各記事から纏めてみると、そもそもの発端は11月29日に神奈川県海老名市の71歳の市議が自身のツイッターに「同性愛は異常だ」といった書き込みをして批判を受けたが、その投稿を受けて今度は岐阜県技術検査課の30代の男性主任が「同性愛は異常でしょ。だいたい、何で同性愛者とかは自分の変態的異常性を公表したがるんだ?」などと投稿したことだという。
この投稿に関して12月10日、岐阜県の県議会で一議員が一般質問した直後に自民党県連の政調会長を務める藤墳(ふじつか)守県議(74)が「同性愛は異常」とヤジを飛ばした。
つまり藤墳は同じ考えの持ち主として岐阜県職員の肩を持った。
翌12月11日、藤墳は記者会見を開いて謝罪した。その「動画」が「asahi.com」に載っている。文字に起こしてみた。
藤墳「やっぱり世の中男と女で成り立っているから、そうなるんで(同性愛は異常ということになるんで)、やっぱり子どもができない結婚というものを社会が認めているということになると、果たして将来どうなるかなあと。
全部が全部なるとは思わないですけど、そんなに抵抗なしに受け入れられる社会になったときに今でも少子化の問題の中でやっぱりみんなで育てなきゃいかんのやという思いで、こんなことを発言してしまった。
同性愛そのものを非難するつもりで言ったのではなくて、結婚するも自由、結婚しないも自由、同性愛で結婚するのも自由という世の中が50年、100年あとにどういう結果をもたらすという心配事があります・・・・・」
そして最後に謝罪したが、国会議員を含めた議員先生方の十八番となっている身の処し方を示した。「間接的に聞いて不快に思われた方も含めてみなさんにお詫びしたい、と思います。与えられ出てきた身ですので、職責をしっかり全うしたい・・・・・」
この記事や他の記事が伝えている「子どもができない結婚を社会が認めれば世の中どうなるか。子どもを作ることは社会に対する責任だ」という発言は動画の中では見当たらなかった。
出産は社会に対する責任ではない。この場合の“責任”は「立場上当然負わなければならない任務や義務」を意味する。任務や義務で子どもを産んでどうする。戦前、戦争遂行の兵士の補給と兵士に取られて不足している工場労働者の補充に「産めや増やせ」が国民の国家的任務や義務とされた。
つまり国家に奉仕する意味での任務・義務とされていた。
民主主義の世界では国家は個人を出発点として成り立っている。国民主権とはそういうことであろう。
個人を出発点としない国家ありきの国家への奉仕は個人の否定となる。
個人を出発点とするということは個人は個人の幸せのために生きることを意味する。個人の幸せが国民の総体的な姿を取ったとき、その国家は優れた国としての地位と名誉を受けることになる。
国家が幸せでも、国民が幸せとは限らないことは独裁国家が何よりの証明となる。
個人を出発点とし、個人は個人の幸せのために生きるがゆえに女性は愛している男性の子を産みたい、男性は愛している女性に自分の子を産ませたいと、出産を幸せのための個人の選択とする。
同性愛は異常だと言うが、同性愛は長い歴史を持って日本の社会に(勿論、外国の社会でも同じだろう)生き続けてきた。
何十年も前の若い頃、ルイス・フロイス「日本史」の一部を読んだことがあるが、記憶しているところでは信長や秀吉の時代、確か「神の教えに背く行い」として武将たちが小姓に取り立てた少年との衆道を嗜んでいることを記していた。
〈衆道(しゅどう)とは日本に於ける男性の同性愛関係(男色)の中で、武士同士のものをいう。「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、別名に「若道」(じゃくどう/にゃくどう)〉と、「Wikipedia」には出ている。
織田信長も小姓の森蘭丸を衆道対象・同性愛対象として寵愛していたと言われている。
他にも同性愛を示す言葉として「陰間」という言葉もある。
〈元来は陰間とは歌舞伎における女形(女役)の修行中の舞台に立つことがない(陰の間の)少年を指した。彼らが男性と性的関係を持つことは、女形としての修行の一環と考えられていた。但し女形の男娼は一部であり、今でいう「女装」をしない男性の姿のままの男娼が多くを占めていた。陰間茶屋は当初は芝居小屋と併設されていたが、次第に男色目的に特化して、独立した陰間茶屋が増えていった。
売色衆道は室町時代後半から始まっていたとされるが、江戸時代に流行し定着した。江戸で特に陰間茶屋が集まっていた場所には、東叡山喜見院の所轄で女色を禁じられた僧侶の多かった本郷の湯島天神門前町や、芝居小屋の多かった日本橋の芳町(葭町)がある。京では宮川町、大坂では道頓堀などが有名だった。江戸においては、上方から下ってきた者が、物腰が柔らかく上品であったため喜ばれた。
料金は非常に高額で、庶民に手の出せるものではなかった。平賀源内が陰間茶屋や男色案内書とでもいうべく『江戸男色細見-菊の園-」、『男色評判記-男色品定-』を出しており、それによれば一刻(2時間)で1分(4分の1両)、一日買い切りで3両、外に連れ出すときは1両3分~2両がかかった。ちなみに江戸中期における1両は現在の5~10万円相当とされる。
主な客は金銭に余裕のある武家、商人、僧侶の他、女の場合は御殿女中や富裕な商家などの後家(未亡人)が主だった。
但し江戸幕府の天保の改革で風俗の取り締まりが行われ、天保13年(1842年)に陰間茶屋は禁止された。〉「Wikipedia」
中には個人的に見つけて、個人的に付き合う同性同士の恋愛関係もあったはずだ。
特に有名なのは平賀源内で、「Wikipedia」に〈男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。〉との記述がある。
このように歌舞伎役者の中に同性愛者が多いことを、「Wikipedia」は〈彼らが男性と性的関係を持つことは、女形としての修行の一環と考えられていた。〉と書いているが、中には元々同性愛の傾向があって、人前で女装し、正々堂々と女性の声と女性の仕草ができる女型の世界に憧れて歌舞伎の世界に志願した少年も存在するはずだ。
そういった若い男性が同性愛嗜好の男性の求めに応じるようになったと言うことでもあるはずだ。
女性の場合、御殿女中が陰間を利用していたことと、御殿女中同士が同性愛関係を結んでいたことは知られているが、後者は女性のみの世界であることからの止むを得ない選択からの嗜好に限定されるわけではなく、女性だけの世界だから、自身の性的嗜好に応えてくれる女性を見つけたい願望から御殿女中に志願した女性もいるはずで、そういった女性同士が巡り合い、奥御殿の女性だけの世界で密かに同性同士の恋愛関係を主体的選択として育んでいったということも決して否定できない事実と見なければならない。
例え社会的に少数者であり続けたとしても、このように同性愛は長い歴史を持って日本の社会でも存在し続けてきた。
このような歴史を少しでも知っていたなら、いくら頭が古臭く出来上がっていても、「同性愛は異常」だなどといった発言こそが異常だということが理解できる。
江戸時代は性におおらかな時代だと言われているが、少しはそのおおらかさを学ぶべきだろう。学べば古臭い頭も少しは活性化できる。