■此処に真如堂あり
京都には古い寺院は数多いけれども歴史にもまれることを避けられた寺院は数少なくこちらもそのひとつ。ここに真如堂ありという歴史は実は比較的新しいのです。
真如堂、美しい伽藍とともに今日此処にあるのですが、戒算が比叡山を降りて創建しました寺院は神楽岡東の東三条院詮子、源氏物語が描かれた時代の一条天皇生母、その離宮に安置されていたのですが、やはりといいますか応仁の乱に巻き込まれ堂塔は焼失します。
応仁の乱においては琵琶湖畔などを転々とするのですが動乱期が終わりますと先ず一条西洞院に寺地を改め、そして創建の地神楽岡にもどることとなるのですが、しかし将軍足利義昭の命により一条通北に移転することとなり、ようやく本堂などを再建するのですが。
豊臣秀吉の時代となりますと一条通北には聚楽第建設を行うこととなりまして京極今出川に移転を強いられます、ここで江戸時代を迎えるのですが、寛文元年こと西暦1661年に本堂が火災で焼失、再建するも元禄5年こと1692年にはまたしても本堂が焼失してしまう。
東山天皇の勅を受けまして元禄6年こと1693年にこの現在地に移転してくるのですが、それから三百余年、幸いにして今日まで無事に在ります。そして、庭園が昭和にはいり大きく整備される事となりまして、拝観の際に当地の位置を再認識することもできるのですね。
比叡山を借景に、重森三玲の大胆な借景の作庭は、確かに現代的で時には少しいきすぎを感じる直線の使い方があるのですけれども、得度したこともあります重森氏の寺院庭園には、無理に華美さを強調するようなところはなく、いわれてみると仏教的だ。
重森氏の作庭しました庭園は京都には実のところ数多く、しかし聞きますと京都以外ではそれほど頻繁にみるところではないという、もっとも拝観できる庭園が徒歩圏内にいくつもあるところは、鎌倉とか奈良とかになってしまうのかもしれませんけれど。
比叡山を借景とした庭園は洛北にもいくつかあるのですが東山のほうに向かってしまいますと逆に近すぎるということなのでしょう、急に少なくなってしまいまして、しかしここ、狭く腰掛けてゆったりみられる場所も広くはないのですが、この日は人が。
庭園拝観というものは、考えてみると靴を脱ぐ一動作で気分一新、というほど単純なものではないのですけれども、靴下だけの裸足で堂宇のなかの新鮮な床の上を歩みその向こうに情景をながめるということで、時間をぜいたくに使い確かに気分がかわってゆきます。
寺院、わんこ散歩が例外的に認められているのがここの不思議なところでして、ただ粗相してそのままという事例が若干あるようでその注意書きがあるという。わんこ散歩、盲導犬さえも却下というところがある訳ですから意外といいますか不思議なのですよね。
涅槃図をみますと、わんこさんも含めてお釈迦様の入滅を悲しんでいる様子が描かれているのをみますと、粗相さえしなければわんこさんにゃんこさんも歓迎、というのが本来の寺院のあり方なのでしょうか、昔のわんこさんに関する考え方の不思議ともいえる。
特別公開される涅槃絵図はここともうひとつ本法寺のものが有名ですけれども、堂々足るというのでしょうか、ここまで大きなものを時間をかけて描いたわけですが、その熱意とともに大きさが、絵図を美術本などでみるとは次元が違う圧巻というひとこと。
お釈迦様の入滅、その様子に多くのゆかりある人々とともにあらゆる動物たちが嘆き悲しんでいる様子を、壮大といえる大きな絵図としたもので、いやこれ今の時代に長い歴史を越える中でよく自重で破れなかったものだ、ともその一点でも感慨深いものですよね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
京都には古い寺院は数多いけれども歴史にもまれることを避けられた寺院は数少なくこちらもそのひとつ。ここに真如堂ありという歴史は実は比較的新しいのです。
真如堂、美しい伽藍とともに今日此処にあるのですが、戒算が比叡山を降りて創建しました寺院は神楽岡東の東三条院詮子、源氏物語が描かれた時代の一条天皇生母、その離宮に安置されていたのですが、やはりといいますか応仁の乱に巻き込まれ堂塔は焼失します。
応仁の乱においては琵琶湖畔などを転々とするのですが動乱期が終わりますと先ず一条西洞院に寺地を改め、そして創建の地神楽岡にもどることとなるのですが、しかし将軍足利義昭の命により一条通北に移転することとなり、ようやく本堂などを再建するのですが。
豊臣秀吉の時代となりますと一条通北には聚楽第建設を行うこととなりまして京極今出川に移転を強いられます、ここで江戸時代を迎えるのですが、寛文元年こと西暦1661年に本堂が火災で焼失、再建するも元禄5年こと1692年にはまたしても本堂が焼失してしまう。
東山天皇の勅を受けまして元禄6年こと1693年にこの現在地に移転してくるのですが、それから三百余年、幸いにして今日まで無事に在ります。そして、庭園が昭和にはいり大きく整備される事となりまして、拝観の際に当地の位置を再認識することもできるのですね。
比叡山を借景に、重森三玲の大胆な借景の作庭は、確かに現代的で時には少しいきすぎを感じる直線の使い方があるのですけれども、得度したこともあります重森氏の寺院庭園には、無理に華美さを強調するようなところはなく、いわれてみると仏教的だ。
重森氏の作庭しました庭園は京都には実のところ数多く、しかし聞きますと京都以外ではそれほど頻繁にみるところではないという、もっとも拝観できる庭園が徒歩圏内にいくつもあるところは、鎌倉とか奈良とかになってしまうのかもしれませんけれど。
比叡山を借景とした庭園は洛北にもいくつかあるのですが東山のほうに向かってしまいますと逆に近すぎるということなのでしょう、急に少なくなってしまいまして、しかしここ、狭く腰掛けてゆったりみられる場所も広くはないのですが、この日は人が。
庭園拝観というものは、考えてみると靴を脱ぐ一動作で気分一新、というほど単純なものではないのですけれども、靴下だけの裸足で堂宇のなかの新鮮な床の上を歩みその向こうに情景をながめるということで、時間をぜいたくに使い確かに気分がかわってゆきます。
寺院、わんこ散歩が例外的に認められているのがここの不思議なところでして、ただ粗相してそのままという事例が若干あるようでその注意書きがあるという。わんこ散歩、盲導犬さえも却下というところがある訳ですから意外といいますか不思議なのですよね。
涅槃図をみますと、わんこさんも含めてお釈迦様の入滅を悲しんでいる様子が描かれているのをみますと、粗相さえしなければわんこさんにゃんこさんも歓迎、というのが本来の寺院のあり方なのでしょうか、昔のわんこさんに関する考え方の不思議ともいえる。
特別公開される涅槃絵図はここともうひとつ本法寺のものが有名ですけれども、堂々足るというのでしょうか、ここまで大きなものを時間をかけて描いたわけですが、その熱意とともに大きさが、絵図を美術本などでみるとは次元が違う圧巻というひとこと。
お釈迦様の入滅、その様子に多くのゆかりある人々とともにあらゆる動物たちが嘆き悲しんでいる様子を、壮大といえる大きな絵図としたもので、いやこれ今の時代に長い歴史を越える中でよく自重で破れなかったものだ、ともその一点でも感慨深いものですよね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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