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【京都幕間旅情】今熊野観音寺,新那智山は弘法大師空海上洛まつ大同年間の紀伊熊野との縁

2021-08-11 20:03:40 | 写真
■東山は泉涌寺塔頭の静かな寺院
 京都散歩の醍醐味は一つの筋が通った歴史上に全てが並び、しかしどれも個性に溢れている歴史と文明を湛えている所なのかもしれません。

 今熊野観音寺、ここは東福寺駅を東福寺ではなく泉涌寺町へ歩み進めました京都府京都市東山区泉涌寺山内町に鎮座します真言宗泉涌寺派の寺院でして、泉涌寺の塔頭、龍安寺と妙心寺のような、塔頭と云いましてもその広大な寺域に息を呑む静けさを湛えています。

 新那智山、山号に那智の名を冠しました御山は、本尊に秘仏である十一面観世音菩薩を奉じ、弘法大師空海が開山となった寺院という。泉涌寺は山手へ徒歩ではかなり歩み進めた先にありますが、今熊野観音寺は間もなく泉涌寺というところを東へ赤い橋を渡ったさき。

 空海が開山となりました御山、この今熊野観音寺は不思議な始まりの歴史を湛えています、なにしろこの界隈は静けさが満ちていまして、よくよく考えれば日本の東西大動脈東海道新幹線と東海道本線が走っているとはにわかには信じがたい、さてその不思議について。

 空海は若き頃に平城京へ学びの場を求めた際に平城京の廃都を知り、伝手を辿り平安京に叔父の阿刀大足を訪ね修学を積みました、阿刀大足は桓武天皇の皇子伊予親王教育を任された文人で、勉学の才覚あった空海は、続きまして律令大学寮に学んだ先に出家しました。

 入唐求法、空海は第18次遣唐使長期留学僧として唐に渡り、20年の留学を期していましたが、優れた才覚と長安にいたるまでの厳しい修行の積み重ねを長安は青龍寺の恵果和尚に見いだされ密教の奥義伝授、伝法阿闍梨位の灌頂に預り、僅か2年で修了、帰国の途に。

 真言密教の伝法阿闍梨位という一つの目的を果たし20年の予定を2年で帰国しましたのが大同元年、空海には前途が開かれているようで模索も続く時代ではありましたが、その翌年にあたる大同2年こと807年、東山に不思議な光が掛かっているのに気付いたという。

 熊野権現の顕現、空海はその光を求めて現在の今熊野観音寺の地に至りますと、熊野権現の顕現にあったという。帰国の後に九州は大宰府に東長寺と鎮国寺とを創建しました空海は朝廷に唐からの請来目録として経典や曼荼羅の目録作成に多忙を極めていた頃の事です。

 平安京は、しかし、20年の修学予定を2年で切り上げた空海に疑義を持ったころで、まだ洛中への上京を認めていない頃、東山界隈を巡っていました空海はどのような面持ちでしょうか、その際に空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻み、熊野権現を祀る事に。

 上京が許されたのは大同4年という実に4年間、空海は洛中に入る事が許されなかった事ですが熊野権現の顕現という一つの奇跡は、考えてみますと空海と熊野の地との縁を結ぶ契機となったのでしょうか、熊野の聖地に面する高野山に空海が至るはるか前の出来事だ。

 空海が彫像した十一面観音菩薩像は、小さな堂宇に奉じられ、現在の今熊野観音寺には小さな堂宇が不思議な信仰を湛える地となりましたが、翌年、嵯峨天皇の勅使を受け鎮護国家大祈祷を行い、これが弘仁3年こと812年の高雄山寺こと神護寺の造営に繋がります。

 嵯峨天皇は812年、空海の東山に在る堂宇を知り、ここを洛外裏鬼門に備える聖地とするべく、諸堂造営に着手します。この造営は左大臣藤原緒嗣により西暦824年からの天長年間に更に壮大な伽藍が造営されることとなり、平安朝末期の頃には一大聖地となってゆく。

 紀伊国熊野にあります熊野三山に対しまして、この地を今熊野と称するようになりましたのは平安朝末期の頃といいまして、熊野修験のような修験を積む今熊野修験という信仰のかたちが、いまも静けさを湛える東山の当地にて広がるように、育まれていったのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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