■日本の信仰の多様性
寛容といますか多彩といいますか雑多といいますか日本の宗教観は実はその成り立ちに影響され、それだけ社会や個人の価値観に影響していると思うのですが鞍馬はその一つとおもう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/14/7fe6c6c86df5221f3b100c6314e60165.jpg)
鞍馬の信仰、単純化しますとわかりやすいのですが時系列や歴史、特に日本宗教史とともに並べますとわかりやすい説明の方が矛盾が多くなり逆にわかりにくいのです。しかしもともとは当地に鑑真の弟子鑑禎が毘沙門天を安置したところが、お寺の始まりという。
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尊天信仰という鞍馬弘教は昭和中期に天台宗から独立しましたので、若干新興宗教のような印象があるのですが、そもそものこの尊天信仰というものをたどりますと、昭和中期ではなく桓武天皇の治世下までさかのぼりますので、変な話密教真言宗のほうが新興となる。
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三位一体、キリスト教の聖母マリアをふくめたほうではなく、鞍馬弘教の考え方が三位一体という認識とともにありまして、本堂の毘沙門天と千手観世音菩薩と護法魔王尊の三体は一つの神である、というものが尊天の考え方であり、尊天信仰というものです。ここは。
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藤原伊勢人、造東寺長官を務めた奈良時代末期の官僚が千手観音像をつくり、もともとあった毘沙門天とともに安置したことが鞍馬寺を創建に起因しています、すると尊天信仰における毘沙門天と千手観世音菩薩というものこそ、鞍馬寺始まり、二つの神というゆらい。
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延暦15年こと西暦796年に毘沙門天と千手観世音菩薩を並べて信仰したという歴史がありますので、昨日今日や百年二百年の信仰なんていうあさいものではなく、このように1227年も経ていますと尊天信仰というものはある程度、いや着実に体系だっているといえる。
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山岳信仰の寺院、いや鞍馬寺のあります鞍馬山そのものが山岳信仰の寄る辺というところですけれども一時期密教寺院でもありました、これは9世紀末の寛平年間に東寺の峯延が入寺しまして、鞍馬寺は真言宗寺院となっています。真言宗は多様性の宗派でもある。
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空海、真言宗を広めた空海は晩年の入定に際し教王護国寺は実慧、金剛峯寺は真然、神護寺は真済、安祥寺を恵運、醍醐寺は聖宝、円成寺は益信、と高弟に住持を譲り、この寺院はすべて年分度者、国公認僧侶養成機関という格付けを受けています、分散したのですね。
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真言宗は、分散するとともに、ここに仁和寺も加えまして独自の僧侶養成を行うことで天台宗の延暦寺のような画一化した総本山を持たない事とはなりますが、宗教哲学の多様性を生んでいます。この流れが峯延により鞍馬寺にも伝わるのですが、寺の格付けもあがる。
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由岐神社、もう一つ格を上げたのはケーブルカーに隣接する鞍馬寺の鎮守社である由岐神社でして、しかし元々は宮中にありました。ここが朱雀天皇時代の10世紀中期に京都での大地震をうけ天皇の勅令により鞍馬寺の鎮守社となり、由岐大明神三つ目の神が並んだ。
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北方鎮護という詔勅を受けての遷座となりましたが、有名な鞍馬の火祭も由岐大明神を迎えるための神事というものですから寺の格にもつながるものです。ただ、平安時代末期の保延年間、鞍馬寺はあっさり天台宗寺院に改宗し、洛中近い青蓮院の管理下となります。
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延暦寺の重怡が鞍馬寺に来たためなのですが、鎌倉時代の寛喜元年の1229年から青蓮院門跡座主が鞍馬寺検校職を兼務することとなり、これが昭和中期に鞍馬弘教成立まで、厳密には天台宗の影響も色濃いのですが、より三位一体的な信仰につながるまで続きます。
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三尊尊天という毘沙門天と千手観世音菩薩と護法魔王尊を奉じる本殿金堂は昭和の1971年再建ですので、それではかつての本堂はどのように信仰を安置していたのか、と興味深いところなのですが、一拝観者のたちばでは、なかなか謎という他ないのが実情なのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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寛容といますか多彩といいますか雑多といいますか日本の宗教観は実はその成り立ちに影響され、それだけ社会や個人の価値観に影響していると思うのですが鞍馬はその一つとおもう。
