北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】城南宮,梅林は開戦の地-承久の乱勃発の地は二重権力の統一へ向けての現代日本への原点

2023-03-29 20:22:44 | 写真
■梅園の当地に歴史あり
 カメラのホワイトバランスを変えていないのにさっとく尾の中から太陽が光さし情景を一変させる事があり、これが曇天の日の撮影の醍醐味か。

 平安朝末期の時代には有名な治承三年の政変、これにより後白河法皇が平清盛によりここに幽閉され、院政を停止するという一幕はありましたが、やがて鎌倉時代が到来します。歴史的に見て不思議なのは鎌倉幕府、東国武士は瀬戸内など西国に興味を示さなかったこと。

 西園寺氏、藤原家の傍流ですが、そもそも平清盛が栄華を誇ったのは西国の瀬戸内海賊討伐を経て瀬戸内海の制海権を握り海上交易航路を一手に掌握したことにありました、ここを抑えれば得られる巨万の富を以て、福原京造営や関門開発など一気に推し進めている。

 海上交易航路を、鎌倉時代に掌握したのは源氏かと問われますと、鎌倉幕府は一応形式的な掌握は行うものの実益は全て西園寺氏が掌握することとなり、そこにより得られた莫大な富はそのまま宮中行事などの費用として拠出、貴族政治を強力に支える事となった。

 東西では、一応征夷大将軍の襲名を続けていたものの、鎌倉幕府そのものは執権政治による二重権力状態となり、これはいわば今の価値観で知る征夷大将軍、暴れん坊将軍や水戸黄門で無意識下に刷り込まれている価値観、その征夷大将軍とは全く性質が異なるのです。

 承久の乱は、自らは院と朝とに分かれる二重権力状態ではあったのですが、鎌倉幕府が源頼朝の没後、源頼家と源実朝と相次ぐ将軍暗殺による北条氏執権による二重権力状態が醸成されることでの御家人の二重権力状態を突き、院が支配回復を目指したものでした。

 戦闘の経過は、これは墨俣木曽川の戦いや砺波の戦いなど興味深いのですが、動員計画の不得手と指揮系統の不明瞭、恰も関ケ原の戦いの西軍の様な不手際を先取りする形、上皇は敗北しています。ただ、これにより日本社会と統治機構は確かな変容が生まれたのです。

 城南宮、ここは王城鎮護の裏鬼門を守る社殿という平安遷都の頃の造営を経て、鳥羽離宮造営とともに院政が始まりますと離宮鎮守社へ変容し、ここで後鳥羽上皇が開いた流鏑馬揃えの神事、実は当時の鎌倉幕府打倒に向けた兵力集中の一環となり歴史の表舞台へ。

 承久の乱勃発の地、歴史的な転換点となりました遺構です。その戦闘経過は、別の機会などで詳しく議論したいところですが、京都と鎌倉の二つの王都という日本史の分岐点、この戦闘の敗戦処理により一つとなった、という点は実は今のニッポンを形作ったといえる。

 西園寺公経、佐幕派の公家でありました西園寺公経は承久の乱勃発とともに後鳥羽上皇の捕虜となりましたが、逆にこの行動そのものが全く騒乱に無関係であったことを立証、幕府の指示により内大臣へ、西園寺家の朝廷における権力基盤を固めることとなりました。

 後鳥羽上皇に付き従った一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂、そうそうたる公家たちはそのまま鎌倉へ送られ、途上で粛清されました。後鳥羽上皇は隠岐の島へ配流となり、しかし朝廷権威は鎌倉幕府に尊重され、今に至る分権体制の下地の一つとなる。

 六波羅探題が幕府により新設され、鎌倉による京都の監視という結果的な行政の一本化が執り行われ、そして名実ともに院政は終焉を迎えます。逆に二重権力と思われた鎌倉幕府の執権と将軍の権力基盤は北条政子による号令とともに一本化、すっきりまとまります。

 権威の朝廷と実権の幕府、海外の理解ではキリスト教民主主義とローマ教皇の制度やスルタンカリフ制のような理解もあるようですが、どことも異なる日本の制度は院政の二重権力のもとで幕府が開かれ機能不随が見えていました、ここに筋が通ったという訳です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】城南宮,日本史の白河天皇の鳥羽離宮造営と後鳥羽上皇の承久の乱-かつての新都心を包む梅花

2023-03-29 20:00:09 | 写真
■咲き誇る梅花の梅園
 2023年は前にもまして桜前線の北上が早く京都は最早満開から散り始めの様相ですが、順番ですので先ずはここ城南宮の梅花を愛でました日常の中の旅情を。

 梅花の季節はなぜこう心地よいのか、考えてみるとようやく今年思い至ったのは、静かであるという意味が大きく違ったという事です。梅の花見は静かで桜の花見は賑やか、というのは前々から宴会というものの有無、宴会か歌会かを考えていたのですけれども、ね。

 花見が静か、というのは気づきました、蜂の羽音の有無です。梅花にはまだ蜂が飛び始めていないのですね、つまりまだ寒いのだ、という事にもなるのかもしれませんが、そう考えてみると桜の花にはぶんぶんと蜜蜂の羽音が大きいのです、梅花の際はまだ飛びません。

 酒宴になる桜の花見、COVID-19の季節もようやく終わりましたのでそろそろ2023年は再開、というところになるのか、もう少し慎重となるのか。そして桜花観桜の酒宴は、蜂の音が気付かないほどに賑やかなのだろうなあ、と思うのですが観梅は蜂が静かなのです。

