「昭和天皇実録」は当然、周囲が天皇制を国民統治装置として作り上げたことを前提に読まなければならない

2014-09-10 09:26:15 | Weblog



 宮内庁編纂の昭和天皇の活動記録「昭和天皇実録」が完成して、8月21日、天皇皇后両陛下に奉呈、9月9日から宮内庁で公開された。報道関係者には前以て公開されたのか9月9日の朝5時頃から、一斉に昭和天皇像に関わる記事を流している。

 「昭和天皇実録」にどのように昭和天皇像が描かれようとも、天皇制が国民統治装置であったことを前提に読まなければならない。

 明治22年2月11日公布の「大日本帝国憲法」は「第一章 天皇」で天皇の存在を次のように規定している。

第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス

第二條 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス

第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

第四條 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
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第十一條 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス――

 【総攬】(そうらん)「掌握して治めること」(「大辞林」三省堂)

 「神聖」及び「聖」という言葉は明治時代か、それに近い時代の辞書が解説する意味がより良く言い当てているのではないかと思って、たまたま所有していた大正6年刊行の大正10年増補版「大字典」(栄田猛猪〈さかえだ たけい〉編纂)から意味を取ってみた。

 【神聖】「霊妙威厳ありて、侵すべからず、汚すべからざること」

 【聖】「何事にも通ぜざる事のなき人。転じて、知徳の最もすぐるること」

 いわば神の如き聖なる存在、全知全能の絶対的存在という意味を持ち、既に神に擬せられていた。
 
 このような「神聖ニシテ侵スヘカラス」全知全能の神の如き存在として大日本帝国の統治権及び陸海軍の統帥権を国家元首である天皇が握っていると大日本帝国憲法は天皇を絶対権力者として規定している。

 絶対権力者はその権力の行使に融通無碍でなければならない。でなかったら、神聖にして侵すべからずの存在足り得ないことになる。

 そして日本の国体を明らかにするために1937年(昭和12年)年3月に文部省が刊行した、『国体の本義』は天皇を明確に神に位置づけている。

 〈かくて天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神(あきつみかみ)であらせられる。この現御神(明神)或は現人神(あらひとがみ)と申し奉るのは、所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり、皇祖皇宗がその神裔(神の子孫)であらせられる天皇に現れまし、天皇は皇祖皇宗と御一体であらせられ、永久に臣民・国土の生成発展の本源にましまし、限りなく尊く畏き御方であることを示すのである。帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、又第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあるのは、天皇のこの御本質を明らかにし奉つたものである。従つて天皇は、外国の君主と異なり、国家統治の必要上立てられた主権者でもなく、智力・徳望をもととして臣民より選び定められた君主でもあらせられぬ。

 天皇は天照大神の御子孫であり、皇祖皇宗の神裔であらせられる。天皇の御位はいかしく重いのであるが、それは天ッ神の御子孫として、この重き位に即き給ふが故である。〉――

 天皇は皇祖皇宗と一体の神の子孫であって、人間の姿を取ってこの日本に現れた存在であり、「臣民・国土」は天皇なるものから「生成発展」していて、天皇はその「本源」としての地位を占めている、そのような天皇と国民の関係によって日本の国体は成り立っているとしている。

 西洋のような「所謂絶対神とか、全知全能の神とかいふが如き意味の神とは異なり」とは言っているが、「日本書紀」や「古事記」から持ってきて日本風の味付けをした絶対神・全知全能の神に擬えていることに変わりはない。
 
 かくまでも天皇は憲法上も国政上も、国民統治に関しても絶対的存在とされていた。

 だが、「天皇実録」に現れた昭和天皇像は絶対的存在とは程遠い。

 例えば昭和天皇は開戦の方針が事実上決まった昭和16年9月6日の御前会議の前日、戦争準備よりも外交による解決を優先すべきだとして閣議決定の修正を求めたことが「天皇実録」に記されているとしているが、軍部の開戦意志を止めることができなかった。

