■正覚庵筆の寺,東福寺塔頭
今年一年も、昨年一年も多くの文章を作成しました。そんな中で京都幕間旅情、京阪東福寺駅から少し進んだ先、小さな庵を紹介したい。

正覚庵筆の寺,東福寺の塔頭で東福寺へも程近い所にある。皆様は研究や仕事にてPCを使用し文書作成をしている際にエラーが発生し、せっかく書き上げた珠玉の文書データが飛んでしまった、消失してしまった、というご記憶、恐らく一度や二度ではないでしょう。

世界に一つの文章、代えが無い文字通り文章が消えてしまう事はとても悲しい事で、Windowsアップデートにより目を離した隙に自動で再起動し、数時間分の仕事が喪失してしまうと、何ともやり切れません。文章の外郭が頭に在っても全く同じ文は生み出せない。

Wordでも文章がフリーズした瞬間に打ち込んだ文字、機能停止が無ければ続いて生み出されたであろう、頭の中で組み立てられた文章は知識と情報を解釈咀嚼の上で導き出した新しい知の体系の一元素となるものですが、消えては元素を知識という物質に昇華できない。

正覚庵は筆の寺、として親しまれており、文筆活動に際し擦り切れた筆を供養してきました。文筆活動を筆奮って大書するか、PCのキーボードを叩いて文字を文章へ錬成するかには多少違いはありますが、消えた文章データの供養はここ正覚庵以外には、できますまい。

威徳堂は参拝者を広く迎え入れており、直ぐ近くには東福寺本堂と通天橋が多くの散策者や観光客で沸上がる中、ふと静寂に包まれた御堂とそのまわりから、静かに、静かにデータの大海に沈んで消えた、電子の宇宙に溶け込んで見えなくなった文章の冥福を祈ります。

伊達政依により1290年に開かれたこの正覚庵、伊達家四代当主である伊達政依は鎌倉時代に仏教を篤く信仰した武士で、鎌倉にて武士としての武者修行を重ねつつも思うところあって15歳にて剃髪し出家、 入道願西と称し京都にて仏門を極めるべく苦行を重ねました。

入道願西は京都にて正覚庵を拓くと共に、京都五山や鎌倉五山を衆生にとり心の安寧に必要な救いであるとし、東北地方へ東昌寺、光明寺、満勝寺、観音寺、光福寺を開く事となります。そして入道願西は鎌倉を故郷としつつ、伊達家東北地方での勢力拡大へ寄与する。

北山五山として、北山と云いますと北大路通りの北にある北山通りではなく東北地方全域を示す北山、ですが東昌寺、光明寺、満勝寺、観音寺、光福寺の開祖となってゆきました。仙台に観音寺を開いたのは弱冠二十歳の1247年、56歳に仙台市青葉区へ東昌寺を開いた。

本尊釈迦如来を御本尊として正覚庵を京都に開いたのは63歳のこと、東昌寺は伊達家最初の菩提寺となりました。ただ、本尊釈迦如来像とともに広がる現在の正覚庵は、創建当時の御堂をどこまで残せているかについて、拝観者は知る事はできません、でもいいのです。

筆の寺、威徳堂だけが拝観者に開かれていまして、他は非公開です。しかし筆供養が毎年行われます。この筆供養は奉納された筆神輿が東福寺境内や町内を巡幸するとともに護摩 木が焚かれ、そこへ筆や鉛筆といった筆たちが投げ入れられ、供養されているとのこと。

筆供養といいましても、筆や筆記用具が投げ込まれるのみで、頑張りすぎてペン先の割れた万年筆など金属製筆記用具の扱いはどうなるのでしょうか、筆記用具代わりだとは言っても流石に古くなったパソコンを投げ入れる事は出来ませんし、するつもりもありません。

消えてしまう事は、悲しい事です。しかし悲しんでいても次を生み出す事は出来ません、それでもすべて忘れてしまう事はそれ以上に残念な事でしょう。こうしますと、形の上でもこうして供養し、次の文章を作成する、こうした区切りはとても大事であると思います。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
今年一年も、昨年一年も多くの文章を作成しました。そんな中で京都幕間旅情、京阪東福寺駅から少し進んだ先、小さな庵を紹介したい。