 蜜蜂であっても、刺されれば多少は痛いものですし、アナフィラキシーショックというアレルギー反応の問題もありますから、ぶんぶんと音が鳴り響くのは多少緊張感を強いるものでしょう、実際、数が多いものですから樹上を数百数千と飛ばれますと音はよく響く。

 観桜の際に、そう確かに羽音がしているもので、考えると桜の真下では長時間、一人二人の観応の際には散策することはあっても、真下に長時間、というものはないように感じた、歩いているか動いたまま、時折立ち止まって撮影する、座るのはもう少しとおいところ。

 蜂の羽音、考えれば相手も警戒音として翅を使う習性があるのですし、人類には太古の昔から蜜蜂にやられた方も少なからず多いのでしょう、ゆえに生理的に不安となる音のような考えも成り立つ、なるほど、梅花が落ち着くには、そうしたものもあるのだろうなあ。

 城南宮、鎌倉時代の一つの転換点となった、あの承久の乱はここから始まったのだ、こう思い起こしますと、なるほど幾多の戦火により当時の遺構は失われているのだけれども、今のニッポンへ至る分水嶺の一つがここであったのだなあという素朴な感慨がわきます。

 後鳥羽上皇は鎌倉時代の承久3年こと西暦1221年、武芸を奉納するべく流鏑馬揃えを城南宮にて執り行う為に信頼のおける貴族や武士に呼びかけています。流鏑馬ならば墨染神社だろうとか、弓の神様なのだから石清水八幡宮だろう、とおもうのは一般的でしょう。

 城南宮の歴史は平安遷都の頃に平城京から王城鎮護の社殿を移築したのが始まりとされています、しかし城南宮と平安京は、特に桓武天皇が晩年に軍事と造作という、特に首都移転事業を式年遷宮のごとく繰り返す造作政策を終了したことで市域がどんどん広がります。

 白河天皇が鳥羽離宮、所謂“城南離宮”を造営したのは平安朝後期の時代ですが、帳級が造営されるとともに城南宮は離宮の鎮守社として実質取り込まれることとなりました。いや、元々城南宮は王城鎮護へ裏鬼門を固める社殿であり平安京はここを南端に整備された。

 鳥羽離宮の整備は、同時に鴨川と桂川の合流点であり水運の起点で、そして山陽道と東海道が交錯する緊要地形を醸成してゆくのですが、同時に市域の南端ということは南方には避暑地となる緑と木々が茂り、ここに離宮を造営し院政を始めたことで重要性は増す。

 院政の時代はこうして始まり、一方で上皇権限はいまよりもずっと強く、といえる上皇陛下の時代再来にはなにか素朴な郷愁感を満たされる優雅さを感じるのですが、院政の聖地は次第に貴族邸宅の増設が放射線状に広まり、一種の新都心を形成していったのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ロシア軍の冬季攻勢は攻勢限界か?春季攻勢準備-ウクライナ軍へ最初のレオパルド2戦車引き渡しと搬入開始

2023-03-29 07:00:05 | 国際・政治
■臨時情報-ウクライナ情勢
 ウクライナへレオパルド2主力戦車最初の18両が到着したとのことでいよいよ春季攻勢への準備が大詰めとなります。この海外製装備の迅速な戦力化は自衛隊も学ぶべき点が。

 ロシア軍の冬季攻勢は、攻勢限界に達したとみられます。根拠としては、バフムト包囲を試みるも弾薬不足と装甲車両の不足から包囲機動を執ることができない点、バフムト外縁での防御陣地構築の動きとともに攻撃発起点から距離の遠いバフムトを避けた戦線構築の動きがみられるという点です。ただ、防衛線を維持する補給路維持について不安がある。

 ウクライナ軍の春季攻勢は、このところのウクライナ軍砲兵部隊は弾薬集積を継続しており、攻勢が近いことを意味します。特にロシア軍がバフムト近郊において防御線を構築中ですが、ウクライナ軍が運用をまもなく開始すると思われるレオパルド2主力戦車、第三世代戦車については、第二世代戦車よりも高い防御力と機動力を有している点が肝要だ。

 第三世代戦車は第二世代戦車開発当時にはなかった軽量だが強靭な複合装甲による戦車砲弾の直撃に耐える防御力、第二世代戦車開発当時にはなかった戦車に搭載可能である1500hp級エンジンにものをいわせての機動力の高さがあり、また、データリンク装置を搭載するため、敵の防衛線の間隙に分散して浸透攻撃を行い、目標直前で集合が可能だ。

 防御線といいましても、第一次世界大戦中のような幾重にも重なっての塹壕線と砲兵陣地や地雷原が隙間なく維持されているわけではありません、何故ならばそんな陣地を維持するには当時、一個師団の責任正面範囲が3㎞ほどであり、そんな密度の戦線を維持できるほどロシア軍はウクライナへ兵力を展開していないためです、すると間隙は必ずある。

 防御陣地と広報連絡船を浸透して遮断する能力が、レオパルド2やチャレンジャー2戦車にはあります、ロシア軍はウクライナ軍のHIMARS高機動ロケットシステムを警戒し、戦線の後方、80㎞の射程圏外に物資集積所を置いていますが、現代の戦車運用は浸透することで相手の後方策源地を叩き潰すことが可能だ。この戦い方はロシア軍にはありません。

 ロシア軍は損害を顧みない運用を、特にロシア政府が民意の反発を完全に圧殺しているために、無茶苦茶な兵力運用が可能です。しかし、ウクライナ軍の戦闘は洗練されており、思わぬ損耗を強いられることもあるでしょう。他方、ロシア政府は損耗が大きくなるほど、成果がなければ停戦さえ応じることができず、戦争はさらに長期化する懸念があります。

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