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鞍馬の信仰、単純化しますとわかりやすいのですが時系列や歴史、特に日本宗教史とともに並べますとわかりやすい説明の方が矛盾が多くなり逆にわかりにくいのです。しかしもともとは当地に鑑真の弟子鑑禎が毘沙門天を安置したところが、お寺の始まりという。
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尊天信仰という鞍馬弘教は昭和中期に天台宗から独立しましたので、若干新興宗教のような印象があるのですが、そもそものこの尊天信仰というものをたどりますと、昭和中期ではなく桓武天皇の治世下までさかのぼりますので、変な話密教真言宗のほうが新興となる。
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三位一体、キリスト教の聖母マリアをふくめたほうではなく、鞍馬弘教の考え方が三位一体という認識とともにありまして、本堂の毘沙門天と千手観世音菩薩と護法魔王尊の三体は一つの神である、というものが尊天の考え方であり、尊天信仰というものです。ここは。
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藤原伊勢人、造東寺長官を務めた奈良時代末期の官僚が千手観音像をつくり、もともとあった毘沙門天とともに安置したことが鞍馬寺を創建に起因しています、すると尊天信仰における毘沙門天と千手観世音菩薩というものこそ、鞍馬寺始まり、二つの神というゆらい。
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延暦15年こと西暦796年に毘沙門天と千手観世音菩薩を並べて信仰したという歴史がありますので、昨日今日や百年二百年の信仰なんていうあさいものではなく、このように1227年も経ていますと尊天信仰というものはある程度、いや着実に体系だっているといえる。
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山岳信仰の寺院、いや鞍馬寺のあります鞍馬山そのものが山岳信仰の寄る辺というところですけれども一時期密教寺院でもありました、これは9世紀末の寛平年間に東寺の峯延が入寺しまして、鞍馬寺は真言宗寺院となっています。真言宗は多様性の宗派でもある。
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空海、真言宗を広めた空海は晩年の入定に際し教王護国寺は実慧、金剛峯寺は真然、神護寺は真済、安祥寺を恵運、醍醐寺は聖宝、円成寺は益信、と高弟に住持を譲り、この寺院はすべて年分度者、国公認僧侶養成機関という格付けを受けています、分散したのですね。
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真言宗は、分散するとともに、ここに仁和寺も加えまして独自の僧侶養成を行うことで天台宗の延暦寺のような画一化した総本山を持たない事とはなりますが、宗教哲学の多様性を生んでいます。この流れが峯延により鞍馬寺にも伝わるのですが、寺の格付けもあがる。
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由岐神社、もう一つ格を上げたのはケーブルカーに隣接する鞍馬寺の鎮守社である由岐神社でして、しかし元々は宮中にありました。ここが朱雀天皇時代の10世紀中期に京都での大地震をうけ天皇の勅令により鞍馬寺の鎮守社となり、由岐大明神三つ目の神が並んだ。
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北方鎮護という詔勅を受けての遷座となりましたが、有名な鞍馬の火祭も由岐大明神を迎えるための神事というものですから寺の格にもつながるものです。ただ、平安時代末期の保延年間、鞍馬寺はあっさり天台宗寺院に改宗し、洛中近い青蓮院の管理下となります。
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延暦寺の重怡が鞍馬寺に来たためなのですが、鎌倉時代の寛喜元年の1229年から青蓮院門跡座主が鞍馬寺検校職を兼務することとなり、これが昭和中期に鞍馬弘教成立まで、厳密には天台宗の影響も色濃いのですが、より三位一体的な信仰につながるまで続きます。
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三尊尊天という毘沙門天と千手観世音菩薩と護法魔王尊を奉じる本殿金堂は昭和の1971年再建ですので、それではかつての本堂はどのように信仰を安置していたのか、と興味深いところなのですが、一拝観者のたちばでは、なかなか謎という他ないのが実情なのですね。
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