正覚庵筆の寺,東福寺の塔頭で東福寺へも程近い所にある。皆様は研究や仕事にてPCを使用し文書作成をしている際にエラーが発生し、せっかく書き上げた珠玉の文書データが飛んでしまった、消失してしまった、というご記憶、恐らく一度や二度ではないでしょう。

世界に一つの文章、代えが無い文字通り文章が消えてしまう事はとても悲しい事で、Windowsアップデートにより目を離した隙に自動で再起動し、数時間分の仕事が喪失してしまうと、何ともやり切れません。文章の外郭が頭に在っても全く同じ文は生み出せない。

Wordでも文章がフリーズした瞬間に打ち込んだ文字、機能停止が無ければ続いて生み出されたであろう、頭の中で組み立てられた文章は知識と情報を解釈咀嚼の上で導き出した新しい知の体系の一元素となるものですが、消えては元素を知識という物質に昇華できない。

正覚庵は筆の寺、として親しまれており、文筆活動に際し擦り切れた筆を供養してきました。文筆活動を筆奮って大書するか、PCのキーボードを叩いて文字を文章へ錬成するかには多少違いはありますが、消えた文章データの供養はここ正覚庵以外には、できますまい。

威徳堂は参拝者を広く迎え入れており、直ぐ近くには東福寺本堂と通天橋が多くの散策者や観光客で沸上がる中、ふと静寂に包まれた御堂とそのまわりから、静かに、静かにデータの大海に沈んで消えた、電子の宇宙に溶け込んで見えなくなった文章の冥福を祈ります。

伊達政依により1290年に開かれたこの正覚庵、伊達家四代当主である伊達政依は鎌倉時代に仏教を篤く信仰した武士で、鎌倉にて武士としての武者修行を重ねつつも思うところあって15歳にて剃髪し出家、 入道願西と称し京都にて仏門を極めるべく苦行を重ねました。

入道願西は京都にて正覚庵を拓くと共に、京都五山や鎌倉五山を衆生にとり心の安寧に必要な救いであるとし、東北地方へ東昌寺、光明寺、満勝寺、観音寺、光福寺を開く事となります。そして入道願西は鎌倉を故郷としつつ、伊達家東北地方での勢力拡大へ寄与する。

北山五山として、北山と云いますと北大路通りの北にある北山通りではなく東北地方全域を示す北山、ですが東昌寺、光明寺、満勝寺、観音寺、光福寺の開祖となってゆきました。仙台に観音寺を開いたのは弱冠二十歳の1247年、56歳に仙台市青葉区へ東昌寺を開いた。

本尊釈迦如来を御本尊として正覚庵を京都に開いたのは63歳のこと、東昌寺は伊達家最初の菩提寺となりました。ただ、本尊釈迦如来像とともに広がる現在の正覚庵は、創建当時の御堂をどこまで残せているかについて、拝観者は知る事はできません、でもいいのです。

筆の寺、威徳堂だけが拝観者に開かれていまして、他は非公開です。しかし筆供養が毎年行われます。この筆供養は奉納された筆神輿が東福寺境内や町内を巡幸するとともに護摩 木が焚かれ、そこへ筆や鉛筆といった筆たちが投げ入れられ、供養されているとのこと。

筆供養といいましても、筆や筆記用具が投げ込まれるのみで、頑張りすぎてペン先の割れた万年筆など金属製筆記用具の扱いはどうなるのでしょうか、筆記用具代わりだとは言っても流石に古くなったパソコンを投げ入れる事は出来ませんし、するつもりもありません。

消えてしまう事は、悲しい事です。しかし悲しんでいても次を生み出す事は出来ません、それでもすべて忘れてしまう事はそれ以上に残念な事でしょう。こうしますと、形の上でもこうして供養し、次の文章を作成する、こうした区切りはとても大事であると思います。
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