24の国と地域で行ったOECD(経済協力開発機構)「国際成人力調査」で日本が「読解力」と「数的思考力」の2分野で首位を取ったというニュースを聞いて、大したものだなと思った。「読解力」と「数的思考力」と言うと、暗記教育で培うことになる従属性知識の応用を試されるのではなく、従属性知識に始まって、それを自身の創造性で発展させて培う自発性知識の応用を試されたと思ったからだ。
次の記事から、その実態を見てみる。
《大人の学力の調査で日本首位》(NHK NEWS WEB/2013年10月8日 18時24分)
〈学歴や職業にかかわらず得点が高い傾向にあり、分析を担当した国立教育政策研究所は、「義務教育で基礎・基本を重視してきた結果ではないか」と話してい〉るという。
だが、義務教育で得た「基礎・基本」(従属性知識)を目の前の問題(あるいは目の前の課題)に当てはめて答を見出す(あるいは解決する)能力と、「基礎・基本」から始まって、そこから自己独自の知識(自発性知識)を創り出して問題や課題を自ら見つけて答を見出す(あるいは解決する)能力とは自ずと異なる。
学校教育や職業訓練など人材育成の参考にしようとOECDが初めて実施したのだそうだ。16歳から65歳までのおよそ15万7000人が参加し、日本では無作為に選ばれた5000人余りが解答。
出題は「読解力」と「数的な思考力」と「ITを活用した問題解決力」の3分野。日本は「読解力」と「数学的な思考力」で平均得点を20点程上回ってトップ。
学歴別、職業別分析だと、世界的に学歴が高い程得点も高い傾向にあり、単純作業従事者よりも事務職、管理職、技術者と順に成績が良くなっているそうで、日本は学歴や職業による得点差が小さく、全体的に高い能力を持っていると分析されたとのこと。
例として最終学歴が「中学卒業」の日本人の「読解力」はアメリカやドイツなどの高校卒業者よりも高かったと説明している。安倍晋三、鼻が高いに違いない。
分析を担当した国立教育政策研究所の小桐間徳国際研究・協力部長の話。
小桐間徳国際研究・協力部長「早くから義務教育が普及し、読み書き計算の基礎・基本を重視してきた結果ではないか」――
「基礎・基本」を発展させた能力の高さを賞賛している。
一方、「ITを活用した問題解決力」は平均を上回ったものの10位。
国立教育政策研究所「パソコンを使い慣れておらず、問題に取りかかれない人が少なくなかったのではないか」――
さて、ここからが重要だが、記事ははごく一部しか明らかにされていないとしているテストの内容を伝えている。
文章を理解し利用する能力を見る「読解力」の問題。
〈例えば市民マラソン大会の開催を知らせるインターネットのホームページを読んで、主催者の電話番号を調べる場面が想定されています。
ページに並んでいる項目の中から「問い合わせ先」を選べば電話番号が分かることから、この項目をクリックするのが正解です。〉と解説しているから、電話番号を知るにはどのような操作がいいのかとでも聞いたのだろう。
これを以て「読解力」を問う問題と言えるのだろうか。これは多分に暗記知識(従属性知識)を問う分野であって、自発性知識を用いた読解力を試す分野とは異なる。
「数的な思考力」
値段や気温など生活に関わる数学的な知識や計算の能力を見るそうだ。
営業マンが車で出張した場合に会社から支払われる経費を問う問題。
走行距離1キロメートル当たり35円、食事代などとして1日当たり4000円支給される場合、146キロ走った日の出張にはいくら支払われるか。
正解。35円×146キロ=5110円+食事代4000円=9110円。
これで「数学的な思考力」とは言わずに、「数的な思考力」と名づけた意味が分かった。
要するに単純な計算式――数字の当てはめに過ぎない。まさしく「早くから義務教育が普及し、読み書き計算の基礎・基本を重視してきた結果」と言うことができる。
次のように解説している。〈また、「ITを活用した問題解決力」の問題では、電子メールの分類や表計算ソフトで情報を整理することができるかどうかなどが問われました。
いずれも知識の有無を見るのではなく、日常生活の様々な場面で情報を活用することができるかどうかを重視した問題だということです。〉云々。
この「情報の活用」と言っても、例題で見る限り、天気予報が3時頃から雨が降ると伝えていたから、会社の帰りに備えて傘を持って行こうといった程度の従属性の情報の活用に過ぎない。
与えられた情報を自分が持っている様々な情報を用いて解読し、解読した情報を自身の今後の行動や新たに手に入れた自身の知識として役立てるといった自発性の情報の活用とは異なる。
このような出題で「成人力」を計ることができるのだろうか。しかも「国際成人力」と、「国際」と銘打っているのだから、国際的に通用する成人力ということであるはずだ。
昨日(2013年10月10日)のTBSテレビ「ひるおび!」でも取り上げていて、問題を紹介していた。
それぞれの得票数を多い順に従って候補者名を書き入れた選挙結果から、「得票数が最も少なかった候補者は誰ですか」と「読解力」を問う出題や、「数的思考力」を問う問題では、縦5個、横7個で配列した饅頭の絵を見せて、「1箱に全部で105個の黒糖まんじゅうが入っています。この黒糖まんじゅうは1箱の中に何段重ねで箱詰めされていますか」と答を求めている出題例を紹介していたが、すべて暗記知識(従属性知識)の当てはめで片付く「成人力調査」となっている。
このことは教育方法や能力開発について研究しているという京都大学高等教育研究開発推進センターの松下佳代教授の解説が証明してくれる。
松下佳代教授「今回の調査では経済成長に必要な技術革新の力や政治参加に不可欠な批判的思考力を調べているわけではないので、この結果から“大人としての学力が世界一”とは言えないと思う。
一方で成績と職業との関連を見ると、高い能力を生かせるような仕事が不足している可能性があり、産業構造の転換など今後の政策課題としてさらに分析したほうがよい」――
「経済成長に必要な技術革新の力」にしても、「政治参加に不可欠な批判的思考力」にしても、暗記教育で培うことになる従属性知識の応用では育むことは不可能で、他者から与えられた情報を自身の判断・解釈を加えて自己所有の知識へと発展させていくプロセスを常に取る自発性知識の発動によって初めて可能となる能力であるはずである。
記事が、〈日本は学歴や職業による得点差が小さく、全体的に高い能力を持っていると分析された。〉と解説しているとおりに確かに学力の点で均質的ではあるが、長年の歴史的・伝統的な暗記教育が培うこととなった均質性であって、均質性とは無縁でなければならないそれぞれが独自であるべき自発性知識から見たら、素直には喜ぶことはできない「国際成人力調査」2分野トップの成績であり、「国際成人力」といったところではないだろうか。
そもそもから言って、均質性とは独自性の否定である。そこに独自性が数多く混じっていたなら、独自性は失われる。
私だったら、黒糖まんじゅうの質問などは、何でこれが「国際成人力」調査なんだとバカらしくなって、わざと間違えたのではないだろうか。
茂木経産相が9月8日閣議後記者会見で米倉経団連会長らと9月10日に懇談し、賃上げを要請する考えを明らかにしたと「MSN産経」記事が伝えていた。
茂木経産相「安倍政権は企業の収益改善に向けた取り組みを進めてきた。経済界としての対応を速やかに求めていきたい」(同MSN産経)――
アベノミクスによって業績改善に貢献したのだから、今度は賃上げでアベノミクスに貢献しろというわけである。安倍晋三自身も何度か賃上げ要請をし、麻生、甘利といった重要閣僚も右へ倣えの要請を行っているが、企業の腰は重いままとなっていて、賃上げに向けてなかなか行動しようとしない。
翌9月9日、今度は高村自民党副総裁が党本部で記者たちに「正義」を振り回した。《「人件費カット、今や正義ではない」自民・高村副総裁》(asahi.com/2013年10月9日12時48分)
高村自民党副総裁「政府・与党で経済対策パッケージを決めたが、これからは企業経営者の出番だ。特に、不当に抑えられているとも言える非正規の方の賃金を上げてほしい。『同一労働、同一賃金』に反することは正義に反するし、限界生活を送っている方たちの賃金が上がるということは、そのすべてが消費に使われるということだから、経済政策的にも有効だ。
かつて高コスト構造と言われた時代にはコストカットはそのまま正義だったが、デフレから脱却しようという時には、人件費のコストカットは正義でもなければ、適切な経済政策とも言えない」――
限界生活者の上がった場合の賃金がすべて消費に回る保証はない。身分、賃金共にいつ失うかもしれない、最低保証すら満足に受けていない限界生活者からしたら、政治を信用していないだろうし、企業も信用していないだろうからである。日常化しているであろう精神状態としてある生活の不安がギリギリまで消費を抑えて備えとして手元に置くということも考えられる。
自民党政治が労働の規制緩和で企業経営に貢献してきた負の側面として低賃金の非正規労働者を拡大させて貧困化・未婚化の格差社会をつくり出したのを棚に上げて、今更ながらに正義を振り回す。
「高コスト構造と言われた時代にはコストカットはそのまま正義だった」と言っているが、あくまでも自民党政治と企業にとっての「正義」であって、非正規社員や非正規社員と大部分が重なる低所得層にとっては正義ではあるはずはない。
もし後者にとっても「正義」であったなら、「高コスト構造と言われた時代」の「コストカット」は非正規労働者にとっても「そのまま正義だった」という論が成り立つことになる。
