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【京都発幕間旅情】石山寺(滋賀大津)聖武天皇勅願寺院は波乱激動の天平年間に安寧の願い

2021-08-26 20:02:56 | 旅行記
■聖徳太子念持仏奉じる寺院
 令和は疾病に大変な時代となりましたが、日本史を視ますと更に上には上が在るという時代の気風を基点とした寺院がお隣大津にあります。

 石山寺、ここは琵琶湖が大阪平野に向け流れ出す瀬田川の右岸の少し奥まった大津市石山寺1丁目に鎮座する寺院です。東寺真言宗大本山というお寺は枕草子や蜻蛉日記、そして源氏物語と古典文学との所縁も深く、春夏秋冬日々刻々日夜晴天曇天と風景も美しい。

 西国三十三所第13番札所というお寺は、京阪石山坂本線の終着は石山寺駅が最寄りながら徒歩では若干苛々の距離があり、毎回石山寺道駅と改名してはどうかと思うものですが、実はJR東海道本線石山駅から路線バスが一番疲れない拝観への道なのかもしれません。

 天平19年こと西暦747年、聖武天皇勅願により建立となりました寺院で、聖武天皇が聖徳太子念持仏である如意輪観音をこの地に奉じるべく良弁を開基として開山させた、遡る事千二百余年の長い歴史があります。聖武天皇は国分寺建立の詔を発布した事で知られます。

 良弁は奈良時代の仏僧で、かの東大寺開山として知られます。それは聖武天皇との縁から始まる、華厳宗の奥義を授けられ奈良東山に自ら彫刻した執金剛神像を安置する庵を組み、厳しい修行と共に金鐘行者と讃えらていた頃、時の聖武天皇に知られる事となりました。

 聖武天皇より離宮の羂索院を下賜された良弁は、ここを金鐘寺として寺院とし、この敬虔な仏法の修行ぶりから、続いて天平勝宝8年こと西暦756年にはかの鑑真とともに大僧都に任じられることとなります。聖武天皇が仏教を保護した背景には時代の荒廃があります。

 天平時代、聖武天皇の御世は天平9年こと西暦737年の天然痘大流行により、行政中枢にあった藤原四兄弟全員を筆頭に政府高官の大半が死亡し行政機構が無政府状態に陥るという救いようのない時代で火山噴火も頻発、災厄から逃れるべく度重なる遷都を行いました。

 聖武天皇は第45代天皇で、その在位は神亀元年こと西暦724年から天平勝宝年間の西暦749年までとなっていますが、頻繁な遷都は例えば5年間で平城京から恭仁京遷都、恭仁京から難波京遷都、難波京から紫香楽京遷都、そして平城京へ帰京という凄いものでした。

 聖徳太子念持仏である如意輪観音を奉じる寺院の建立は、こうした救いようのない世の中での一種の公共事業であったと見るべきかと思いましたが、天平時代の天然痘は中世欧州のペストにも匹敵、社会を維持するには公共事業、無ければ無政府状態だったのでしょう。

 金峯山、もともと石山寺は吉野の金峯山に造営される事となっていましたが、伝わるところによれば良弁が立地を探していたところ、金剛蔵王が顕現し近江国志賀郡の湖水の南に適地が在るとお告げが在ったという。流石に当方は金剛蔵王とお会いした事はありません。

 良弁、しかし聞いてみますと吉野よりも当地が考えられていたようで、もともとこの地は、東大寺建立への近江国産出木材を集めておく貯木場であり、そして琵琶湖から唯一流れゆく瀬田川水運の要衝でもあったのですね、故に当地の方が民衆負担少なく造営できる、と。

 造石山寺所、天平宝字年間後期に淳仁天皇治世下の時代に入りましても聖武天皇所縁の石山寺への国家による保護は続きまして、造石山寺所という行政機関が置かれる事になり、指呼の距離には離宮である保良宮も造営される事となりました。堂宇も広がってゆきます。

 本尊として現在奉じられていますのは塑造如意輪観音像と脇侍の金剛蔵王像、この中に聖徳太子の念持仏が治められているとされますが、これらは天平宝字5年こと西暦761年あたりに彫像されたと記録があり、小さな庵に始まる寺院は徐々に伽藍を整え今に至ります。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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