田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

市民カレッジ 「蝦夷地から北海道へ」①

2009-05-20 22:19:17 | 札幌学 & ほっかいどう学
 1853年のペリーの浦賀来航より以前に外国船舶が北海道(蝦夷地)において接触があったなんて目からウロコでした。
 
 札幌市生涯学習センター(愛称:ちえりあ)を会場に開講されている札幌市民カレッジ「蝦夷地から北海道へ」の4回シリーズが始まりました。
 第1講は5月13日、「捕鯨船航海日誌のなかの蝦夷地」と題して藤女子大学の松本講師の講義がありました。

 松本氏は日本の近世、特に北海道が蝦夷地と呼ばれていた頃のことについて研究を深めているそうです。そこで当時蝦夷地に寄港した(しようとした)外国捕鯨船の航海日誌や証言から当時の蝦夷地社会を明らかにしようとしています。
 そこで今回は二つの事例をもとにお話いただきました。

 一つは、1846年に厚岸のウラヤコタンに捕鯨船レディ・ロウエナ号が船底の虫食いと浸水個所の修理のために寄港しようとします。
 ところが当時は鎖国時代であって、幕府は異国船に対しては「異国船打払令」を発していために警備を担当していた松前藩士はこれを押しとどめようとする。しかし、松前藩の警備体制は拙劣なため、捕鯨船からの火器の攻撃に対して為す術なく退却せねばならない状態だった。
 このことは、「ラッセル船長の航海日誌」、「国泰寺の『日鑑記』」を読み比べる中で明かである。

 さらにもう一例は、1850年に同じ厚岸のマヒロ沖で捕鯨船イートン号が座礁し破船します。
 ところがこの頃には幕府は異国船に対する扱いを「薪水給与令」に変えていたのです。
 そこで今度は松前藩は異国人に対して威厳を示す意味もあってか実力以上に背伸びして陣容を整えこれを迎えた。(迎えたといっても鎖国状態なので国内に入れる場合は捕虜として)
 異国人に対する扱いは丁寧であり、三度の食事はもとより、贅沢品まで供したようである。
 そして、警備の松前藩士たちは捕鯨船の船員たちのさまざまな持ち物に興味を示したことも乗組員の証言や国泰寺の日記から明らかになっている。

 こうした史実を史料をもとに読み解き明らかにしていく作業というのはなかなか興味深いものです。
 当時の厚岸地方の人たちが碧眼長身の外国人と遭ったときの驚きを想像すると大変なものだったのでしょうね。

(余話)
 新聞では大通公園で「ライラックまつり」が始まったと報じています。
たまたま昨日、大通公園を通ったところライラックがきれいに開花していましたので思わず足を停めてカメラに収めました。
 今回は紫色のライラックを、次回は白色のライラックの花をアップします。