全てに亘っての正義など存在しない。一つの正義は他の正義を削り取ることによって成り立つ人間社会となっている。
高村は都合のいいことだけを抜け抜けと言っているに過ぎない。自身のご都合主義に気づかない薄汚い政治家だ。
非正規労働者を「不当に抑えられているとも言える」と言っているが、ではコストカットが正義であった時代、非正規労働者は「不当に抑えられて」いなかったとでも言うのか。
企業向けには「正義」を口にする資格はあるだろうが、非正規労働者や低所得層に対しては「正義」を口にする資格はないにも関わらず、「『同一労働、同一賃金』に反することは正義に反する」と、今更ながらに正義の価値観で労働を云々しているが、所詮、アベノミクスの成功のみを目的とした非正規労働者賃上げ要請なのは目に見えている。
アベノミクスが思い描く日本の経済再生は今更言うまでもないことだが、企業業績改善・収益改善が賃金上昇・雇用拡大・消費拡大につながって、それがさらに企業業績改善・収益改善を押し上げて、以下に循環させていく経済の好循環をシナリオとしている。
賃金上昇は好循環を構成し、成立させていく過程での企業業績改善・収益改善の次に必要不可欠な要素であって、その一つが欠けた場合、以下の循環が機能不全を起こして好循環は断たれ、アベノミクスは失敗に帰すことになる。
ましてや賃金上昇が正社員のみで終わったなら、全雇用労働者に占める非正規労働者の割合が36.2%の1881万人にまで増えて、3人に1人以上にまで達している現在、例え好循環が実現したとしても、所得格差拡大に拍車をかけることとなって、アベノミクスに対する怨嗟の声は無視できなくなるに違いない。「これが正義なのか」と。
また、安倍晋三は2年間で2%の物価上昇を約束しているが、その達成は企業の賃上げが非正規雇用の賃上げにまで波及しなければ実現できないという指摘もあり、そういった事情からの「正義」でもあり、高村の「不当に抑えられているとも言える非正規の方の賃金を上げてほしい」と願う事情ともなっているはずだ。
高村の非正規労働者の賃上げ要請は動機が純粋とは言えないが、真っ赤な虚偽としてはならない「正義」でもあるが、企業が政府要請に抵抗してなかなか応じないということは、高村の正義・不正義論から言うと、企業にとっては“不正義”な賃上げ要請ということであって、高村はそのことに気づいているのだろうか。
人間は往々にして自分の正義を振り回して、その正義が他人にとっては不正義であることに気づかない場合がある。
賃上げが国際競争力等を阻害する要素と見做して企業にとって不正義であるなら、非正規労働者にまで賃金を上げることは不正義中の不正義となりかねない。
アベノミクス実現の優等生に位置し、賃上げのホープみたいに見えるローソンは来年度の社員給与も年収の2~3%分に当たる「賃上げ」をボーナスの一時金で実施する方針を明らかにしているが、そのローソンでさえ、賃上げの対象は3300人程の正社員限定であって、約20万人の店舗オーナーや約20万人のバイトは対象外だと、「J-CAST」記事――《アベノミクスで賃上げされる人、されない人》2013/3/ 6 18:45)が伝えている。
リンクを貼っておいたから、関心のある方はアクセスして頂きたい。
高村の正義論からすると、新浪剛史ローソン最高経営責任者が先ず為すべきことは各店舗がローソン工場生産の製品売上から受け取る利益率をバイトの賃上げを条件にアップすることであって、その賃上げによるバイト従業員の消費が回りまわってローソン本体の業績改善・収益改善につながったなら、正社員の賃金上昇に反映させていく“好循環”の実現であるはずだ。
だが、アベノミクスの優等生に位置し、賃上げのホープみたいに見える新浪剛史ローソン最高経営責任者はそういった“好循環”の正義は選択せずに、正社員の賃金アップのみの不公平を以って自らの正義としている。
この正義は、体現者がアベノミクス実現の優等生であり、賃上げのホープであるだけに高村の正義の実現の困難を物語ることになる。
困難を乗り越えて非正規労働者の賃上げの正義を実現するには安倍晋三のリーダーシップにかかっている。
今後は企業団体に賃上げを要請するときは、非正規労働者の賃上げを第一番に求めるべきだろう。一旦、正義論で把えた以上、そうしなければすべてが不正義行為となる。
高村にしても安倍晋三にしても、心して貰いたい。
安倍晋三が10月6日(2013年)の「科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム」(STSフォーラム)年次総会の挨拶しているが、「フクシマと事後の顛末」に関して外国の技術と知恵を学ばなければならなかったことを「苦い教訓」だと言っているように私には思えて仕方がない。
「科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム」2013年年次総会安倍晋三挨拶(首相官邸/2013年〈平成25年〉10月6日)
安倍晋三「尾身会長、御列席のゲスト、ならびに参加者の皆様、皆様方の年次総会が10周年を迎えましたことを、お慶び申し上げます。歴史的な機会に参加をさせていただいて、大変嬉しく思っています。
さて、皆様は、科学者でいらっしゃる。あるいは技術の専門家です。大学の先生も大勢おいでで、皆様にとって大事なお仕事は、見たり、聞いたりしたことを吟味して、評価することではないでしょうか。これは、少しばかり危険な場所へ来たなと思っているところです。
ですからここは極力短く、ポイントをいくつかご紹介するだけに留めることにします。
第一の点とは、我が国が学ばざるを得なかった、苦い教訓についてです。STS、それは科学と、技術の、社会におけるあり方という意味ですが、まさしくそのことを、私達はこれ以上ない厳しさとともに学んで参りました。フクシマと事後の顛末についてであります。
申し上げますが、俗にいうNIH症候群、つまり技術における自前主義の病弊から、私どもはもはや、脱しました。課題への対処のためには、世界中から、能うる限り最も先進的な知見を吸収しなくてはなりません。そのため広く、自らを開いております。
打ち続く問題との取り組みに、我が国は皆さまの知恵を必要としています。ご専門の知識を必要としています。
一方我が国とその技術にも、世の中に役立つものがあります。それが第二のポイントです。
試みに、ご想像いただきたいのですが、中国とインドにある製鉄所が、日本の技術を採り入れたとしますと、それだけで、温暖化ガスの排出を大いに削減することができます。2030年時点での削減幅は5億トン。これがどれくらいの規模かというと、日本全体が現在1年で排出する量の、4割に相当します。
カーボン・ファイバーが、もうひとつの例です。非常に強い素材ですから、自動車で使用する鉄を、代替できます。同時に極めて軽量なので、クルマにカーボン・ファイバーを用いれば用いただけ、少ない量のガソリンしか使わないですみます。
こうしたことから予測をし、2050年時点で、現状に比べ二酸化炭素の排出量は47億トン減らせるとする見立てがあります。日本全体の、現在の排出量に対し、4年分に当たる量です。そしてカーボン・ファイバーを最も多く生産するのはというと、日本です。市場シェアは、およそ7割になります」――
「NIH症候群」という言葉の意味は発言趣旨から大体のところを汲み取ることができたが、具体的には知らなかったから、インターネットで調べてみた。
「NIH症候群」(英: Not Invented Here syndrome)――「ある組織や国が別の組織や国(あるいは文化圏)が発祥であることを理由にそのアイデアや製品を採用しない、あるいは採用したがらないこと」。
「Invente」――「考案する。発明する」
簡略化させて、「自前主義」との意味を与えているようだ。
安倍晋三の発言は一見すると、「フクシマと事後の顛末」は「我が国が学ばざるを得なかった、苦い教訓」だと言っているように見えるが、「STS、それは科学と、技術の、社会におけるあり方という意味ですが、まさしくそのことを、私達はこれ以上ない厳しさとともに学んで参りました」と言っているように、「苦い教訓」と表現した経験に対する学習の具体的対象は「科学と、技術の、社会におけるあり方」であって、「フクシマと事後の顛末」を学習の具体的対象としているわけではないことと、「科学と、技術の、社会におけるあり方」とは、日本は技術の自前主義の病弊から脱して世界の技術と知見を「吸収」し、その一方で日本の技術と知見も外国は必要としているとする技術と知見の相互主義への言及であって、そのような発言の趣旨から判断して、「フクシマと事後の顛末」について外国の技術と知恵を学び、吸収しなければならなかったことを「苦い教訓」だと表現しているはずで、私にはそのようにしか解釈できない。
「フクシマと事後の顛末」に関わる対応で外国の技術と知恵を取り入れなければならなかったことを「我が国が学ばざるを得なかった、苦い教訓」だと表現することは果たして妥当と言えるだろうか。
「学ばざるを得なかった」という言葉の意味は、「学ばないわけにはいかなかった」、あるいは「学ばなければならなかった」という意味で、必要性を見極めた上での自発的な外国の技術・知識の積極的採用ではなく、自前の技術では補うことができなかったことからの止むを得ない選択という非自発的な採用を指しているはずである。
このことは外国の技術・知識の学習を「苦い教訓」としていることにも現れている二重の非自発性でもあるはずである。
