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【京都幕間旅情】今熊野観音寺,白河法皇と後白河上皇が育む京都の熊野は今熊野修験の聖地

2021-08-12 20:01:41 | 写真
■東山観音寺から今熊野観音寺へ
 今熊野観音寺は考えてみると真言密教が聖地熊野に隣り合う高野山へ至る始まりの地でもあるのかもしれない。やはり歴史は面白いですね。

 今熊野観音寺、かの弘法大師空海が遠く唐王朝下の中国へ仏教留学より帰国しまして、しかし学短の帰国をとがめられ状況を許されなかった頃、当地に熊野権現の顕現という奇跡と出会いまして、その際に仏像を彫像、報じました堂宇がこのお寺の始りといいます。

 西国三十三所第15番札所、神仏霊場巡拝の道第122番札所、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第1番札所、洛陽三十三所観音霊場第19番札所、泉山七福神巡り第3番札所、今熊野観音寺はこう列せられていまして、また、後白河上皇の頭痛を封じたとも伝えられているところ。

 医聖堂、一際鮮やかな多宝塔は昇ってゆきますと案外と新しいもののようですが、医学者と医療従事者を支える目的で造営された多宝塔とのことでして、陸軍航空隊慰霊碑も並び、日本の歴史の複雑な織りなした情感というものを感じるところではあるのですけれども。

 五智水、弘法大師空海はその熊野権現との出会いの際に独鈷で岩を突きまして、ここから湧き出でました観音御利生の水が、今日も五智水として清冽で冷涼な風情を東山の地に滴らせています。創建から三百余年を経て、当地は東山観音寺と称されるようになりました。

 白河法皇、院の御所を築いた法皇は熊野権現と空海に所縁ある当地を今熊野修験の聖地としまして、名を東山観音寺としました。そして後白河上皇の時代となりますと、上皇は熱心な熊野信仰者でしたが流石に院の御所から熊野は遠く、代えて当地を手厚く保護します。

 新那智山、こう称されます背景には後白河上皇が、熊野権現との所縁ある当地こそ京都における熊野の地に相応しいと考えまして、改めて熊野権現を勧請することとなりました。この際に東山観音寺を今日の観音寺と改め、そうして今熊野観音寺となってゆくのですね。

 新熊野神社。実はこの地名は当方、恥ずかしいお話しですが、新しいものだと考えていました、聖護院に熊野神社がありますから、割と最近建てたのだろう、と。しかし間違いも間違い、新熊野神社は後白河上皇が熊野権現を勧請した際に創建した800年以上の歴史が。

 鳥戸野という、当地に隣接する地域は平安朝から南北朝の時代まで貴族の墓所となっていまして、観音寺はその歴史の深さから法要などを担う寺院として重用されまして、千年を超える寺の歴史は、空海ゆかりの、そして今も続く信仰は連綿と続いている事に驚きます。

 応仁の乱により荒廃した歴史もありますが、天正8年こと西暦1580年より本格的に再興される事となりまして、本堂はその後も火災などに見舞われましたが、その都度復興しており現在のものは宗恕祖元により正徳2年こと西暦1712年に再建されたものとの事でした。

 弘法大師御作と伝えられる十一面観世音菩薩が安置されていますが、こちらは秘仏として公開されていません、ただ、脇仏に、智証大師円珍作と伝えられる不動明王、運慶作と伝えられる毘沙門天が控えていまして、厳かな空気を信仰の寄る辺として醸し出しています。

 頭痛封じの観音様、後白河上皇の頭痛を癒したという信仰は、現代人の悩みである頭痛を封じる故に御利益に預りたいところで、確かに拝観しますと頭痛が収まったようにおもうのですが、小生の場合は肩こりの方が中々に辛いものがありまして、さてさて、とおもう。

 医聖堂の鮮やかな朱色を拝みつつ、ぼけ封じの観音様にも手を合わせる、頭痛については思うところが多いのですけれども、なにより今熊野修験道と位置づけられた、東山の中でも緑に包まれた風景は、拝観と共に巡るだけでも、なにか清涼感を感じる事は確かでした。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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