第26回(2002年度)日本アカデミー賞のほとんどの部門の最高賞を受賞したという作品であるが、その評価も十分に納得できる素晴らしい内容であり、出演者たちの演技だった。監督・山田洋次氏の一つの到達点とも思える作品だった。
私が所属する「メダカの学校」では今季(2021年度後期)藤沢周平原作の映画を連続観賞することにしている。昨日(11月8日)はその第2回目として「たそがれ清兵衛」(2002年公開)が取りあげられた。
私は当初、映画は藤沢周平書き著した「たそがれ清兵衛」そのものを原作とした映画化と理解していた。だから私は原作を何度も読み返し観賞に臨んだ。果てして原作で10頁足らずしかない内容をどのように映画化するのだろうか、と…。
ところが山田監督が書き下ろした脚本は、藤沢周平が著した「武光始末」、「祝い人助八」、そして「たそがれ清兵衛」の短編3作を参考にしながらあくまで山田監督が再構成して創ったものであり、私としては「あれっ?」という思いだった。
しかし出来上がった作品は何の違和感もなく、藤沢作品に通底する下級武士の哀歓が哀しくも美しく描かれていた。
私が特に感情移入が出来た部分は、映画の後半に清兵衛(真田広之)が所属する海坂藩で世代交代があり、旧体制を率いてきた藩士の粛清が始まったが、その中の独りに一刀流の使い手・余呉善右衛門(田中泯)がいた。彼は切腹を命じられたがそれに抗して討手を惨殺するなど抵抗していた。その善右衛門を討つために清兵衛が討手に命じられた。清兵衛は何度も断るのだが家老はそれを許さなかった。許されないと悟った清兵衛は自らの意志を殺して命令に従わざるを得なかった。善右衛門も清兵衛も自らの意志とは関係なく、藩内の抗争の犠牲とならざるを得ない下級武士の悲哀が滲み出ていた場面だった…。
※ 井口清兵衛と余吾善右衛門の室内での壮絶な果し合いのシーンです。
宮沢りえ演ずる飯沼朋江は、そうしたストーリーとは直接の関係はなく幼馴染の清兵衛との淡い恋の相手として(とは云え、清兵衛は妻を亡くした下級武士であり、朋江は離縁して実家に帰った出戻り女として、しかも二人の家格には違いがあるという間柄である)描かれていたが、江戸末期の女を好演している。
※ 善右衛門との果し合いに赴く前に朋江に噛みを結ってもらう清兵衛です。
今回は観賞後に、私がコーディネーター役を担いながら互いの感想を交流し合った。そうすると、思いのほか各人の感想が分かれた。率直に山田映画を賛辞する人、細かなディールが気になり感情移入ができなかったと語る人、主人公たちより脇役に注目した人、等々、実に多様な見方をしていることが分かり興味深かった。
ある意味で万人の娯楽の対象である映画などは百人いれば、百通り感想があって良いのだと思う。これからも三月まで残り4本の藤沢周平作品の映画を観て楽しみたいと思っている。
※ なお、掲載の画像は全てウェブ上から拝借しました。