「苦い教訓」とは積極的に否定すべき経験を対象として、そこから以後の行動に役立つ何らかの反面教師的な学習材料を学び取り、それを生かして初めて、「苦い教訓」との価値づけが可能となる。
例えば日本の戦後の平和国家としての歩みは戦前の侵略戦争と植民地主義を否定すべき経験とし、それらを反面教師として歴史的な「苦い教訓」としたからこそ、可能となったようにである。
当たり前のことだが、肯定すべき経験を決して「苦い教訓」とは言わない。
だが、「フクシマと事後の顛末」に関わる対応で外国の技術と知恵を学んだことを「苦い教訓」とすることは、外国の技術と知恵の学びを否定すべき経験とすることになって、安倍晋三の言葉使い方のセンスの問題となる。
以上のことが勘繰りでしかない解釈間違いだとしても、何も問題がないわけではない。「フクシマ」の事故が起きて初めて「NIH症候群、つまり技術における自前主義の病弊」から脱出できたとしている点である。
そして今更ながらに外国の技術と知恵の吸収と日本の技術と知恵の外国に於ける利用の相互主義に言及する。
この蒙昧性は如何ともし難い。
律令時代は中国・朝鮮の技術や文化を学び、室町・安土桃山時代以降はポルトガルから技術を学び、江戸時代に入ってオランダから、幕末以降はイギリスやフランス、ドイツの技術を学び、戦中から戦後以降はアメリカの技術を主として学んで日本の技術を成り立たせ、国を発展させてきた姿を取ってきた。
いわば「技術における自前主義」と言っても、日本の技術の大本(おおもと)は外国の技術であって、実態は外国の技術に日本の改良を加えて自前とした技術であって、そのような技術の偏重(裏返すと外国技術の排斥)を以って自前主義だとしたのは単なる勘違いの罷り通りに過ぎず、純粋に自前とする技術は殆ど存在しないのが実情であろう。
安倍晋三にしても自前とする勘違いに陥っていたからこそ、今更ながらに「我が国が学ばざるを得なかった、苦い教訓」だなどと、技術と知恵の外国との間の相互主義に言及することになったはずだ。
日本の自前技術を譬えるとするなら、文字を持たなかった日本民族が中国から「漢字」が伝わって文字を持つことになり、その漢字からひらがなとカタカナをつくり出したことを文字に於ける日本の自前の技術と言うことができ、外国の技術と自前の技術の関係性をそこに見ることができる。
では、外国の技術の助けなし日本の技術を確立することができなかったにも関わらず、いわゆる自前とすることができなかったにも関わらず、なぜ日本人は、安倍晋三にしてもそうだが、「技術における自前主義の病弊」に陥ったのだろう。
それは日本人が持つ日本民族優越主義と健忘症が成せる技としか答を見い出すことはできない。民族的優越意識が客観的認識性を奪ってありとあらゆる相互主義を排除し、結果として自己を絶対視するに至っていたために、そこに健忘症を介在させることになり、日本という国が日本の技術だけで成り立たせてきたわけでもないのに日本の技術は優秀だという過信に取り憑かれて「技術における自前主義の病弊」に陥ることとなった。
安倍晋三は特にその傾向が強いにも関わらず、技術の相互主義を言い出したのは発言の場が「科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム」であったことと、日本の技術を海外に売り込んで日本の経済成長の一助としなければならない立場に立っているからだろう。
日本が福島原発事故に終止符を打ち、一定の期間が経ったなら、再び健忘症が頭を持ち上げて、残存している日本民族優越主義から、「技術における自前主義の病弊」に再度陥らない保証はない。
相互主義を常に頭に置くことが唯一、日本民族優越主義を免れる有効な道であろう。男性と女性の関係も同じで、そこに相互主義を置いていないと、それぞれに強弱はあるだろうが、男尊女卑の上下関係を取ることになる。
安倍晋三の相互主義が俄仕込み(にわかじこみ)だとすると、普段言っている「女性の活用」も経済成長に利用するためだけの活用の疑いが濃い。
いずれにしても安倍晋三の挨拶から、そのお粗末・貧困な客観的認識性を窺うこととなった。
桜田義孝文科副大臣が9月5日(2013年)千葉県野田市での会合で東電福島第一原発事故で発生の放射性物質を含む焼却灰の処分について福島と福島県民を思い遣る内容の発言をしたという。安倍内閣の一員として、当然の配慮である。さすがはトップが安倍晋三だけのことはある。
《放射性物質含む灰「福島に置けば」と桜田副大臣》(YOMIURI ONLINE/2013年10月7日19時58分)
桜田義孝「人の住めなくなった福島に置けばいい」――
読売新聞が本人に取材、確かめた。
桜田義孝「参加者への質問として聞いた。『福島』とは東京電力(福島第一原発)の敷地内のことだ」――
「人の住めなくなった」がどこかに飛んでいってしまっている。「東京電力(福島第一原発)の敷地内」は夜勤作業員の仮眠所等は存在するかもしれないが、人が住むという意味の居住区ではない。
菅官房長官は9月7日記者会見。
菅官房長官「誤解を与えるような発言は慎むべきだと(桜田氏に)注意した。
(辞任などを求める可能性について)全く考えていない」――
菅官房長官は「誤解を与えるような発言」で済ますことができると考えているが、果たしてそうだろうか。
「時事ドットコム」の取材に対しては次のように釈明している。
桜田義孝「焼却灰を東電の敷地で引き受けてもらったらどうかという意見もあるとの趣旨だった。
(自らの責任について)全く辞任する話ではない」――
この釈明では「人の住めなくなった福島」そのものをどこかに飛ばしてしまっている。桜田義孝は自身が口から発した言葉の、決して小さな問題ではない、その重大さに気づいていない。
福島の現状から言うと、「人の住めなくなった福島」には二つの意味を考えることができる。一つは残留放射能線量が高過ぎて全然住めなくなった地域を意味する「人の住めなくなった福島」
もう一つは住むことはできるが、人口流出等の理由で当たり前に住める状況ではなくなった地域を意味する「人の住めなくなった福島」
前者・後者いずれであったとしても、安倍内閣は「人の住めなくなった福島」を“人の住める福島”とする努力と責任を負っている。
それが放射線の年間積算線量が50ミリシーベルトを超え、5年間を経過しても年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らない恐れのある地域に対して5年以上の長期に亘る居住制限を課した、「人の住めなくなった福島」を最大限象徴することになる「帰還困難区域」であったとしても、政府は1日でも早く“人の住める福島”とする、住民帰還の方向に向けた生活の原状回復を果たしていかなければならない。
いわば、「人の住めなくなった福島」は常に“人の住める福島”への方向性を持たせた認識としていなければ、安倍内閣の一員としての責任と努力を果たしていない、逆の責任と努力の放棄を意味することになる。
では、桜田義孝の「人の住めなくなった福島」は“人の住める福島”への方向性を持たせた認識となっていたのだろうか。住民帰還の方向に向けた1日も早い生活の原状回復を願う意味・感情を持たせた言葉となっていたのだろうか。
桜田義孝は放射性物質を含む焼却灰の最適な処分地はどこがいいのかの文脈で、「人の住めなくなった福島に置けばいい」と言ったのである。
人が住めなくなったのだから、焼却灰の処分地としても住民に被害も悪影響も与える心配はないという意図がそこになければ、成り立たない発言であって、「人の住めなくなった福島」を“人の住める福島”へと原状回復させていく方向性を持たせた発言であるはずはなく、当然のこととして、その発言は「人の住めなくなった」状況の恒久化を止むを得ないとする意図が込められていることになる。
言ってみれば、安倍内閣の一員として常に志していなければならない「人の住めなくなった福島」から“人の住める福島”へと変えていく方向性とは180度異なる住民帰還を否定する方向性を示したことになる。あるいは生活の原状回復を否定する方向性を意図していたことになる。
この否定はまた、安倍内閣の一員として担っている責任と努力の否定であって、責任と努力の放棄を意味する。一員として常に自覚していなければならない責任と努力を自覚していなったとことを意味する。
官房長官が言うように決して単なる「誤解を与えるような発言」ではない。自らの責任と努力を自覚していない内閣の一員という逆説的な欠格性は許されない。
任命責任者が更迭するか、自ら辞任を申し出るかして、責任を取らなければならない発言であるはずだ。
10月5日、川崎市で拉致家族会主催の「拉致被害者家族を支援するかわさき市民のつどい」で出席者の一人、古屋圭司拉致問題担当相の発言として、安倍晋三が9月29日に東京都内の私邸でモンゴルのエルべグドルジ大統領と会談した際、拉致問題解決への協力を要請したことを明らかにしたと「時事ドットコム」が伝えている。
安倍晋三は拉致問題についての日本の立場や、自身の決意を伝えたという。
日本の立場とは拉致解決なしに日朝国交正常化も経済援助もないといった決まり文句を、決意に関して言うと、要するに「拉致問題は安倍内閣で解決する」とこれまた例の如くの決まり文句を述べたということなのだろう。
日本の立場と決意から、一向に前へと進んでいない。
逆説すると、あるのは日本の立場と決意を述べるだけで終わっているということになる。
集い終了後、記者たちに答えている。
古屋圭司「モンゴルとしても最大限、協力しなければいけないと、しっかり感じ取っていただいたと思う」――
