イキイキと生きる!

縄文小説家・森裕行のブログです。身近な縄文を楽しみ生き甲斐としています。「生き甲斐の心理学」の講師もしています!

愛の原型を思索するのは大切!(新ライフデザイン 6/10)

2011-08-26 | 第三章「無意識の世界」

 昨日は、久しぶりに実家に来た孫と一緒に、多摩動物公園に行った。

 仕事の関係もあり、長時間見ることができないので、いつものようにチンパンジー舎でまず、キーパーズ トーク(飼育担当者による説明)を聴きにいく。UFOキャッチャーや缶ジュースの販売器などを使っての楽しいお話しに、20人位の観客が悪天候にもかかわらず集まっていた。

 オスのチンパンジーが毛を逆立てて、身体を揺らしているので、示威行動をするかなと思っていたら、突然観客とチンパンジーを隔てる強化ガラスに向かて飛びつき、バンバンと叩き脅かした。赤ちゃんや子供たちは突然の行動に驚き、3-4人が驚いて泣く。我が孫は既に経験があり、泣かないでいた。

 親御さんたちは、驚いて泣き出す子供さんを抱いて大変そうであった。

 幼いころの、恐怖の記憶。私にもあった。動物園ではないが、日光東照宮の門の仁王様に驚き泣いた記憶だ。2歳になるかならないかの時の記憶で、この世に生まれて記憶された、恐らく初めてに近い記憶である。そのとき、誰に抱かれたのか、母か祖母か祖父かは記憶にないが優しくしてくれた記憶もある。

 孫を見ていて気がつくが、子供は愛されたように愛することを覚えていく。つまり、愛される経験は、その人の愛の理解の基盤になるようだ。生き甲斐の心理学を学んでいくと、愛された記憶を愛の原型とよび大切にしていく。

 愛の原型は、人それぞれである。本当に多様性があると思う。そして、Aさんにとって愛の原型に触れるようなことは、Bさんにとって愛の原型に触れないこともある。その場合AさんがBさんに対して愛の行動をしているのにBさんは自分が愛されていることに気がつかない。そんなことがあるのだ。

 さて、持統天皇の勉強で、時々万葉集を楽しむのだが(同時代の様々な登場人物が登場し、現代にも通じる心情を吐露するので実に感動する)、この二三日、額田王(天武天皇、天智天皇の后としても有名で、代表的な歌人でもある)の次の歌にひっかかっている。

 天智天皇の訪れのない寂しさを表しているという歌でとても有名である。

 君待つと 我が恋ひ居れば 我やどの 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く

 これに対する解釈は何となく定まっているようであるが、私は簾が動く、風が吹く・・・そうした現象に、額田王が、愛の原型に触れられた経験を歌っているようにも感じるのだ。恋人の居ない宿で、愛の全くの孤独を感じるのではなく、何か大いなる愛というか、そんな萌芽を。

 額田王は波乱万丈の中80歳まで生きたという説もある。当時としては想像を絶する高齢である。額田王は、どのように愛を解釈していたのだろうか。

 自分の人生を考える上で、忘れてしまいそうな愛の原型の思索。大切だと想う。

新ライフデザイン 6/10

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自分を解放しないとはじまらない!(新ライフデザイン 5/10)

2011-08-25 | 第三章「無意識の世界」

 自分の青春時代を考えると、哲学・宗教が、自分を幸福にするとは限らないなと実感できる。それは、ある意味当たり前で、どんな哲学・宗教も自分以外の他人が介在していて、自分が実感しつつ身につけるには無理が出てきやすいものだ。そして無理はへんな自己否定に通じてしまう。

 還暦を迎えた今想うのは、哲学・思想も大事だが、心の知識も大事で、両者を自分のペースで身に付けていくことが重要だということだ。時間がかかるかもしれないが仕方がない。そして、良き師(人が変わるには読んで判るものではダメで師が必要)につき修行していく。因みに健全な哲学・宗教ということで、U先生の最近のブログ記事は、実に的を得ていると思う。

 今回の新ライフデザインはこの意味で、ブログで簡単に表現できない(努力はしているが)。山登りに似てだんだん自分の眼に見えてくるものだ。

 さて、そろそろU先生の生き甲斐の心理学の出番である。自分の辞世を考えたり、あるいは自分の傾向と渇望を考えることが、ライフデザインに通じるかもしれないが、自分の世界は意外にも狭い。まずは自分を変えていかなければ、良い結果は得られない。

 まずは、必要な時(例えば自分は何をすべきか、生き甲斐は何か、自分を大切にするには?などを考える時)に自分を解放(ある程度か)することができなければならない。

 他人はどうか解らないが、少なくとも私の場合は、自分への懐疑、罪の意識、劣等感、などの自信のなさが、抑圧されたり、抑制されたりしている(過去はもっと)。そして、その解放のやりかた、自然体になることはなかなかできないでいた。その状態では、自分は何をなすべきか?など、うまく考えられない。