 このことは大日本帝国憲法の「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の絶対的統治権、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の絶対的存在性、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」の全軍に対する統帥権が何ら機能していないこと、権力の行使に融通無碍どころか麻痺させられていたことを示す。

 何よりも「臣民・国土の生成発展の本源」たる「現人神」としての天皇の全知全能性の非力を物語ることになる。

 〈1937年の盧溝橋事件を機に日中戦争が始まり、40年に日独伊三国軍事同盟を締結、そして41年の対米宣戦布告へと、日本は戦争への道を突き進んでいった。昭和天皇は懸念を示しながらも、この流れを受け入れていった。〉と「時事ドットコム」は記事で解説しているが、昭和天皇は三国同盟にも反対していた。

 『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』文藝春秋・07年4月特別号)の昭和14年5月9日の日記には次のような記述がある。

 〈御乗馬、御すすみあらざりしも、天気好かりしを以って遊ばしいただきたり。防共協定の問題に付、御軫念(ごしんねん・心配の意)と拝す。〉
 
 〈注〉は半藤一利氏(昭和史研究家・作家)の解説である。

 〈〈注〉このころ、昭和11年11月広田弘毅内閣のときに締結した日独防共協定を、軍事同盟にまで強化する問題をめぐって、平沼騏一郎内閣は大揉めに揉めていた。陸軍の強い賛成にたいして、海軍が頑強に反対していたのである。このため平沼首相、有田八郎外相、石渡荘太郎蔵相、板垣征四郎陸相、米内光政海相による五相会議が連日のように開かれていたが、常に物別れとなり、先行きはまったく見えなかった。〉

 〈5月12日 秩父宮殿下10時参内。(以下略)

 〈〈注〉『昭和天皇独白録』(文春文庫)にはこう書かれている。

 「それから之はこの場限りにし度いが、三国同盟に付て私は秩父宮と喧嘩をしてしまった。秩父宮はあの頃一週三回くらい私の処に来て同盟の締結を進めた。終には私はこの問題については、直接宮には答へぬと云って、突放ねて仕舞った」〉――
 
 秩父宮は日独伊三国同盟締結に賛成で、天皇を説得しようと皇居を頻繁に訪れた。対して昭和天皇は「私はこの問題については、直接宮には答へぬ」と突っぱねた。

 それ程にも昭和天皇は三国同盟締結に反対を超えて忌避していた。

 だが、天皇の意思は伝わることなく、翌年の昭和15年9月27日に日本、ドイツ、イタリアの間で三国軍事同盟は締結されることになった。

 以上のような天皇の国政や陸海軍に対する能力は『大日本帝国憲法』に規定した天皇の絶対的権力や如何なる国体であるか国民に明らかにした『国体の本義』に於ける全知全能の現人神としての天皇像から見た場合、非力を通り越して無力そのものとしか言い様がない。

 但し天皇の実態に対する情報が閉ざされていた国民は『大日本帝国憲法』の規定通りに絶対的権力を有した国家の統治者として、更には陸海軍の絶対的統帥者として、あるいは『国体の本義』が描いている「臣民・国土の生成発展の本源」たる「現人神」として昭和天皇を畏れ敬っていた。

 畏れ敬い、戦争遂行のために命を捧げようとしていた。

 この国政や陸海軍に対する無力性と国民に対する有能性の双方逆転した状況は後者を以って必要な存在性としていることを意味することで初めて、その逆転に客観的合理性を与えることができる。

 天皇なる存在は国民統治装置としてその絶対権力性や現人神としての全知全能性を纏わされていたということである。

 言葉を替えて言うと、国民統治の傀儡(操り人形)としていた。日本の権力層の政治意思が時代を超えて創り上げ、積み重ねていった結果であろう。
  
 このことを前提として『昭和天皇実録』に関わるマスコミの記事を読むと、なぜ天皇の意思に反して戦争が進めらていったかが理解できるはずだ。

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