北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】城南宮,梅の名所は城南宮-今年も見事に咲き誇り香りを風に載せる裏鬼門と王城鎮護

2023-03-22 20:23:44 | 写真
■梅の名所は院政の基点
 観梅へ城南宮へ行って参りました。まずは梅園を探訪する前に参拝と歩み進めるのですが雨天予報は何処へという小春日和が迎えました。

 城南宮、梅の名所は城南宮、と謡ほどここの梅林は迫力があります。それは北野天満宮の梅園ほど広くないところに密集して植えられているために、いわば密集による迫力、というところでしょうか。ここはコロナの時代に防護マスクでさえも梅の香を運んでくれる。

 京都市伏見区中島鳥羽離宮町、地下鉄烏丸線の終点竹田駅から徒歩で十五分ほど、近鉄京都駅からも竹田駅が地下鉄と合流する路線となっていて、地下鉄烏丸線を運航する近鉄奈良行電車はここから近鉄線に入るのですが、この駅からバスでも参道へ行く事ができる。

 平安遷都に際し、根源神として崇敬される国常立尊を祀った社殿を造営したものといい、大国主命として親しまれる八千矛神と神功皇后としても知られる息長帯日売尊とともに祀った社殿とされます。ただ、若干の遷座を重ねていますので当時の遺構はありません。

 京都御所の裏鬼門、という位置関係にもあります社殿ですので方除けや厄除けとしても信仰されている社殿という。方角が大丈夫ならば交通安全にもご利益があるだろう、というなにか現代日本らしい精神で自動車による茅の輪くぐりが夏に行われる事でも知られる。

 本殿はじめ全体的に真新しいように見えますのは、式年遷宮は行っていないのですが1977年に火災に見舞われるということがありまして、その後の1978年に本殿を再建したために真新しく見えるという事情があるのです。そしてこの一帯は院政の聖地がありました。

 孝明天皇が攘夷祈願の行幸を行ったという幕末史の一こまがありますが、攘夷祈願はさておき鳥羽伏見の戦いではここが激戦地となり、ほぼすべて焼かれるという天皇さんの願いむなしく当地を焼いたのは同胞であった、そんな歴史の難しさも湛えているものです。

 尊王攘夷運動と激戦地、戦闘は口実があれば大義名分など吹き飛ぶと嘆息させられるのは、このあたりが院政の聖地であり、多くの上皇陵墓などが並びます、故にこんなところで激戦を繰り広げすことこそが尊王とは真逆の行動に見えるのですが、現実は厳しいもよう。

 承久の乱、尊王攘夷運動から600年以上さかのぼるところですが、城南宮はもう一つ、大きな日本の転換点の舞台ともなりました、時は鎌倉時代、まだ院政が執り行われていた時代でもあるのです。そもそも平安朝の終焉は院政による二重権力が背景にあったのですが。

 平安時代の院政は、上皇の政治介入は制度化されていない政治文化による政治への影響というものでしたが、結果的に二重権力状態を生み、干ばつや飢饉といった社会不安を醸成する有事への対応能力を欠くこととなったのは大きな問題でした、軍事力が必要となる。

 武家の台頭は、もともと開拓農民のような武家、彼らが槍ではなく長刀を長らく主力武器としたのは、元々槍は狩猟用具であり長刀は農工具の草刈り用鎌から転じた、草を刈るか人を薙ぎ払うか、という違いですが、有事へ対応を求め実力者が組織化し武家が生まれた。

 鎌倉幕府は、その一つの到達点といえるものですが、日本には院政と朝廷とともに鎌倉幕府という、京都と鎌倉に二つの王都が並ぶという、征夷大将軍という官位を授けたものの、一種の二重権力状態が発生しています。しかし、ここに終止符を打ったのが承久の乱だ。

 城南宮はその発端となった場所でもあり、いわばここで日本史は二重権力状態を脱し、幕末の動乱までは、もちろん騒擾状態は幾度も乗り越えねばならないのですが、制度的には安定期を迎えることとなる、そんな歴史を持つ社殿を梅花とともにめぐったわけです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】下鴨神社-ひな祭り,流し雛は女児の無病息災を願い穢れを引き受けて水に清められ流される

2023-03-22 20:00:40 | 写真
■梅花の季節に広がる祭事
 無病息災を願う神事が疾病により非公開となりまして数年を経ての公開再開というこの日は。

 下鴨神社の流し雛、やはり混雑していますが、混雑した場所でもどこか凪のような場所があります、そこを広角では厳しいのですが望遠レンズですとうまく切り取ることができる、そして梅花の咲き始めたまだ肌寒い頃合いの季節らしい情景も、映して記録したい。

 梅花の季節は、桜のようにワッと咲いてさっと散ってしまう花々という散りざまの潔さではなく、長く粘り強く続き印象に残る、しかし油断していると見ごろはあっというまに過去のものとなり来年のお楽しみとなる、そんな意味で梅花とは印象深いものなのですが。

 ひな祭りは流し雛、正確には紙人形の形代を流して無病息災を願う、という祭事が始まりであったといい、しかしひな祭りの白酒やごちそうの分解は無事に一年を超えて制供養できたことの祭事、という意味合いを含むなど形としては原型をとどめるものも多い。