 それではどのように解放していくのだろうか。ロジャースの6条件による傾聴、愛の理解を深める、エンカウンターやフォーカシングといった勉強が遠回りのようで近道なのだと思う。生き甲斐の心理学(植村高雄著 左の本の画像のところをクリックするとアマゾンに行き着く)を購入し、実際に地域の勉強会で師について勉強するのが一番である(私は他の方法を知らない)。

 そうは言っても、時間が無いという方にワンポイント。自分の沸き起こる感情(どんな暗いものでも、日記に書いたりして)に自己肯定的な意味付を考える習慣をつけてみたらどうだろうか。ある時、わたしは嫉妬する自分の感情を自己肯定的に理解し、救われた経験がある。

 そして、自分を解放し、自然体になることがだんだんできるようになってくると、世の中が違ってくる。自分から離れて行く人。反対に近づいてくる人。そんな現象に出会う。自分の個性の美、あるいは傾向と渇望が少しづつ現れてきているのかもしれない。

 逆に、他人の多様性の素晴らしさも見えてくる。海外で人は文化で違うなと想っていたが、日本人は昔は同じようだと思ったが、実は違う(自分以外の他人は驚きの対象)。

 まだ、生き甲斐の心理学を学び始めて11年。生意気なことは言えないが(言ってしまっているのも個性なのだろう。U先生ごめんなさい)、学べば学ぶほど自分が見えてくるようである。

新ライフデザイン 5/10

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バックボーンの哲学・宗教は?(新ライフデザイン 4/10)

2011-08-24 | 第三章「無意識の世界」

 日本でも最近FACEBOOKがはやってきているようだ。昨年FACEBOOKの設立者の映画を見て、今年の春頃から始めているが、最近凝り出してきた。mixiも5年くらいやっているが、何か基本デザインがFACEBOOKのが普遍性があり、特にビジネスなどで大きなインパクトがあるように感じる。

 FACEBOOKで特徴的なのは実名を使うことである。また、属性情報もきちっと掲載される。勿論掲載は本人の自由であるが、学歴職歴、人生観・哲学、宗教・信仰などもあるのだ。そして、そういったバックボーンの情報を掲載している方もいらっしゃる。そんなことで、何となく人となりがわかるのが素晴らしい。

 ブログは昨日までのところで、辞世を楽しく考えるために、バックボーンの哲学・宗教が大きな働きをしていることを述べてきた。

 さて、昨日は最近、唯識論を理解するために良い本があるということを知人から教えていただき、近くの府中図書館で入手することができた。とても良い本で、夢中で読んだが、たまたま今熱中している持統天皇が唯識論が繋がるかもしれないことに気がついた。

 持統天皇と縁の深い寺院はどこかご存知だろうか?東大寺、延暦寺、興福寺、唐招提寺・・・ではない。

 当時、遣唐使でもあった道昭をはじめとする多くの僧は唯識論で有名な法相宗のお坊さんであり、薬師寺と縁が深い。そして持統天皇も薬師寺と、天武天皇とご一緒に縁が実に深いのだ。昨日、持統天皇は天皇ではじめて火葬されたと述べたが。ちなみに日本で最初に火葬されたのは西暦700年の道昭だそうだ。

 唯識論は、私のような素人がなかなか簡単に理解できないような難解なものとされている。ただ、これは深層心理の研究と観ることもできる。最近流行りの現象学的でもある。深層心理学に縁の深いフロイトやユングもびっくりなのである。

 持統天皇は極めて困難な時代の中で、本当に立派に生き抜いて来たと思う(サッチャー以上という方がいらっしゃったが、豊臣秀吉より大物だと思う)。そのバックボーンに唯識論があったのだろうかと考えるのは実に楽しい。ひょっとしたら、生き甲斐の心理学のようなノウハウをご存知だったのかもしれない。

 もし、持統天皇が今生きていたら、FACEBOOKの信仰・宗教になんと書くのだろうか?