前々から言っていることだが、すべては北朝鮮当局を拉致議論のテーブルに直接的に引き出すことができる日本側の条件に掛かっているのであって、いわばその条件を日本側が譲歩しない形で如何に提示し、北朝鮮に如何に飲ますことができるかの日本の北朝鮮に対する外交能力が問題となっているはずだが、その条件に関してはモンゴルが北朝鮮と国交があろうがあるまいが、モンゴルには関与できない事柄であるはずだ。
にも関わらず、モンゴルに協力を要請する。
安倍晋三は既に今年の3月30日、31日と2日間の日程でモンゴルを訪問している。このときの共同記者会見を次の記事が伝えている。
《日モンゴル首脳会見要旨》(時事ドットコム/2013/03/30-23:57)
記者「北朝鮮によるミサイル発射や核実験、拉致問題については」
アルタンホヤグ首相「モンゴルは北朝鮮と友好関係を保っている国として、(北朝鮮との)話し合いをウランバートルで開催する用意があることを伝えた。モンゴルは2月の北朝鮮の核実験に対する国連安保理決議を守っていくと伝えた」――
要するにモンゴルは日本と北朝鮮の話し合いの場を首都ウランバートルにセットすると言っているだけのことで、モンゴル自身が北朝鮮に対して拉致解決を進めるよう直接申し入れるとは言っていない。
記者「北朝鮮や中国に関し、会談でどのような話があったか」
安倍晋三「北朝鮮に対する日本の立場を首相と大統領に説明した。北朝鮮が国際社会に対して取っている挑発的な行為は断じて許すことはできない。安保理決議を実行していくことが重要だ。拉致問題は極めて重視しており、安倍政権で解決していく決意だ。モンゴル政府からはわが国に対する理解と支持の表明があった」――
発言から分かることは、安倍晋三が9月29日に東京都内の私邸でモンゴルのエルべグドルジ大統領と会談して日本の立場や自身の決意を伝えたと古屋圭司が10月5日の拉致家族会主催の集会で明らかにしたことを安倍晋三は今年3月30日、31日のモンゴル訪問で既に同じことをしていたということである。
いわば2013年3月30日、31日に関して言うと、モンゴルに対して拉致解決協力要請と日本の立場や自身の決意を述べるという成果を手に入れただけであったことを意味し、9月29日の機会に3月30日、31日の機会と同じことの繰返しを演じただけであったということになる。
当然、両者間に何ら成果も進展もなかった。
モンゴルの側から言うと、日本の拉致問題協力要請に対して安倍晋三が話す日本の立場や決意を聞く以外、何のお役にも立つことはなかったことになる。
拉致問題の進展が北朝鮮当局を拉致議論のテーブルに如何に引き出すか、そのことの日本側の条件に掛かっている以上、モンゴルは今後共、何のお役にも立つことはないだろう。
実は古屋拉致担当相は今年7月10日に行われた6月の大統領選再選のエルベグドルジ大統領の就任式出席のためにモンゴルを特使として訪問としている。
7月11日夕方、帰国して成田空港到着後の対記者発言。
古屋圭司「北朝鮮による拉致問題について、日本の基本的なスタンスを伝えたのに対し、エルベグドルジ大統領は『全面的に協力したい』と答えた。
拉致問題を解決するため、日本は世界各国と協力関係を構築しているが、北朝鮮と国交のあるモンゴルからも力強い支援の言葉を頂けたことは成果があった」(NHK NEWS WEB)――
「日本の基本的なスタンス」と言っていることは安倍首相が言っている「日本の立場」と同じ意味内容のことであろう。そしてエルベグドルジ大統領が「全面的に協力したい」と答えたことを成果だと位置づけている。
成果は一つの進展を意味するのは断るまでもないことであって、その進展は次なる何らかの発展を見なければ、いわば一つの進展のままとどまっていたのでは成果としての意味を失う。
だが、7月11日には「北朝鮮と国交のあるモンゴルからも力強い支援の言葉を頂けたことは成果があった」と、モンゴルに対する拉致解決協力要請は一つの進展だと言っていたにも関わらず、約3カ月後の10月5日には「モンゴルとしても最大限、協力しなければいけないと、しっかり感じ取っていただいたと思う」と、以前言っていた成果に何ら進展がないことを言い、前言との矛盾に何も気づいていない、外交能力に致命的な記憶力と認識能力の程度を示している。
また、安倍晋三が今年の3月30日、31日のモンゴル訪問の機会にモンゴル首相に拉致解決の協力を要請し、日本の立場と自身の決意を述べたことは情報として常に頭の中に認識していなければならないにも関わらず、9月29日のモンゴルのエルべグドルジ大統領の訪日の際、安倍晋三の私邸で会談、安倍晋三が拉致解決の協力要請と拉致問題についての日本の立場や自身の決意を伝えたとその会談内容を紹介したが、このような紹介にしても、半年前から何ら進展がないことによって同じことの繰返しとなる同じ場面だと認識することができない外交無能力を同じく曝け出している。
要するに安倍晋三と古屋圭司共々、何ら進展のない同じことの繰返しを演じていながら、同じことの繰返しだと認識できない外交無能力をコンビさながらに曝け出していたということである。
譬えるなら、同じところを回る昔の壊れたレコード盤が同じ歌の一節を繰返すのに似た、そういった域を出ない外交を展開していると言うことができるはずだ。
9月1日(2013年)午前11時半頃、40歳の女性が横浜市緑区のJR横浜線踏切内の線路上に横たわっていた74歳の男性を助けようして、自身は電車にはねられて死亡し、男性は鎖骨を折るなどの重傷を負ったものの一命を取り留める事故が起きた。
助けようとした人間が命を落とし、助けられた人間だけが助かるというのはまさに皮肉な結果としか言いようがないが、マスコミは不謹慎と考えたのか、誰も皮肉な結果とは書いていない。
私自身は、「皮肉だな」と思った。年齢で生命(いのち)の価値に上下の差別をつけてはならないが、74歳の男性が助かり、40歳の女性が亡くなったことにも、正直な感想として皮肉を感じた。
「MSN産経」記事によると、74歳の男性は神奈川県警緑署や目撃者の証言として、〈レールの上に首を置いた状態で倒れていたが〉、女性がその身体を線路の間に横たわらせる状態に向きを変えたために電車がその上を通過、緑署はそのことが救命の原因となったと見ているという。
〈レールの上に首を置いた状態〉とは、レールを枕にして身体を仰向けに寝かせた姿勢で気を失っていた、あるいは半意識状態で朦朧としていたことを言うはずだ。いわばそのような心身状態でレールに対して身体を直角に位置させていたことになる。
仰向きになって喉の辺りをレールに乗せていたなら、〈レールの上に首を置いた状態〉とは言わないだろう。
女性は警報が鳴って降りてきた遮断機で停車した車列の先頭の父親の運転する車の助手席に座っていて、線路上に倒れている男性を目撃、父親の制止を振り切って車から降り、遮断機を潜(くぐ)って踏切内に足を踏み入れ、助けに向かった。
非常ボタンを押した人「ちょうど、女性の方は、お父さんと一緒に車に乗っていて、言い争いというか、『やめろよ』みたいな形で。お父さんは、『危ないから』と言われていたみたいです。車から出ようとするのを止めていました」(FNN)――
助ける、いや、危ないからやめろといった言い合いはあったのだろうが、「車から出ようとするのを止めていました」という目撃と運転席と助手席の間での父親の娘に対する制止から考えて、父親が娘の腕を掴んでか、服を掴んでの制止ということでなければならない。
目撃者は実際に父親の制止する言葉を聞いたわけではなく、印象から制止の言葉を発していると見えた。そういった状況下で、もし最後まで「おい、やめろ」といった言葉だけの制止だとしたら、離れた位置から「車から出ようとする」態勢にあった女性に対する制止を窺うことは困難だろう。
助ける、いや、危ないからやめろといった言い合いが女性が車を降りようとする瞬間、服を掴むか腕を掴むかする身体的制止が加わったと考えるのが自然であるはずだ。
例えそうではなかったとしても、父親の制止によって僅かであったとしても時間を取られたことは皮肉な結果を招いた一因となったことを認めないわけにはいかないはずだ。
いわば父親の制止が災いしたと言うこともできる。尤も父親はその時点で最悪の結果を予想し得なかったのだから、制止したことに関しては父親に責任があるわけではなく、あくまでも結果論に過ぎない。
皮肉な結果となったなという思いと同時に40歳の女性の行動は美しい勇気ある行動だが、記事が伝えていないことに関していくつかのごくごく個人的が謎が残った。
先ず74歳の男性が〈レールの上に首を置いた状態で倒れていた〉と言うが、何か持病を抱えていて、踏切を渡る途中、突然何かの発作に襲われて〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉込んだのだろうか。
単に線路につまずいて倒れたというのなら、前方に倒れるだろうから、後頭部を打つ危険性は少なく、すぐに立ち上がることができたはずだ。
足をひねるかして倒れたとしたら、足のひねりと同時に身体をひねることになって側頭部、最悪後頭部を打つ可能性は否定できず、直ちに立ち上がることができなくても不思議はないが、〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉るには、レールの一歩か二歩手前で倒れなければ、都合よく〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉ることはできない。
レールにつまずいて〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉るには、特異な偶然を必要とする。