 ただ、この下鴨神社の祭事を見れば楽しんでるのは子供というよりも、大人、ではないか、と思われるかもしれ間電、実際そう思う、のだけれども実はこれも、不思議な話が。将軍宣下へ徳川家康が京都上洛した際、公家から上巳の祝いを受けたという話題は前に触れた。

 徳川家康が祝われる程度に実は桃の節句は江戸時代初期に形骸化していたということもできまして、これはいいかえれば切迫した意味での女児の無病息災を懸念せずとも女児が健やかに育つ程度に、日本国内が安定化した、平安時代より良くなった、ともいえるもの。

 後水尾天皇の時代を記した後水尾当院当代日記などにはひな祭りといいますか、桃の節句の神事といいますか宮中行事で、闘鶏をやっていた、という記録もありまして、当時の女児はバイオレンス、という意味ではなく、この頃から大きなお友達が楽しんでいた、と。

 江戸時代には、ひな人形が日本の工業技術発達により量産できるようになったことは前に触れましたが、もう一つ、吊るし雛が普及し始めます。この吊るし雛、かなり古くからあったものと思っていたのですが、雛人形の普及ののちというから歴史として案外新しい。

 ひな人形の代用としての吊るし雛は、庶民の、農家のような比較的自宅の広さが確保されているところは別としまして、当時世界最大都市であった江戸の下町長屋などは三畳一間に土間で一家生活という、どうやって詰め込んだのという住宅環境があったものでして。

 吊るし雛はこうした住宅環境においてひな祭りを愉しむための工夫であったのですね。なお、流し雛と吊るし雛は変なところで共通点がある、流し雛は桃の節句で川に流してしまいましたが、吊るし雛は御焚き上げで炎により天に帰してしまうという、つかいすて。

 流し雛は形代という、無病息災を願い穢れを引き受けて水に清められ流される、という点は何度も紹介したところですが、吊るし雛もまたお守りのように焚き上げられるのですね。そして共通点なのですが、ひな人形を桃の節句が終わると片付ける点も共通点があります。

 ひな人形は早くしまわなければ婚期が遅れる、とはよくいわれるところですけれども、これはぐうたらを定着させないためという解釈よりも、穢れを引受、ひな人形もまた形代であるために、流される流し雛や焚き上げられる吊るし雛と同じように仕舞うことで祓う。

 伝統というものの形骸化は叫ばれるところであるのだけれども、形骸化ではなく進化しているのが日本の伝統行事なのかな、とも思うところです。そう感慨深い思いをかみしめるとともに、いや仕事残っているんだった、と大童でバス停の方へ撤収を開始したのです。

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岸田総理ウクライナキエフ電撃訪問!ゼレンスキー大統領と首脳会談,戦時下首都へ首相訪問は戦後初

2023-03-22 07:00:48 | 国際・政治
■臨時情報-ウクライナ情勢
 情報保全に成功し無事訪問できたというのはそれ自体が大きな成果です。

 岸田総理大臣はウクライナのキエフを電撃訪問し、ゼレンスキー大統領と初の首脳会談を行いました。このなかで日本政府は殺傷力の無い装備品の供与を続けると共に、ゼレンスキー大統領は再来月に行われるG7広島サミットへのオンライン参加が決定しています。過去三度にわたり、岸田総理はウクライナ訪問を調整していて、ようやく実現しました。

 キエフ電撃訪問、情報漏洩対策が鍵でした。過去に計画したウクライナ訪問は全て情報漏えいにより断念されています、ウクライナ訪問と情報漏えい、この問題は現在ウクライナが戦時下にあり、情報漏えいはキエフ到着に併せロシア軍が攻撃を行えば、総理大臣の生命を左右する重大事態となる、だからこそ各国首脳のキエフ訪問は極秘裏に行うのです。

 岸田総理大臣のウクライナ訪問は列車により行われています、このキエフ到着は日本時間の21日0700時、日本では岸田総理大臣はインドでの日印首脳会談を経て、朝のニュースとともにWBCワールドベースボールクラシック準決勝の日本メキシコ戦という大きなニュースの時間帯に、岸田総理大臣はキエフに到着、今回は情報漏えいは無く成功しました。

 情報保全とともに、岸田総理大臣はキエフ北方の激戦地ブチャを訪問、今回のロシアウクライナ戦争において判明しているロシア軍の占領下での住民虐殺行為、ウクライナが停戦への態度を硬化させ、現在のロシア占領地での次なるウクライナ非戦闘員への虐殺行為を阻止するという決意を固める事となったブチャを訪問し犠牲者に献花を行っています。

 軍事支援は見送り、そして広島サミットへの参加もオンライン、しかし最大の課題であった情報漏えいを回避したことは、大きな成果です。情報漏えいとは、結局どれだけ極秘裏に計画したとしても、関係者の話として記者団に日程が出てしまい、記者に日程が漏れるのだから情報収集を行う諜報機関にはもっと漏れてしまっているだろう、ということ。

 総理日程の明示化や国会への報告義務、こうしたものをクリアする事ができたのは今年にはいって。しかしこの首脳会談の実施は五月のG7広島サミットに向け、G7主要七カ国首脳のなかでウクライナを訪問していない首脳は岸田総理だけでしたので、今回はよくぞ情報を管理できたという点が評価されるべきでしょう。なにしろ戦時下での外国首都訪問は日本の総理大臣として初なのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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