9月27日、安倍晋三は福島県川内村を訪問、保育園や仮設住宅、放射能汚染物質を保管する中間貯蔵施設の建設候補地等を視察している。そして例の如くに「復興が進んでいると感じられるよう取り組んでいく」と発言。
これが景気回復の場合、「景気回復の実感を全国津々浦々にまで必ずや届けるのが安倍内閣の使命です」と言う。
だが、前者の場合も後者の場合も、どうしようもなく格差が生じている。自宅再建に取り掛かることができた被災者とすべてを失って仮設住宅以外に行く場所のない被災者。格差の象徴的出来事が、生活の悩み事相談のホットラインでの2013年自殺相談が全相談のうち全国では11%であるのに対して被災3県は2・5倍の28%の15万4792件にものぼっていることに現れている。
同じ9月27日菅官房長官が沖縄県を訪問、首相と官房長官が同時に東京を留守にした。官房長官の沖縄訪問は10~11月に予定される沖縄県知事選を見据えた行動だという。そして安倍晋三の福島訪問も福島県知事選を考慮したものだと次の記事が伝えている。
《異例の首相・官房長官、東京同時不在…その理由は「福島、沖縄知事選」》(MSN産経/2014.9.17 21:50)
記事解説。〈首相と官房長官が同時に東京を不在にするのは極めて異例で、緊急事態が起きれば、政権の「危機管理」を問われかねない。それでも、両知事選の結果が今後の政権運営に及ぼす影響が少なくないとして、同時出張に踏み切った。〉――
〈官邸では、平成13年の実習船「えひめ丸」衝突事故を教訓に、大規模災害やテロに備え首相か官房長官の一方が原則都内に残るのが慣習となっている。当時の森喜朗首相と福田康夫官房長官がともに都外にいて危機管理の甘さを批判され、森内閣退陣につながった。〉――
菅官房長官に変わって記者会見した加藤官房副長官の弁。
加藤官房副長官「首相と官房長官が東京にいない場合、指名を受けた官房副長官が対応することになっている。官邸の指揮態勢に隙間はない」
言うとおりだろう。しかも現代は携帯電話が発達していて、情報の遣り取りは時間を置かずに行うことができる。
だとしても、テロの時代と言われている今日、日々常に備える心構えでいる必要があるのに、安倍晋三と官房長官の首都東京同時不在は県知事選のためという安倍内閣という一内閣の都合であって、国家の都合ではない。
内閣のナンバー1・ナンバー2の指導的位置にいる関係上、いずれか一人が首相官邸に残るのが国家の危機管理であるはずである。
国土交通省のサイトに、《テロの時代に求められる対策と首都機能の分散》というページがある。
次のような項目が並べられている。
〈地政学的に見た首都の位置の歴史的変遷
テロの時代に重要性を増す首都機能の分散
生物兵器によるテロの危険性と一極集中の脆弱性
小型核兵器、放射性物質の散布によるテロがもたらす被害
これからの時代のテロ対策のあり方
日本へのテロの蓋然性と可能性
国会等の移転では先を見据えた対策を〉――
一方で「テロの時代」と言って、否定できない危機と把え、その危機管理を取り上げながら、その一方で国家の都合ではなく、安倍内閣の都合で安倍晋三と官房長官が東京を同時不在とする危機管理は前者の危機管理を軽視する矛盾以外の何ものでもない。
この軽視は、かつて原発は安全であるとした「原発安全神話」と肩を並べる「国家安全神話」に相当するはずである。
地震、テロ、ミサイルの飛来等々、いつなんどきどこで何が起きるか分からないこととする国家の備えとしての危機管理意識に敏感であったなら、とてものこと、安倍内閣の都合で首相官邸を同時不在とすることはできなかったろう。
勿論、この同時不在は安倍晋三及び菅官房長官の国家危機管理意識の希薄さの裏返しとして現れたお粗末な事態であることは言うまでもない。
右翼閣僚の高市早苗総務相と同じ右翼政治家の稲田朋美自民党政調会長の二人が右翼団体代表とツーショットの写真に収まったことが明らかになったばかりなのに、今度は国家公安委員会委員長及び拉致問題担当相等に就いたばかりの山谷えり子が在日韓国人・朝鮮人に対するヘイトスピーチで有名な在特会(在日特権を許さない市民の会)の元幹部たちと約5年前の2009年に写真に収まっていたことが週刊誌に報道された。
その写真は元在特会関西支部長の男性(61)が運営するホームページでに9月16日まで公開していたという。週刊誌の報道で取り外したのだろう。
山谷えり子はこの日、松江市内で行われた「竹島の日」の記念行事に出席、講演し、講演後なのか、講演前なのか、宿泊先の松江市のホテルで撮影したという。
しかも一緒に写真に収まったのは在特会元幹部一人ではなく、他に6人、その内の一人は在特会の元京都支部幹部で、総勢8人の集合写真となっている。
山谷氏事務所「(男性について)別団体の事務局長として面識はあったが、在特会に所属していることは承知していなかった。
多くの方からの写真撮影に応じているが、ご依頼いただいた個々の方の身分については承知していない」(asahi.com)
在特会元幹部「山谷氏とは約15年前に教育再生をめぐる活動を通じて知り合った。在特会の活動として会ったわけではない」(同asahi.com)
在特会元幹部「当時はヘイトスピーチなど排斥活動をしていない。私は在特会がそういう活動を始めたときに距離を置いた。15年程前に別の団体の顧問をお願いしてからの付き合い。写真を撮ったときも在特会のことは話していない」(TOKYO Web)
