■桜吹雪の信州松本を巡る
信州、島国にこれほどの高山が山脈を延々伸ばす日本の屋根というべき本州内陸には美しい情景と重厚な歴史を湛えています。
四柱神社、長野県松本市大手町三丁目に位置します神社です。四柱神社は“よはしらじんじゃ”と呼ぶのが正式との事ですが、“よんはしらじんじゃ”と当方は読み間違えていまして、しかし、正しい読み間違い方は“しはしらじんじゃ”が松本周辺では主流だ、という。
松本と云えば松本城、長野県の山間に広がる美しい盆地の街並みを散策する際に筆頭に思い浮かべるのは勇壮な国宝天守閣の趣きではありますが、中央線松本駅、その改札から市街へ繰り出す際に、城郭へバスタクシーで直行するには、少々勿体ないかもしれません。
大手町三丁目、この地名の通り江戸時代には此処には松本城の郭が広がりまして、実際この神社がこの地に創建されましたのも明治時代に入って、という。四柱神社その創建は明治12年の西暦1879年、神道中教院として明治5年の1872年に造営された社がはじまり。
城郭、こういわれますと松本城の城郭、現在は美しい天守閣とその周りを市街地が広がる城下町の典型という古今折衷の情景が美しいものですが、この神社の周りを往く水の恵み、女鳥羽川の流れと石垣も一種の惣構えというような情感を湛えている様にも思えてきます。
天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神を祭神としていまして、祭神は四柱となっています故に四柱神社となりました。しかし創建の地はもう少し離れたところに在りまして明治12年にこの地に遷座されたのは明治時代に頻発した大規模火災が原因だという。
筑摩県松本、四柱神社はこの明治時代廃藩置県に揺れる本州中部の山岳地帯に在って、筑摩県の中心を期して村社という位置づけにより社殿を拓きました。なにしろ廃藩置県は諸藩と天領を単純に県へ置き換えたのですから行政区分としては余りに多すぎたものでした。
信濃国の伊那県と高島県に高遠県と飯田県及び松本県、飛騨国は高山県、明治4年の1871年に第1次府県統合が執り行われまして、県庁は筑摩郡松本の神社現在地からほど近い松本城、長野県松本市丸之内に設置されまして、支庁を飯田城と高山陣屋へと置いています。
第1次府県統合では、ここ内陸部に美しい山国を広げ明示ニッポンを盛上げるという機運が満ちていたようですが、なにしろ高山は江戸時代の天領飛騨、無理に統合した印象が無いでもありません、そして第2次府県統合として多すぎる府県の整理、迫っていたという。
明治9年1876年6月19日、一つの転機が在りました、筑摩県庁が火災で全焼してしまったのですね。そして県庁無き最中の明治9年1876年8月21日に第2次府県統合が執り行われ、信濃国は長野県、飛騨国は岐阜県へ統合され、同日付で筑摩県は廃止されました。
明治21年の1888年、松本大火が市街地を焼き尽くしました。十年を経ずして生じた大火は、前回の県庁火災と同じく幸いにして美しい松本城は難を逃れていますが、松本駅に掛けての広い市域、江戸時代からの城下町の街並みは悉く焼失し、そこに社殿も含まれる。
二度の大火に社殿の再建は中々思うようにはかどらず、日清日露戦争を経て大正13年の1924年に漸く再建を迎える事となりました。しかし幸いその後は第二次世界大戦の戦災に巻き込まれる事ともなく、大正浪漫、とは若干趣を異にしますが今日へと至るのですね。
女鳥羽川、神社からは清水が絶えることなく川面へと注ぎ込まれています、新時代到来と共に筑摩県への夢を広げつつ、しかし繰り返される火災により難しい分岐点を乗越えねばならなかった、明治の暗中模索を経て、今は水の響きが参拝者を清らかに迎えています。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
信州、島国にこれほどの高山が山脈を延々伸ばす日本の屋根というべき本州内陸には美しい情景と重厚な歴史を湛えています。
四柱神社、長野県松本市大手町三丁目に位置します神社です。四柱神社は“よはしらじんじゃ”と呼ぶのが正式との事ですが、“よんはしらじんじゃ”と当方は読み間違えていまして、しかし、正しい読み間違い方は“しはしらじんじゃ”が松本周辺では主流だ、という。
松本と云えば松本城、長野県の山間に広がる美しい盆地の街並みを散策する際に筆頭に思い浮かべるのは勇壮な国宝天守閣の趣きではありますが、中央線松本駅、その改札から市街へ繰り出す際に、城郭へバスタクシーで直行するには、少々勿体ないかもしれません。
大手町三丁目、この地名の通り江戸時代には此処には松本城の郭が広がりまして、実際この神社がこの地に創建されましたのも明治時代に入って、という。四柱神社その創建は明治12年の西暦1879年、神道中教院として明治5年の1872年に造営された社がはじまり。
城郭、こういわれますと松本城の城郭、現在は美しい天守閣とその周りを市街地が広がる城下町の典型という古今折衷の情景が美しいものですが、この神社の周りを往く水の恵み、女鳥羽川の流れと石垣も一種の惣構えというような情感を湛えている様にも思えてきます。
天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神を祭神としていまして、祭神は四柱となっています故に四柱神社となりました。しかし創建の地はもう少し離れたところに在りまして明治12年にこの地に遷座されたのは明治時代に頻発した大規模火災が原因だという。
筑摩県松本、四柱神社はこの明治時代廃藩置県に揺れる本州中部の山岳地帯に在って、筑摩県の中心を期して村社という位置づけにより社殿を拓きました。なにしろ廃藩置県は諸藩と天領を単純に県へ置き換えたのですから行政区分としては余りに多すぎたものでした。
信濃国の伊那県と高島県に高遠県と飯田県及び松本県、飛騨国は高山県、明治4年の1871年に第1次府県統合が執り行われまして、県庁は筑摩郡松本の神社現在地からほど近い松本城、長野県松本市丸之内に設置されまして、支庁を飯田城と高山陣屋へと置いています。
第1次府県統合では、ここ内陸部に美しい山国を広げ明示ニッポンを盛上げるという機運が満ちていたようですが、なにしろ高山は江戸時代の天領飛騨、無理に統合した印象が無いでもありません、そして第2次府県統合として多すぎる府県の整理、迫っていたという。
明治9年1876年6月19日、一つの転機が在りました、筑摩県庁が火災で全焼してしまったのですね。そして県庁無き最中の明治9年1876年8月21日に第2次府県統合が執り行われ、信濃国は長野県、飛騨国は岐阜県へ統合され、同日付で筑摩県は廃止されました。
明治21年の1888年、松本大火が市街地を焼き尽くしました。十年を経ずして生じた大火は、前回の県庁火災と同じく幸いにして美しい松本城は難を逃れていますが、松本駅に掛けての広い市域、江戸時代からの城下町の街並みは悉く焼失し、そこに社殿も含まれる。
二度の大火に社殿の再建は中々思うようにはかどらず、日清日露戦争を経て大正13年の1924年に漸く再建を迎える事となりました。しかし幸いその後は第二次世界大戦の戦災に巻き込まれる事ともなく、大正浪漫、とは若干趣を異にしますが今日へと至るのですね。
女鳥羽川、神社からは清水が絶えることなく川面へと注ぎ込まれています、新時代到来と共に筑摩県への夢を広げつつ、しかし繰り返される火災により難しい分岐点を乗越えねばならなかった、明治の暗中模索を経て、今は水の響きが参拝者を清らかに迎えています。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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列島の地殻歪は、日本列島に地震で注意を呼び起こしていますね。笑笑
でも、地震期も終わりですね。