当然、レールの手前で段差等、けつまずく障害が何もなかったにも関わらず、何かの持病を抱えていて、突然の発作に襲われて倒れ込んで、〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉たとしか考えることができない。
どの記事も持病があったことも、逆に健康な状態であったことも触れていないから、健康状態を窺うことができないが、持病あるなしに関係せずに、あるいは発作があったなしに関係せずに、〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉るもう一つの可能性として覚悟の自殺を考えることができる。
不謹慎で想像してはいけないことだし、そんなことはあるはずはないと思いながら、「MSN産経」記事が父親の話として、〈踏切の手前で停車したところ、反対側から無職男性が踏切内に入るのが見えた。その後、男性は線路内でうずくまるような格好をして、首を線路に乗せた。〉と伝えている。
記事の解説から見る限り、遮断機のある踏切は電車が通過する際は先ず警報音が鳴ってから一定の間隔を置いて遮断機が降りる仕掛けとなっているから、74歳の男性は少なくとも警報音を無視して踏切内に入ったことになる。そして〈線路内でうずくまるような〉行動を取ってから、〈首を線路に乗せ〉る順序立った特定の行動を意図したことになって、突然の発作に襲われたとは考えにくい。
もし警報音が鳴っていた時点で既に何かの発作の初期状況に見舞われて警報音が聞こえない状態になっていたとしても、そうであるなら、足取りにふらつくかよろよろするかの何らかの症状が現れていて、誰かがその様子を目撃するはずだ。
だが、触れた記事に関してはそういった事実を伝えている記事を見かけることはできない。
覚悟の自殺を意図して〈レールの上に首を置いた状態で倒れ〉たとしたら、その生命(いのち)を危険を顧みずに助けようとした40歳の女性が逆に生命(いのち)を落とし、自殺を意図した74歳の男性の生命(いのち)を助けたことになって、その皮肉な結果は譬えようもなく滑稽な憤りを感じないわけにはいかない。
もう一つの謎は父親の危険だからと制止した態度は無理のないことだとしても、娘が遮断機を潜って線路内に立ち入った時点で、なぜ娘の救命を助ける行動に出なかったのだろうか。
父親はまだ67歳だというから、一般的にはまだまだ元気だろうし、必死になって行動すれば、普段以上の力を発揮する。
運転席に座ったまま、娘が線路上に倒れこんだ74歳の男性の身体を動かそうとする姿と電車が近づいてきて、娘の身体に衝突、その身体を跳ね飛ばす瞬間を逐一傍観していた。
あるいは電車が娘を跳ね飛ばそうとする瞬間、ハンドルに顔を伏せて目を閉じたかもしれない。
父親だけではなく、目撃者にしても非常ボタンを押した人も、誰も助けに出ず、傍観者となっていた。
事故後、父親はその日の夕方、自宅前で記者に対してだろう、娘の死について話している。
父親「助けた人が無事というのが、せめてもの救いだが、私より先に死んでほしくなかった。遮断機が下りる前に踏切を渡っていればよかった」(TOKYO Web)――
自身を慰めるに「せめてもの救い」としか言い様がないのだろうが、74歳の男性を助けて、助けようとした40歳の自分の娘が助けた男性よりも遥かに若いのに命を落とさなければならなかったことの不条理と同時に娘の行動を最初は制止し、行動に出てからも傍観者であり続けたことの自責の念を何も感じなかったわけではあるまい。
だが、残酷なことであっても、傍観者であり続けたことをも含めた起こったことの事実はもはや変えることができないにも関わらず、あるいは現実を受け入れなければならないにも関わらず、遮断機がまだ降り始めない内の警報音だけが鳴っている間に無理して踏切を渡っていれば、何事も起こらなかったはずだという思いからの「遮断機が下りる前に踏切を渡っていればよかった」という後悔は不条理な事実ばかりか、傍観者であり続けた事実をも抹消できるという願望からも発した思いであるはずだ。
父親は今後、その不条理の思いと自身が傍観者であり続けたことの自責の念との、明らかに後者が上回ることになる差引き勘定に苦しめられることになるのではないだろうか。
そのことをも不条理そのものではあるが。
自らの生命(いのち)を顧みずに人命救助に向かった女性の勇気ある行動にJR東日本が事故現場の踏切に設けた献花台に多くの人が訪れて花を手向け、女性の冥福を祈ったと多くの記事が伝えている。
神奈川県も横浜市も感謝状を送り、神奈川県警も感謝状を送るということである。
菅偉義官房長官の9月4日の記者会見。
菅官房長官「他人にあまり関心を払わない風潮の中で、他人のために自らの生命の危険を顧みず、救出に当たった行為を国民と共に胸に刻んでまいりたい。安倍総理大臣は、『勇気ある行為を、国民の皆さんの胸に刻んでおくという意味で、ぜひ、讃えたい』と話している」(NHK NEWS WEB)――
その上で、女性に対して安倍晋三がその勇気ある行為を讃えると共に弔意を表す感謝状を贈ることと、4日の閣議で人命救助活動で功績のあった人や団体に贈られる紅綬褒章を贈ることを決めたことを発表したという。
感謝状は菅官房長官がが9月6日に遺族の元に届けるということだ。
果たしてこういったことだけで片付けていいことなのだろうか。
美しい勇気ある行動であることは誰もが否定できない事実だが、いくつかの謎が釈然としない疑問を残すことになった。
余談だが、倒れている身体を移動させるには身体を仰向かせて、頭の方から両腋に左右の手をそれぞれ差し込み上体を持ち上げるか、足の方から足首を握って引くずるかして移動させるが、体重が重くて女性の力では上体を持ち上げることができなければ、後者の方法で引きずる方が移動させやすい。
線路上、あるいは路上に電車や車の通行方向と平行に倒れていた場合、通行方法と直角の方角に自分を位置させて電車や車を避ける方法で身体を移動させることによって、自身をより安全に守ることができるようにしなければならない。
だが、今回の場合、レールを枕にして線路に直角に仰向きになっていた状態であったことを考えると、下半身が線路からより多くはみ出していたはずだから、最初から線路の外に自分を位置させておき、電車が走ってくる方向に視線を向けながら、足を引っ張ってそのまま線路とは直角の方向に引きずり出す遣り方で助け出す方法を取り、間に合わないと思ったなら、足を離して自分だけ助かる道を選択しなければならなかったはずだが、焦っていたのか、あるいは助け出すことだけを考えて夢中になっていて電車の警笛が耳に入らなかったのか、線路に直角に倒れていた男性を逆に自身も線路内に入って、レールとレールの間に平行に移動させてしまった。
止むを得ないことだったとしても、その間違いは物悲しい。
口先だけの自信家安倍晋三が2013年7月25日から3日間の日程でマレーシア、シンガポール、フィリピンの東南アジア3カ国を訪問している。訪問最終日の9月27日、訪問最終国のフィリピン・マニラで内外記者会見を開いた。
冒頭、次のように発言した。
安倍晋三「地球儀を俯瞰する外交を、マレーシア、シンガポール、フィリピンの訪問から再開した。日本の国益はもとより、地域・世界の平和と繁栄に貢献する戦略的外交を進めていく」(首相官邸HP)
「地球儀を俯瞰する外交」とは、安倍晋三持論の「2国間関係だけを見るのではなく、地球儀を眺めるように世界全体を俯瞰する戦略的な外交」(MSN産経)のことらしいが、東南アジア3カ国訪問はその外交の再開だと宣伝している。御大層な外交を展開するようで、聞こえはいい。
チャップリンの映画「独裁者」ではチャップリン演ずる独裁者ヒトラーが大きな地球儀の風船を手に乗せて持ち上げたり、足で蹴り上げて宙に浮かせたり、地球を弄ぶシーンが確かあったと思うが、安倍晋三の「地球儀を俯瞰する外交」とは、世界を地球儀に矮小化させたインスタント外交というわけではあるまい。
安倍晋三は出発に先立って、羽田空港で記者たちに抱負を語っている。《首相 東南アジア3か国へ出発》(NHK NEWS WEB/2013年7月25日 10時56分)
安倍晋三「成長著しいASEAN・東南アジア諸国連合の活力を、日本の経済再生に取り込んでいきたい。自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった普遍的価値を共有する国々との連携を強化をしたい」
前日の9月24日には中国軍機が沖縄本島と宮古島間の公海上空を初めて通過している。
安倍晋三「今までにない特異な行動で今後注視していきたい。今回の訪問を通じて、力による支配ではなく法による支配という秩序をしっかりと作っていくという認識を共有したい」――
要するに「自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった普遍的価値」を以てして、今回は3カ国だが、それらを共有する国々と経済や安全保障の分野、文化交流や人的交流で連携、共有せずに力の支配を目指していると見ている中国に対抗する、いわゆる中国包囲網の戦略を安倍外交の柱とするということなのだろう。
問題は3カ国のみならず、訪問国が安倍晋三の「地球儀俯瞰外交」=中国包囲網にどれ程に協力するか、その協力が中国に対してどれ程に影響力を発揮することができるかどうかにかかることになる。
安倍晋三の側から言うと、どれ程に協力させることができ、その協力が中国に対してどれ程の影響力を持たせることができるかどうかの戦略の有効性が問われることになる。
