いた、いわば生徒の可能性をテストの成績に限った授業を展開したことになり、知事という上からの指示に従う形を採用している以上、上からの独裁的号令一下の全体主義教育という体裁を取ったことになる。

 この全体主義的な教育という体裁は可能性に於ける多様性の完全否定となる。生徒それぞれの潜在的な発展性に於ける多様性の排除を知らず知らずのうちに行っていることになる。

 《学力テスト:沖縄と静岡の成績改善 対策が効果、課題も》毎日jp/2014年08月26日 02時01分)が、独裁的号令一下の全体主義教育という体裁を取っていたことを教えてくれる。

 先ず川勝知事は昨年、小学校国語Aが最下位だったことを受けて昨年9月、〈最下位は教員の責任として「成績下位校の校長名を公表する」と表明。最終的には県内で上位の小学校長名を県ホームページで公表した。〉

 県教委は全国学力テストの成績を上げるよう、知事の厳しい指示を受けたはずだ。でなければ、県教委は知事部局出身者をトップに「学力向上対策本部」を設置することもなかっただろう。

 「学力向上対策本部」で議論した対策なのだろう。県教委は〈授業改善を求める文書を各教員に配布した上、児童には県教委作成の「対策問題集」や過去問を解かせるよう市町教委に求め、多くの小学校が実施した。〉――

 県教委要求の「授業改善」とは、全国学力テストで高得点を上げることに重点を置いた授業内容の改善であり、県教委作成の「対策問題集」とは、過去のテスト問題をそれぞれの傾向に従って分類・抽出列挙し、それぞれの解き方を解説した冊子ということであるはずだ。

 ここに知事から発した独裁的号令一下の全体主義の力学が下まで働いていたことを見て取ることができる。知事→県教委→学校→各教員→各生徒へと上から下へテストの成績を上げるための力が働いていった。下が上に忠実に従うことによって、上の指示が独裁的号令一下の全体主義の姿を取ることができる。

 もし途中の誰かが、「生徒の可能性、潜在的な発展性は学力テストの成績だけで決まるわけではありません。余裕を持った様々な教えを通して生徒は自分から学ぶことを知り、そのような自分からの学びが可能性や潜在的な発展性に多様な姿を与えるのです」と言って抵抗したなら、上からの指示は独裁的号令一下でも、全体主義でもなくなる。

 上の独裁的号令一下の全体主義が上から下まで全体を支配する力を持つということは下が上に従うのみで独自性を持っていない、あるいは持とうとしていないことを意味する。独自性のないところに多様な可能性や多様な潜在的な発展性は望みにくい。

 生徒はその影響をもろに受ける被害者となる。

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