北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】鞍馬寺,今昔物語集と扶桑略記に記される鞍馬と鑑真高弟鑑禎奉じた毘沙門天と御寺のはじまり

2023-03-01 20:23:54 | 写真
■新しい堂宇の古い御寺
 鞍馬寺は平安遷都以前の即ち京都よりも古い歴史を今に伝える御寺なのですがはじまりという部分を辿ってみましょう。

 鑑禎が創建した寺院。創建は宝亀元年こと西暦770年にさかのぼる寺院であり、京都の平安遷都前の寺院で今もその地にある寺院はそれほど多くはありません、鑑禎は唐の出身の若き僧侶で、日本の仏教に大きな変革をもたらした鑑真とともに日本にやってきました。

 鞍馬寺はわかりにくい寺院、こういうのは教義も門徒でなければわかりにくいのかもしれませんが、江戸時代に何度も火災に見舞われており堂宇が新しいことと無関係ではありません、令和2年7月豪雨にも大規模な土砂災害に見舞われ、僥倖にも堂宇は無事でしたが。

 金堂、三尊尊天を奉じる金堂は1971年の、つまり戦後も戦後の昭和中期に再建されたものですし、多宝塔はもともと金堂東側にあったものが江戸時代後期の火災で焼失、再建されたのは昭和時代の1960年、仁王門も1891年に焼失ののち再建されたのは1911年のこと。

 仁王門は、しかし焼失前には平安時代末期の寿永年間、西暦では1182年から1184年の元号ですので鎌倉時代の入り口ということですが、この頃に造営されていたという。すると源義経と鞍馬天狗の時代にはまだないものの、その直後という歴史はあったということで。

 多宝塔と仁王門の間を、徒歩で登ることもできなくはないのだけれども、結ぶケーブルカーでは待ち時間のさなかに録音方式の寺の由来を聞くことはできるのですが、サナートクマラの信仰についての由来となりますので、少々驚かさせるのです、その寺の始まりは。

 鑑真が唐から伴ってきた高弟の中でも最年少であったという鑑禎、日本において毘沙門天を祀る草庵を造営したのが、この鞍馬寺の始まりといいます。ただ、鑑真とともにいまの鞍馬山に寺院を造営したのではなく、宝亀元年に草庵を造営したといい、鞍馬はそのさき。

 毘沙門天を安置した鑑禎、宝亀3年こと西暦772年に夢のお告げがあったといい、山城国の北方に峻険や山々が並ぶところに白馬が宝物を湛えた鞍とともに躍進する夢を見たために、当地へと向かった、こういう法話が鞍馬蓋寺縁起、寺伝には記されているといいます。

 鞍馬蓋寺縁起、説話的に記したものであり当時の情勢を考えるならば寄進された土地のうちの一つが山城国北部にあったと理解するべきなのかもしれませんが、白馬の鞍にで鞍馬という名を説明したものなのかもしれません。ただ、鞍馬蓋寺縁起のみにしか記載がない。

 南都奈良、鑑禎が創建した寺院であることは確かといいますので、平安遷都には旧都平城京における仏教勢力の拡大とともに政教分離を図ったという桓武天皇の施策による平安遷都と京都造営にあっても、南都の影響はあったという部分記したもう一つの説話といえる。

 今昔物語集と扶桑略記には、他方で鞍馬山と鞍馬寺についてのもう一つの記載があり、延暦15年こと西暦796年に造東寺長官に補職されていた藤原伊勢人が、自らの観音堂を造営するべく探し出した適地が鞍馬で、すでにあった毘沙門堂を基に寺院を造営した、とも。

 扶桑略記にも並ぶこの鞍馬寺の始まりについて、ふと思い出すのは清水寺と坂上田村麻呂の所縁というもので、この清水寺観音堂が平安遷都における日本の軍事と造作という、蝦夷討伐と定期的首都遷都に終止符を打った歴史は清水寺拝観の際にふれたところでした。