最初の訪問国マレーシアについてのその有効性を見てみる。
7月25日、安倍晋三はマレーシアのナジブ首相と会談している。《インフラ整備で協力確認 日・マレーシア首脳会談》(日経電子版/2013/7/25 22:08)に次のような解説がある。
〈安全保障分野では海上での防衛当局間の協力強化を確認。中国と南シナ海の領有権を巡る対立では、安倍首相が「すべての関係国が一方的な行動を慎むことを含め、国際法を順守すべきだ」と訴え、ナジブ首相も「同じ立場だ」と答えた。〉――
ベトナムとフィリピンの間にあるスプラトリー諸島について、中国、台湾が全体の領有を主張し、ベトナム、マレーシア、フィリピン、ブルネイの4カ国が一部分の領有を主張、その他でも領有権争いが存在するということだが、安倍晋三はナジブ・マレーシア首相と会談して、中国を視野に入れた対抗策として安全保障分野での協力強化確認と領有権問題での「自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった普遍的価値」に基づいた、いわば「力による支配ではなく法による支配という秩序」構成の「国際法順守」で意見の一致を見た。
これが安倍晋三のマレーシアに対する戦略的な「地球儀俯瞰外交」というわけである。
その効果の程を次の記事が伝えている。一昨日4日の発信だから、まだホットニュースの部類に入る。
《中国とマレーシアが関係格上げで合意、2017年までに通商3倍に》(ロイター/2013年10月4日 14:40)
中国の習近平国家主席が10月4日、マレーシアのナジブ首相と会談、両国関係を「包括的戦略的パートナーシップ」に格上げすることで合意し、軍事面の協力強化と、マレーシアにとって中国は既に最大の貿易相手国となっていて両国間の昨年の輸出入合わせた貿易額1810億リンギ(約570億ドル)を2017年までに現在の3倍近い1600億ドルに拡大することを目指すことで一致したという。
要するにマレーシアは安倍晋三が「自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった普遍的価値」に基づいていないとしている中国と軍事面、経済面、その他に関しても包括的戦略的パートナーの関係に入ることを取り決めたことになる。
このような中国とマレーシアの2国間関係は安倍晋三のマレーシアに対する価値観外交の中国に対する影響の有効性の喪失――中国包囲網の有効性喪失の証明以外の何ものでもないことを物語ることになる。
安倍晋三がマレーシアと「自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった普遍的価値」に基づいた安全保障分野での連携強化を確認し合い、マレーシアが安倍晋三が「自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった普遍的価値」に基づいていないとしている中国と軍事面、経済面、その他に関しても包括的戦略的パートナーの関係を取る、このような日本とマレーシアと中国3国間の奇妙な三角関係を解くとしたら、マレーシアにとって日本との関係が中国に影響せず、中国との関係が日本に影響しないという認識でなければ成り立たないことになる。
勿論、影響する場合もあるだろう。だが、すべてのケースで相互に影響するとは限らない多国間関係とはそれぞれに決定された関係性が2国間関係に於いては相対化されて導き出すことになる相互無関係性ということであろう。
当然、「地球儀を俯瞰する外交」、もしくは価値観外交には限界を見なければならない。だが、安倍晋三は「地球儀を俯瞰する外交を、マレーシア、シンガポール、フィリピンの訪問から再開した。日本の国益はもとより、地域・世界の平和と繁栄に貢献する戦略的外交を進めていく」と、その絶対的有効性を宣言した。
この矛盾、整合性の欠如は安倍晋三の客観的・合理的認識能力の程度から来ているはずだ。結果として、「地球儀を俯瞰する外交」にしても価値観外交にしても、それぞれの限界を弁えない宣伝先行の外交とすることになっている。
安倍晋三の外交無能の所以がここにある。
日本訪問のアメリカ閣僚による一つの珍事が起きた。《千鳥ケ淵墓苑で献花=米国務長官ら》(時事ドットコム/2013/10/03-11:45)
全文を引用してみる。
〈米国のケリー国務長官とヘーゲル国防長官は3日午前、東京・三番町の千鳥ケ淵戦没者墓苑を訪れ、献花した。同墓苑は、身元不明の戦没者や民間人の犠牲者の遺骨を納める国立施設。献花は米側の要望によるもので、外国要人の訪問は初めて。
同墓苑は宗教色がなく、A級戦犯が合祀(ごうし)されて閣僚の参拝が中韓両国との対立の種になっている靖国神社と異なる。米閣僚の訪問には、戦没者の追悼をめぐり、冷静な態度を維持するよう日本を含む各国に促すメッセージが込められている可能性もある。〉――
記事が書いている通りの意図のもとの訪問かもしれないが、そうであったとしても、この訪問が決定づけることになる一つの重大な事実を見逃すことはできない。
参考までに千鳥ケ淵墓苑を「Wikipedia」からより詳しく見てみる。
〈千鳥ケ淵戦没者墓苑は、東京都千代田区三番町にある戦没者の納骨堂である。第二次世界大戦の折に日本国外で死亡した日本軍人・一般人のうち、身元が不明の遺骨や引き取り手のない遺骨を安置するため、1959年(昭和34年)につくられた。〉
なぜ靖国神社ではなかったのだろうか。安倍晋三のアーリントン墓地と靖国神社との等価値化による靖国神社参拝の正当化論からしたら、靖国神社でなければならなかったはずだ。
だが、アメリカ側は靖国神社ではなく、千鳥ケ淵墓苑を訪れ、献花した。
安倍晋三は2013年2月28日の衆院予算委員会で次のように答弁している。
安倍晋三「先般、訪米した際に、アーリントン墓地に参拝をいたしました。それはつまり、アメリカのために戦い、命を失った兵士たちに敬意を表するためであり、これは国際的な儀礼として、首脳間の訪問の際に行われることでございます。
訪米の際に、CSIS(米戦略国際問題研究所)というところで講演をしたのでありますが、そこで質問を受けることになっておりまして、場合によって、私の靖国参拝について質問が出るかもしれないと思って、私なりに答えを用意していたわけでありますが、それはつまり、アーリントン墓地に私は参拝をいたしました、それは国のために戦った兵士たちに敬意を表することであり、これは当然のことであろうと私は思いますと。その中において、日本に於いては、靖国神社に祀られている、日本のために戦い命をささげた英霊に対して、国のリーダーが敬意を表するのは当然のことではないかと私は思うと申し上げようと思っていました。
かつ、アーリントン墓地には南軍の兵士も北軍の兵士も眠っているわけでありまして、それは、例えば南軍の兵士が南北戦争において奴隷制度を堅持するために戦ったという理念とはかかわりなく、それはすなわち、国のために戦ったということで敬意を表するのであって、その理念とはかかわりがないということについてもお話をさせていただこうと思っておりました。
いずれにせよ、国のために戦った英霊に対して敬意を表する、これは当然のことであろう、このように思っております」――
戦没兵士はアメリカではアーリントン墓地に眠っている、「日本に於いては、靖国神社に祀られている」、それらの兵士に敬意を表するのはそれぞれが国のために戦ったからであり、その共通性から日本の首相が訪米した際にアーリントン墓地に献花のために訪れるのは、「これは国際的な儀礼として、首脳間の訪問の際に行われることでございます」と靖国神社とアーリントン墓地を等価値化し、「日本のために戦い命をささげた英霊に対して、国のリーダーが敬意を表するのは当然のことではないか」と靖国神社参拝を正当化している。
要するに日本の靖国神社に対するアメリカの同等の施設としてアーリントン墓地を等価値化し、アメリカのアーリントン墓地に対する日本の同等の施設として靖国神社を同じく等価値化して、アーリントン墓地訪問が何ら問題がないのと同じく靖国神社参拝も問題がないし、一国の首脳が外国を訪問した際には相手国の同等の施設を訪れるのは国際的な儀礼だとしている。
アメリカ側は安倍晋三によってアーリントン墓地が靖国神社と等価値化の栄誉を受けたことになる。
尤も大変名誉なことだと喜んだという報道には残念ながら未だ接していない。
この等価値化論からしたら、安倍晋三が北朝鮮を訪問することがあったなら、朝鮮戦争を国のために戦って尊い命を失った北朝鮮兵士を祀る朝鮮戦争戦没者墓地を訪れて追悼しなければならなくなると、2013年7月31日当ブログ記事―― 《安倍晋三は北朝鮮を訪れた場合は、朝鮮戦争戦没者墓地を参拝しなければならない - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》を書いた。
また、同じくこの等価値化論が正当性を得るためには来春予定のオバマ訪日の際には「首脳間の訪問の際に行われる」「国際的な儀礼として」、オバマ大統領の靖国神社参拝を実現させなけれればならないとする内容の、2013年8月6日当ブログ記事――《安倍晋三の自己の靖国参拝正当化のためにはオバマ大統領の訪日時の靖国参拝を実現しなければならない - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》を書いた。
勿論、オバマ政権の首脳の一員としてケリー国務長官とヘーゲル国防長官も安倍晋三が唱える靖国神社とアーリントン墓地等価値化論に準じることによって安倍晋三の靖国神社参拝は正当化され得ることになる。
