今日は雪が降っている。昨年は1月24日に随分降ったが(写真)、これからどうなるだろう。
さて、昨日は「遠野物語」を読んで妄想?をふくらませた。いろいろな読み方があるが、愛をキーワードにして読んでみた。遠野の歴史を考えると、遠く旧石器時代くらいまで辿れる。2003年に8-9万年前の石器が遠野市の金取遺跡で発見されている。これは、日本で二番目に古い旧石器だそうだ。
この時期は、現世人類が日本に到達する以前だろうが、その後は、4000~6000年前に三内丸山遺跡や大湯環状列石の縄文文化が東北地方に花開く。そして、文献が残る時代になり、アテルイや藤原氏の時代、そして近代へと続く。
こうした長い重層的な歴史を背景に遠野物語が柳田国男氏によってまとめられた。近代も、寒冷地で貧しく3年に一度飢饉がきたとも言われ、生き抜くことは過酷さを極めたようだ。その中で、オシラサマの信仰や、ザシキワラシ、山男や山女の話などが語り継がれていく。
生活環境が違うので読んでもピンとこない民話もあるが、遠野物語の99話は1896年の明治三陸津波の話であり、先の東日本大震災の津波以降よく引き合いにだされている。北川福二さんの妻と子が津波にさらわれ亡くなったが、ある日その妻と妻が結婚前に懇意にしていたという男を見る。そして福二が妻と語ったりする。
ネットで調べてみると、福二さんの子孫の方も今回被災されたそうで、とてもリアルに、その99話が感じられた。私も昨年、宮城県山元町で津波の現場を見させてもらったこともあり生々しさが伝わってくる。
愛しい人を突然亡くす厳しい現実。そして愛の孤独は想像を絶するようだ。そして、ある月夜の晩に幻(非現実的なもの)を見る。それは、私には自然なことのように思われてならない。恐らく、物語の主人公の福二さんの真実であったのだろう。幻を見ることは、福二さんにとっては救いだったに違いない。
遠野物語には、生活の悲惨さの裏返しとしての、ザシキワラシとか不思議な妖怪とかが沢山でてくる。私たち現実的な世界に生きる人には、ちょっと異様なものかもしれないが、過酷な世界に生きる人へ神の愛、息遣いを感じてならない。
愛の孤独から 2/10