 新ライフデザイン 4/10

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自分を大切にしつつ辞世を想う!(新ライフデザイン 3/10)

2011-08-23 | 第三章「無意識の世界」

 以前死生学で有名な、デニケン神父さんの講演を拝聴したことがあるが、その中の楽しい一言が忘れられない。「人間の死亡率は100%です」。

 将来のことは、恐らく死の瞬間まで判らない(定まらない)ものだが、唯一判る(定まっている)ものは自分に死が必ず到来することだ。

 定まっているものから思考する。これは極めて大切だと思う。

 さらに、昨日の辞世の句ではないが、幸せな死(明るく希望を感じさせる死)というものがある。人それぞれ解釈は自由ではあるが、自分(身体、こころ、魂)を大切にしつつ、幸せな死=悔いのない人生を目指すのが一番ではないだろうか。

 幸せな死は、決して外部環境(死ぬときはだいたい苦しいと思う)に100%依存するわけではない。昨日の辞世の句の中でも、それを感じるものもある。極端だがアウシュビッツで殉教したある聖人の死も幸福だったようだ。

 また、健全な哲学・宗教(仏教でも神道でもキリスト教でも)への信仰が幸せな死と結びついていると思う(辞世の句を読んであらためて驚いたが)。信じて見える世界、見えなくなる世界の研究は心理学の研究分野の一つ(私が一番興味をもつ)であるが、この強烈な精神力動については余り語られない(不思議なのであるが)。

 話は変わるが、昨日も述べた持統天皇は愛する戦友でもあった天武天皇と共に合葬されているのだが、天武天皇が従来どおり、もがりの後に土葬されたのに対し、火葬で銀製の骨壷に入れられた。ご本人の強い意思を感じる。

 自分の定まった死からスタートする。メメントモリは悔いのない人生への、ワールド・スタンダードだと思う。

 さて、人はとにかく自分の死。何を成し、何に感謝し満足していくのか・・・

 それには、自分の生まれてからの傾向と渇望を熟視する必要もある。今日は雨ではあるが、しっとりと考えてみたい。

 新ライフデザイン 3/10

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今日は雨で涼しいですね。酷暑より良いようです!


より生きるための辞世の句!(新ライフデザイン 2/10)

2011-08-22 | 第三章「無意識の世界」

 人生を考えるというと、欧米はまず自分の死のことを考える伝統があるようだ。メメントモリ(ラテン語で死を想えという意味)である。私もある欧米系のトレーニングコースで、自分の死を思い浮かべるワークショップに参加したこともある。メメントモリは西欧の常識のようである。

 一方日本の伝統はどうなのだろうか?個人個人にメメントモリとつきつける文化ではないようであるが、やはり死を大切にしているようだ。辞世の句である。

 辞世の句は、死に至る途上の想いであり、死生観、自分の人生への想い、いろいろなものが現れているが、大きく分けて、①虚無的なもの ②明るく希望を感じさせるもの の二つに分けられるのではと思う。マスコミは暗いものがお好きなようで、暗い辞世の句がいろいろな意味で有名になっているが、②のカテゴリーに入るものも意外と多いようである。

 Wikipediaに代表的な辞世の句が沢山のっていた。実に重い内容が多いが、ちょっと思いつくまま私の独断と偏見で2-3分類してみよう。

①ちょっと虚無的なもの

  露と落ち露と消えにし我が身かなのことは夢のまた夢 -豊臣秀吉

  風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残を いかにとやせん -浅野長矩

  音楽が終わったら、明かりを消してくれ。-アドルフ・ヒトラー

②明るく希望も感じさせるもの

  極楽も地獄も先は有明の月の心に懸かる雲なし -上杉謙信

   願わくば坐して死なん -鑑真和上

  吾れ入滅せむと擬するは今年三月二十一日寅の刻なり。もろもろの弟子等悲泣することなかれ -空海

  あら楽し思いは晴るる身は捨つる浮世の月にかかる雲なし -大石内蔵助

    この世をばどりゃお暇(いとま)に線香の煙とともに 灰(はい)左様なら -十返舎一九

  いろいろ考えさせられるが、皆さんもお時間のある時にでもWikipediaで辞世の句を味わうと何かを見出すかもしれない。

 さて、最後に私が今勉強している、持統天皇のことに触れてみたい。持統天皇の和歌は、万葉集にも残されているが、百人一首でも有名(ちょっと文が変わっているが)である。

 春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山

 この歌は、いつごろ出来たのか定かではないが、元明天皇(女帝で息子の嫁の立場でもあった)も編纂に関与された可能性もあるそうで、持統天皇の最晩年の頃の歌ではないかと勝手に私は推察している。ひょっとしたら辞世の句のような存在ではなかったのでは。

 陰陽思想、その他からいろいろ読み解かれている句ではあるが、私は、何か大きな歴史の中の流れを季節感で歌っているのかなと思う。文武天皇に移譲し、やがて奈良時代が花開く(夏)。しかし、その先の秋や冬も見通すような知性も感じる。しかし、今ここの天女の衣のような、白い衣のゆらめきに天上の幸せも感じる。

 あまり知られていないが、持統天皇も秀吉と同じように、朝鮮半島の動乱に関与し敗北の辛酸を舐めている。それにもかかわらず、もし、これを辞世の句とすれば、秀吉の虚無的な句とあまりにかけ離れている。

 人生いろいろであるが、自分の人生の最後は、明るく希望を残せるものであったらなと思う。

 新ライフデザイン 2/10

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