だが、両閣僚はA級戦犯が合祀されている靖国神社ではなく、身元不詳や引き取り手のない兵士や民間人の遺骨が安置されている千鳥ケ淵墓苑を選んで、献花し、それを以て「国際的な儀礼」とした。
いわば千鳥ケ淵墓苑を自らの国のアーリントン墓地と等価値に置いた献花ということになる。
意図してのことなのかどうか分からないが、少なくとも結果的には両閣僚は安倍晋三の靖国神社とアーリントン墓地との等価値論を認めなかったことになる。
安倍晋三は今後アーリントン墓地を引き合いに出して、A級戦犯が合祀されている靖国神社を等価値に置き、それを以て参拝を正当化することは許されなくなった。
何度でも書いているが、私自身は先進国の一員としての責任を果たすために集団的自衛権の行使に賛成である。
但し国家の安全保障は軍事力によってのみ果たすことができるわけではなく、集団的自衛権は軍事上の一手段に過ぎない。
国家の安全保障は先ずはその国の指導者の質がカギを握ることになる。指導者の質によって、国家の安全保障を優先的に担わなければならない常日頃からの外交の在り様(ありよう)が決定されていくからだ。
指導者の質によって決定されていく外交を優先事項として内政、経済、公的人材によるものだけではない民間同士の人的交流をベースとした二国間関係、文化等々の総合力がより強固な国家の安全保障を構築するはずだし、軍事力は二国関係(ときには多国関係)を決定づける最終手段に位置するはずだ。
このことはイランを例に取ると、よりよく理解できる。前大統領アフマディネジャド大統領の強硬姿勢が西欧との関係を険悪化の方向で決定づけて経済の弱体化を招き、ロウハニ新大統領の柔軟姿勢が険悪となった西欧との関係改善のカギを握ることになった。
問題は国内強硬派のロウハニ大統領の柔軟姿勢に対する介入である。指導者自身がいくら柔軟姿勢を持っていたとしても、周囲の圧力に屈して強硬姿勢に転ずる場合もあり、例えそれが本人の意図していない姿勢であったとしても、本人が最終決定した柔軟姿勢の放棄であり、強硬姿勢への転換ということになる。
安倍晋三は2013年9月12日、日本の外交・安全保障政策の中長期的な指針となる「国家安全保障戦略」の策定に向けて有識者会議「安全保障と防衛力に関する懇談会」の初会合を官邸で開催した。初会合は安保戦略の柱に「積極的平和主義」を据える方針で一致した。
安倍晋三は次のように発言している。
安倍晋三「現在の国際社会ではどの国も一国で自らの平和と安全を維持することはできません。安倍内閣では、国際協調主義に基づく積極的平和主義の立場から、世界の平和と安定、そして繁栄の確保に、これまで以上に積極的に寄与していく所存です。こうした考えの下、我が国で初めて、国家安全保障に関する基本方針として、外交政策及び防衛政策を中心とした『国家安全保障戦略』を策定することといたしました。この国家安全保障戦略は、安全保障に関連する政策への指針を与えるものとする考えです」(首相官邸HPから)
「国家安全保障に関する基本方針として、外交政策及び防衛政策を中心とした『国家安全保障戦略』を策定することといたしました」と言って、外交政策と防衛政策を両立させているが、「国際協調主義に基づく積極的平和主義の立場から、世界の平和と安定、そして繁栄の確保に、これまで以上に積極的に寄与していく所存です」と言っていることは、あくまでも外交が決定づけていく「国際協調主義」であり、当然、外交優先で構築していく「積極的平和主義」を日本の国際社会に向けたあるべき姿とするということになる。
軍事は外交で片付かなかった場合の最終的自衛手段ということになる。
安倍晋三は9月17日の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」第2回会合の挨拶で、「積極的平和主義」について面白い言葉遣いをしている。
安倍晋三「我が国の国力もまた、激変してきました。何もかも失った終戦直後の経済状況から速やかに復興し、世界有数の経済力を誇り、アジア地域で随一の先進民主主義国家として、世界政治の指導的責任を分有する国の一つとなりました。我が国の繁栄は、平和で安定した国際的環境なしにはあり得ません。我が国は、単に国際協調という言葉を唱えるだけではなく、国際協調主義に基づき、積極的に世界の平和と安定に貢献する国にならねばなりません。私は、この積極的平和主義こそ、日本が背負うべき21世紀の看板であると思います」
「積極的平和主義」は21世紀の日本が背負う「看板」だと言っている。看板とは文字に書いて掲げたものを言う。「積極的平和主義」は「積極的平和主義」という文字を書いて掲げた看板ということになる。
何らかの確かな思想に裏付けられた21世紀の外交理念というわけではないらしい。
「看板」という言葉を使うこと自体、その外交センスを疑うことになる。
つい先頃の9月26日午後(現地時間)、第68回国連総会での一般討論演説でも「積極的平和主義」に触れている。
安倍晋三「さて、議長とご列席の皆様、
私達の国とその首都東京は、7年後の2020年、オリンピック、パラリンピックを、ホストする栄誉に浴しました。
手にした僥倖に報いる私の責務とは、まずもって、日本経済を、強く建て直すこと、そのうえで、日本を、世界に対して善をなす・頼れる『力』とすることです。
私はここに、日本を今まで同様、いえ、世界はいよいよ悲劇に満ちているのですから、むしろこれまで以上に、平和と、安定の力としていくことを、お約束します。
それは国際社会との協調を柱としつつ、世界に繁栄と、平和をもたらすべく努めてきた我が国の、紛うかたなき実績、揺るぎのない評価を土台とし、新たに『積極的平和主義』の旗を掲げようとするものです」――
安倍晋三が自ら掲げた「積極的平和主義」は「国際社会との協調を柱としつつ、世界に繁栄と、平和をもたらすべく努めてきた我が国の、紛うかたなき実績、揺るぎのない評価を土台」として展開するとしている以上、外交を力とすることの宣言であるはずである。
だが、9月26日午後(現地時間)国連総会一般討論演説前日の9月25日午後(現地時間)のニューヨークのハドソン研究所での講演のテーマは「安全保障戦略」についてであって、集団的自衛権などについて発言したという。
だが、その講演の中で、「看板」として掲げた「積極的平和主義」推進の優先的母体とすべき外交と整合性を取ることができない発言をしている。
安倍晋三「日本のすぐそばに軍事支出が少なくとも日本の2倍で毎年10%以上の伸びを20年以上続けている国がある。日本は11年ぶりに防衛費を増額したが、たった0.8%に過ぎない。私を右翼の軍国主義者と呼びたいのであれば、そう呼んで頂きたいものだ」(NHK NEWS WEB)――
中国の規模の大きい軍事支出と軍事力に言及、それとの対比で日本の軍事支出と軍事力は大したことはないと言い、そのような軍事大国が「私を右翼の軍国主義者と呼びたいのであれば、そう呼んで頂きたいものだ」と発言したことはその軍事力をネタに中国を挑発したことになる。
この挑発は「積極的平和主義」が基盤とすべき外交を考えないことによって可能となる。
だが、挑発の舌の根が乾くはずはない翌日の国連総会で外交を主たる手段とした「積極的平和主義」に言及している。
この矛盾は「積極的平和主義」を「看板」として掲げたものの、付け焼き刃から出ることができないために掲げたことを無意味とする外交無能力から来ているはずだ。
「積極的平和主義」が安倍晋三の外交理念として根付いていたなら、「私を右翼の軍国主義者と呼びたいのであれば、そう呼んで頂きたいものだ」といった外交理念に反する挑発の言葉は口を突いて出ることはないはずだ。
勿論、安倍晋三は中国に対して対話要請の外交手段を折に触れて用いている。9月1日夜のBS「日テレ」の番組でも対話要請を行ったという。
《中国の領海侵入を批判=安倍首相》(時事ドットコム/2013/10/01-23:09)
安倍晋三(中国公船の沖縄県・尖閣諸島周辺で繰返されている日本領海侵入について)「力による現状変更を試みようという動きがあることは大変遺憾だ。この問題で私は妥協することはない。
私たちは常に対話のドアは開いている。ぜひ中国側にも対話について理解を示してもらいたい」――
だが、この発言は以前から繰返し言っている同じ内容から少しも出ていないために録音されたテープを何度も繰返し聞かされるのに似ていて、バカの一つ覚えとしか受け取りようがない、外交無能力そのものの証明としかならない。
自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった基本的価値観を同じくすることがきる各国を訪問して、そのような価値観を共有できな中国を遠くに見て、価値観の共有を謳う価値観外交がワンパターン化していることも外交無能力の証明としかならないだろう。
「積極的平和主義」が軍事優先ではなく、外交優先でなければならない国際関係の構築でありながら、安倍晋三が外交無能力であり、その一方で憲法解釈による集団的自衛権行使容認を謀り、行使の範囲を地理的概念から外して地球のどこでも行使できることを狙い、軍事力をネタに中国を挑発する。
否応もなしに軍事優先の衝動を抱えることになる「積極的平和主義」となる危険性への懸念は払拭できない。
尤も国家主義者・軍国主義者である安倍晋三にはふさわしい危険性と言えるかもしれないが、国民は決して望まない危険性であることは確かだ。