 坂上田村麻呂、黒漆剣という重要文化財に指定されています太刀がこのお寺に残されているのですが、実は清水寺と所縁ある坂上田村麻呂もここを拝観の際に太刀を奉納していまして、平安遷都前の庵が平安遷都とともにおおきくなっていった歴史を偲ぶことができる。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】鞍馬寺,くらま-ヘリコプター搭載護衛艦くらま未成空母鞍馬巡洋戦艦鞍馬その名の由来を辿る

2023-03-01 20:00:34 | 写真
■DDH-144くらま
 DDH144とは艦番号144でDDHとはヘリコプター搭載護衛艦という艦種を示します護衛艦の名は、くらま。

 くらま、この名は海上自衛隊のヘリコプター搭載護衛艦くらま、すでに全通飛行甲板型護衛艦であるヘリコプター搭載護衛艦かが、に現役の座を譲り退役していますが、旧海軍では巡洋戦艦鞍馬、起工前の1943年に建造中止となった航空母艦鞍馬など所縁ある名です。

 ヘリコプター搭載護衛艦として、自衛隊観艦式では、2006年観艦式に2009年観艦式と2012年海上自衛隊60周年観艦式に2015年観艦式、四度の観艦式で観閲部隊の中心にて、内閣総理大臣が乗艦する観閲艦として艦隊を率いた海上自衛隊の象徴のような護衛艦でした。

 巡洋戦艦鞍馬型、帝国海軍が1911年に建造した巡洋戦艦鞍馬、1909年に建造した伊吹とともに1923年にワシントン海軍軍縮条約により廃艦となるまで主力艦の一翼を担った常備排水量14636t、30.5cm艦砲を備えた戦艦の名で、大戦中に雲龍型空母の未成艦名ともなる。

 鞍馬という名は、北大路機関にもくらまさん、と馴染みある響きなのですけれども護衛艦との関係でどうしても深い関心を持つところなのです。しかし、この由来というところが不思議にわかりにくい。少なくとも鞍馬とあるような馬の育成地でも馬具生産地でもない。

 山城国の山として古くから和歌に詠まれていまして、歌初学抄や五代集歌枕にはこの鞍馬を、くらぶ山やくらま山を山城国の山であると説明しています。鞍馬山の古名を暗部山とする理解もあるようですが、逆に鞍馬山と暗部山は別の山ではないかとの理解も成り立つ。

 暗部山に当たる山は不確かで、歌初学抄や五代集歌枕がふたつ名前を示しているのは別々の山という理解、しかし逆に誤植という理解や歌初学抄や五代集歌枕の執筆期間中に変遷があったという理解もなる立つのかもしれないし、古名がくらぶ山だったという理解も。

 拾遺和歌集には、くらま山、という名が安法法師らの歌人に示されているという。このあたりが、くらぶ山を分けて記しているために別々の山だという理解につながるようですが、何しろこの頃の地図は山名に厳格でなく、もう少し歴史研究を俟つべきなのかもしれない。

 貴船川を西に、東に鞍馬川が流れる地形にあります鞍馬山は二つの河川に南北に細長く削られるように標高584mという山容を構成したということなのでしょう。暗部山という由来はこのあたりが暗かったためという解釈も成り立つが、温泉も湧き隘路は思いの外広い。

 巡洋戦艦鞍馬の時代にはまだ鞍馬弘教は存在しませんでした。他方で、天台宗系の寺院として、これも変遷を経ているのでしょうけれども平安遷都前から当地にあった歴史を考えますと、信仰に変遷があることは読み取れるのですが、少なくとも山名としては古く深い。

 サナトクマーラ、ヒンドゥー教の神話に描かれる賢人の名が日本に定着した、という理解も為されるようでして、サンスクリット語ではこのサナトクマーラという名は“永遠の若者”と意味も持つものです。ヒンドゥー教と日本、信仰のあり方として不思議な繋がりが。

 仏教はインドで誕生した、しかしインドという地は古代数学に“0”の概念をいち早く見出すなど世界の哲学的な一大拠点を構成していまして、ジャイナ教や仏教と様々な信仰と哲学が調和、続いてヒンドゥー教を形成しています。信仰という部分は境界線も曖昧という。