山谷えり子(9月18日記者会見)「在特会の人とは知らなかった。政治家なので色んな方と色んな場所でお会いする。『写真を』と言われれば撮ることもある」(TOKYO Web)――
以上の発言のから、山谷えり子の危機管理を見てみる。
在特会元幹部は別団体の事務局長をしていた15年程前に山谷えり子にその団体の顧問をお願いした。そのような関係にあったからだろう、約5年前の2009年の「竹島の日」(2月22日)、あるいはその前後に写真を撮った。在特会元幹部は在特会がヘイトスピーチ等の排斥活動を始めたときに会から距離を置いていた。
つまり元幹部は2009年2月22日の「竹島の日」以前に既に在特会を離れていた。一緒に写真に収まっていた在特会の元京都支部幹部も、同じ時期に在特会を離れていたのだろうか。
「Wikipedia」によると、在特会は2006年(平成18年)12月2日の準備会合で会の設立を決定し、翌年の2007年(平成19年)1月20日の発足集会以後に正式な活動を開始し、2009年12月には京都朝鮮学園に対して「朝鮮学校が公園を不法占拠している」として学校周辺で街宣活動を開始、「犯罪者に教育された子ども」、「朝鮮半島へ帰れ」などのヘイトスピーチを行っている。
調べた限りでのそれ以前の活動は2009年5月17日の「千葉市長選候補を糾弾」街宣活動と、2009年6月12日の「反日極左と結託する京都西本願寺突撃抗議」の街宣活動のみである。
2009年12月の京都朝鮮学園に対するヘイトスピーチが最初だとすると、2009年2月22日の「竹島の日」以前に既に在特会を離れていたとする元幹部の証言は簡単には信じることができない。
但しあくまでも2009年12月の京都朝鮮学園に対するヘイトスピーチが最初だとするとと言う仮定つきである。それ以前からヘイトスピーチを始めていたなら、2009年2月22日の「竹島の日」以前に在特会を離れていたとする証言は成り立つことになる。
だとしても、15年程前に山谷えり子に団体の顧問をお願いして面識があったなら、その団体が在特会のような団体と無縁であることを証明するためにその団体名と活動内容を明らかにすべきだが、匿名のまま済ませている。
「在特会に所属していることは承知していなかった」が、別団体が在特会と似たような団体ということなら、そのことを承知して一緒に写真を撮ったとしたら、不適切な間違った行動であることに変わりはないことになって、国会議員としての節度維持の危機管理に問題が生じることになる。
山谷えり子自身は「在特会の人とは知らなかった。政治家なので色んな方と色んな場所でお会いする。『写真を』と言われれば撮ることもある」と身の潔白を訴えている。
写真撮影自体は記憶していることになる。
だが、山谷えり子は団体の顧問をお願いされたことに触れていない。発言全体のニュアンスからして、初対面の関係で把えた発言となっている。
山谷えり子と事務所側の記憶もしくは認識の矛盾を無視するとしても、街中で偶然に出会って、支持者ですと言われて握手を求められ、一緒に撮ってくださいと頼まれて総勢8人で写真に収まったわけではない。宿泊先のホテルに7人で訪ねてきて、写真撮影を求められたのである。団体の顧問をお願いされたことを忘れていたとしても、元幹部は思い出させるだろうし、山谷えり子も顧問料を頂いているだろうから、最低思い出した振りはするはずである。
当然、他の6人にについて「同じ団体のお仲間ですか」と尋ねたはずである。
別の団体のことは話しても、在特会については何も口にしなかったということなら、「在特会だとは名乗っていませんでした。何々という団体の仲間同士だと言ってました」と釈明するはずだ。
逆に何も尋ねず、「在特会の人とは知らなかった」と言うことなら、それが真正な事実だとすると、元幹部は団体の顧問をお願いしたことを思い出させることもしなかったことになる。
いわば元幹部は顧問をお願いした団体名すら口にしなかったことになる。
このような山谷えり子の在特会元幹部ら7人に対する関係を成り立たせるためには、元幹部の方からの自己紹介も他の6人の紹介もなかったことになる。
この一連の様子を想像して貰いたい。何ら会話を交わすこともなく、7人と共に頼まれた写真だけを撮った。
果たしてこのようなストーリーを信じることができるだろうか。
写真撮影は覚えているが、会話は覚えていないという釈明は通らない。どのような会話を交わしたのか記憶していないなら、元幹部は「写真を撮ったときも在特会のことは話していない」と言ってはいるものの、在特会という特定の団体名や身分、どのような社会生活者なのか名乗ったかもしれないにも関わらず、一切を記憶していないことになって、そのことを前提として、いわば、「名乗ったかもしれない会話は一切覚えていません。在特会の人とは知らなかった」とするのは、論理矛盾を来すことになるからだ。
この矛盾を避けるためには当時の会話を覚えていて、7人の口から会話を通して在特会という言葉が一切出てこなかったことが条件となる。
当然、「彼らは在特会だと名乗っていなかったから」とした上で、「在特会の人とは知らなかった」としなければならない。
但し、堂々巡りとなるが、会話を覚えている以上、別団体の顧問をしていたことを覚えていなければならない。当然、その団体の活動内容が問題となる。
このようないくつかの矛盾からして、既にその恐れに触れたが、恐れを通り越して山谷えり子の国会議員としての自身の節度を守るための危機管理は程度が低いと断言せざるを得ない。
尤も山谷えり子は元々右翼思想の持ち主である。在特会と交流があるとした方が自然ですらある。