ごくごく当たり前のことを言うが、企業活動のグローバル化が激化した今日、企業の国内競争力確保、さらに海外に向かった場合の国際競争力確保の一大条件は安価な人件費となっている。中国が1992年の小平主導の改革・開放経済以降、この安価な人件費を武器に海外投資を招き、日本を抜き、世界第2位の経済大国にのし上がったことが競争力確保の一大条件であることを決定づけた。
勿論、高い技術力は必要である。だが、最後の勝負はモノ・サービスの単価の安さであり、技術開発のための投資が高額となって、高い技術力を確保しても、価格の点でも高いものとなった技術がモノ・サービスの単価の安さを実現するための障害となった場合、安価な人件費は欠かすことのできない絶対条件と化す。
企業経営の一大条件である安価な人件費はバブル崩壊やリーマン・ショック、ヨロッパの金融危機、その他を経験して、万が一突然襲ってくるかもしれない似たような経済災害・金融災害に対する備えとしても、より確固たる絶対条件と化しているはずだ。
もう一つ、企業が競争を生き抜くための条件は法人税等の負担しなければならない各種税金が安いことであろう。
安倍晋三が昨10月1日、夕方の6時から消費税増税決定と併せて消費税増税によって景気が腰折れしないための経済対策を発表する記者会見を開いた。
《首相官邸HP》から見てみる。
先ず「冒頭発言」から、。
安倍晋三「今般とりまとめた経済政策パッケージは、目先の経済を押し上げるだけの一過性の対策ではありません。社会保障の充実や安定などのためにお願いする負担を緩和しながら、同時に将来にわたって投資を促進し、賃金を上昇させ、雇用を拡大する。まさに未来への投資です。企業収益の増加が賃金上昇、雇用拡大につながり、消費を押し上げることを通じて、さらなる企業収益につながっていく、経済の好循環をつくるための投資を進めます。
研究開発を促し、設備投資を後押しして、未来の成長と雇用につなげます。事業再編を促して、企業体質を変え、新たなベンチャーの起業を応援することで、持続的な活力を生み出します。
実効税率が国際的に高い水準にある我が国の法人税、我が国の持続的な成長に向けて、国際競争に打ち勝ち、世界から日本に投資を呼び込むためには、法人税について真剣に検討を進めねばなりません。さらに、収益を賃金として従業員に還元する企業には税制で支援します。政労使の連携も深めながら、成長の成果を若者や女性を含めて、雇用拡大、そして賃金上昇につなげていきます。
加えて、足元の経済成長を賃金上昇につなげることを前提に、復興特別法人税の1年前倒しでの廃止について検討いたします。もちろん、25兆円の復興財源を確保することは大前提です。同時に、所得の低い方々に対して1人1万円の給付を行います。住宅については、住宅ローン減税の大幅拡充、給付措置の創設を行い、消費税引上げによる負担を軽減することも決定いたしました」――
安倍晋三は企業活動を活発化し、収益を上げるために法人税減税の検討と「復興特別法人税の1年前倒しでの廃止について検討」を約束し、さらに「今般とりまとめた経済政策パッケージ」で各種投資促進を図って企業収益の増加を策し、「企業収益の増加が賃金上昇、雇用拡大につながり、消費を押し上げることを通じて、さらなる企業収益につながっていく、経済の好循環をつくる」と国民向け――というよりも、より企業向けに力強く約束している。
だが、この「好循環」は、それが国内に於ける一般化した傾向となった場合、国内競争力に関しては同じ条件となって問題は生じないが、少なくとも国際競争力に於いて、その競争力確保の一大条件となっている安価な人件費志向に逆らうこととなって、国内生産のモノ・サービスの国際競争力自体を弱めることになる。
この国際競争力弱体化を円安が相殺してくれるとしても、一旦上げた賃金は固定化するのに対して為替相場は常に変動して、常に力強い味方となる保証はない。
企業は果たして企業収益を素直に賃金上昇に循環させていくのだろうか。
2008年9月のリーマンショック以前の、小泉時代(2001年4月26日~2006年9月26日)と第1次安倍時代(2006年9月26日~2007年9月26日)と重なった2002年2月から2007年10月まで続いた「戦後最長景気」で大企業は軒並み戦後最高益を得たが、その企業収益の多くを内部留保にまわして一般労働者に賃金として目に見える形で還元しなかった。
この傾向は現在も続いている。大企業は260兆円もの内部留保を抱えていながら、一向に賃金に回さない。
安倍晋三はこの原因を記者会見の質疑応答でデフレだからと言っている。
原NHK記者「総理、NHKの原と申します。
国民負担増が言われる中で、今回の経済政策パッケージにつきましては、法人優先だという指摘もあります。総理はただいま、企業収益の増加によって賃金と雇用の拡大を目指すとおっしゃいましたけれども、具体的にどのように実現するお考えでしょうか」
安倍晋三「まず、法人対個人、そういう考え方を私はとりません。
今、多くの個人は法人で仕事をして、収入を得ているわけでありまして、会社で働き、給料を得て、暮らしを立てています。企業の収益が伸びていけば、雇用が増えていきますし、さらに賃金が増えていけば、家計も潤っていくわけであります。
しかし、長いデフレの間に、企業は投資や従業員への還元を行わずに、ずっとお金を貯め込んできたという状況が続きました。だからこそ、デフレからの脱却であります。
つまり、企業にとって投資をしたり、あるいはしっかりと従業員に還元していかなければ、逆に企業が損をしていくという時代に私たちは変えていきます。その上において、我々は企業が国際経済の中で、グローバルな経済の中で競争力を持ち、勝ち抜き、雇用を確保し、雇用をつくり、そしてさらに賃金を上げていくという状況をつくらなければならないと思っています」――
NHK記者は好循環実現の具体策を聞いた。答は具体策でも何でもない。こうすればこうなるといった能書きの類いでしかない。
「企業の収益が伸びていけば、雇用が増えていきますし、さらに賃金が増えていけば、家計も潤っていくわけであります」と言っているが、この循環構造は雇用を除いて戦後最長景気時代以降、何ら機能しなかった。無効そのもののこうすればこうなるであった。
確かに景気が回復し、企業活動が活発化すると、雇用は増えた。だが、その大半は景気が悪化し、企業活動が鈍化すると簡単に首切りができる雇用調整弁としての非正規雇用であった。非正規雇用は国内競争力確保及び国際競争力確保の一大条件である安価な人件費で雇用を満たすことができる。
安倍晋三は雇用と賃金が増えなかった原因は「長いデフレ」だと言っている。
「長いデフレの間に、企業は投資や従業員への還元を行わずに、ずっとお金を貯め込んできたという状況が続きました。だからこそ、デフレからの脱却であります」――
しかしこの発言は企業活動を国内競争に限った発言であって、国際競争をも戦っているという視点を全く欠いている。日本の大手企業はアジアやアメリカ、そ他の地域の国々に工場を構えるなどの積極的な投資を行い、高い収益を上げている。
アメリカに対してはその巨大市場を狙って、アジアの国々に対してはその市場のみならず、国際競争力確保の一大条件となる安価な人件費を手中にし、その安価な人件費によって投資を相殺する安価なモノ・サービスの提供を狙って。
人口減少、少子高齢化に伴う労働力人口の減少によって消費のパイが縮小していく傾向にある日本に於いて企業活動の主戦場は国内であるよりも国外を舞台とする趨勢にあるはずだ。
いわば経済政策は人口政策でもあるが、経済政策を優先し、人口政策を従としている。
となると、「企業にとって投資をしたり、あるいはしっかりと従業員に還元していかなければ、逆に企業が損をしていくという時代に私たちは変えていきます」は、企業の国内競争に限った場合は有効とすることができても、逆に企業活動の主戦場を国内から国外へと向けさせる力ともなりかねない。
安倍晋三は記者会見の中で一度だけ、「国際競争力」という言葉を使っている。
安倍晋三「15年間も続いてきた、こびりついたこのデフレマインドを払拭をすること。そう簡単なことではないと私は認識をしているのです。だからこそ、この至難のわざではありますが、私たちは、だからこそ、今、つかんだチャンスを逃してはならない。その中で、企業が国際競争力に打ち勝つ中において収益を上げ、さらには政労使の対話の場もつくりまして、そこで賃金という形でなるべく早く従業員に還元をし、そしてそれが消費に回っていけば好循環に入って、そういう状況をつくらなければならないと、こう思っているわけでありまして、この三本の矢によって、まさに日本経済は回復をしていき、そして、額に汗して働く人々に経済成長の実感を全国津々浦々にお届けしていきたいと、こう考えています」――
国内のデフレを払拭すれば、企業が国際競争力に打ち勝つことができるようなことを言っている。
確かにグローバル化時代に於いて企業は国内競争ばかりか、国際競争に打ち勝ってこそ、存続可能となる。国内競争に於いて賃金上昇を条件としなければならなくなったとしても、それが国際競争を縛るわけではない。
企業存続のために却って国際競争を活かす道を選択しかねない。
企業活動のグローバル化が利益再配分の中に目に見える形の賃金上昇を欠いても生き残ることのできる企業の怪物化が進行している。
この怪物化とは勿論、自らの存続のみを考え、一般生活者の生活を考えないという意味である。
アベノミクスはこの怪物化に打ち勝たなければならないが、その前に企業が国内競争のみならず、国際競争を生き抜いているという視点をしっかり持った上で、企業収益を賃金アップという形の還元に求めてもなお、企業が自らの活動の主戦場を国内から国外へと舞台を移さない政策を講じなければ、責任を果たしたとは言えないはずだ。