 浄土宗と天台宗の対立のような背景が、ヒンドゥー教と仏教との間で成立していたのだろうか、どうしても実感の湧くのは見て届く範囲内と日常の習慣に裏打ちされた価値観ですので、日本風に理解しますとそういう流れなのだろうか、と不思議な親近感をもちました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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モルドバの緊張-ロシア軍特殊作戦とクーデター懸念,沿ドニエストル地方駐留ロシア軍-東欧で何が起こるか

2023-03-01 07:02:34 | 国際・政治
■臨時情報-モルドバ情勢
 自衛隊はというより日本は隣国をもう少し見極めるべきか。

 モルドバのサンドゥ大統領は、モルドバ国内にロシア特殊部隊の浸透が始まっている懸念があるとして警戒感をあらわにしました。モルドバは沿ドニエストル地方が自治区域となっていてモルドバ政府の施政権が及ばず、そのうえでロシア系住民が多いとして国内にロシア軍が駐留しています。ここから工作員が浸透し、クーデターの懸念があるという。

 クーデター計画、考えすぎと思われるかもしれませんが、ドンバス戦争、ウクライナ東部紛争として2016年に本格化した現在のロシアウクライナ戦争の前哨戦となった戦いも、私服戦闘員、しかしズボンとブーツと小銃だけは全員同じ、こうした部隊の浸透から始まっていまして、絵空事というにはあまりに既視感がある状況が、再来する懸念があるのですね。

 モルドバ、懸念するのはこの東欧の美しい小国がウクライナ西部国境に面しているため、もしロシア軍がこの地域に介入し軍事拠点を構築するならば、ロシア軍が昨年ウクライナ侵攻に際して目指した“オデッサ攻略”、つまりウクライナを黒海から切り離し内陸へ押し込むことで国力を弱体化させ、続いて弱体化したウクライナを国家崩壊へ追い込むことが叶う。

 国家崩壊とは、キエフをロシア軍が再侵攻し、ウクライナ政府をロシア系に置き換え、ロシアが認めた政治家のみをウクライナ大統領に据える、という、2022年2月の侵攻段階で企図された運用です。そのためには経済破綻させ軍事力を削ぐ必要があり、穀物輸出国であるウクライナ、その重要港湾であるオデッサ港を占領することが一番の近道となるのですが。

 空軍が温存されているロシア軍にとり、Il-76輸送機などにより空挺軍を送り込めば、といいましても空挺軍はウクライナ戦争においてかなりの損耗を強いられていますが、モルドバ軍はウクライナ軍とことなり、かなり弱体であり陸軍兵力はわずか6700名、しかも戦車を一両も持っていません、戦車の代わりになるのは15両のBMD-1空挺戦闘車くらいです。

 モルドバの懸念は、沿ドニエストル地方にロシア軍が駐留していて、この規模が1500名とモルドバ陸軍よりは少ないのですが一定規模の受け皿がある点で、ここに空挺軍が戦闘加入しますとモルドバ軍には非常に不利となります。他方でモルドバはNATO加盟国ではありませんので、有事の際に独力で戦わなければならないという状況が付け加えてきびしい。

 NATOとモルドバは、パートナー協定は結んでいるのですが、加盟国とはなっていません。そしてロシア空挺軍の脅威度ですが、陸軍の規模とともにモルドバ空軍の規模の小ささも課題です、1990年代にはMiG-29戦闘機、比較的高度な戦闘機を保有していましたが小国であるモルドバ空軍に維持することはできず、稼働機21機をアメリカへ売却してしまった。

 欧州発航空便の減便、この懸念が現実的なリスクとなっているのは、緊張増大を受け、モルドバへの航空便減便が始まっている、ということです。ロシアの立場から考えれば、ウクライナでの成果が上がらない現状では、モルドバで成果を上げて政治的出口戦略をという考え方も成り立つのかもしれません、それで一国の運命が左右される悲しい現実があります。

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