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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

「命の嘆願書」の著者が語る

2024-10-17 16:59:50 | 講演・講義・フォーラム等
 戦争とはなんと非人間的な行為なのか、私のような者が軽々しく云うべきではないのかもしれないが、敗戦国となった我が日本の旧ソ連抑留者の中に、仲間のために自らの危険も顧みず、抑留国政府に嘆願書を送りつけた三人の日本人がいた。著者はその埋もれていた事実を執念の追跡で事実を明らかにした。

   

 昨夜、自治労会館において今年度第1回目の「労文協リレー講座」が開催された。第1回目は「『命の嘆願書』が訴えるもの~モンゴル・シベリア抑留の物語」と題して、元読売新聞記者の井出裕彦氏が講師を務めた。

   
   ※ 講演をする井出裕彦氏です。

 「命の嘆願書」とは、第二次世界大戦によって敗戦となった日本軍の兵士は旧ソ連全域とモンゴルに57万5千人が抑留された。そして抑留中の死者の数が5万5千人にも上ったという悲惨な事実があったのだが、その中でモンゴル抑留者の中には日本兵のみならず民間人も多数含まれていたという。(モンゴル抑留者1万4千人中、約1割が民間人だったそうだ)
 著書はモンゴルに抑留された日本人のリーダー3人が、自らの危険も顧みず旧ソ連政府に嘆願書を送り付けたという事実があったことを知った。歴史に埋もれようとしていたその事実を著者は執念の追跡でそれを明らかにした書なのである。
 その著書を紹介する記事を転写する。

  飢餓、極寒、重労働──。
  「殺してくれ」凍傷に倒れた同胞は死を願った。
  生き延びるために、抑留国政府を相手に
  自らの危険を顧みず嘆願書を送りつけた三人の日本人がいた。
  本書は、国家機密の壁を越え、その闘いを緻密に追跡した
   元読売新聞記者による135万字の記録である。

 著者である井出裕彦氏は現役の読売新聞社時代にモンゴル抑留者のことを知ったようだ。そしてモンゴル外務省中央公文書館において、3人の日本人が作成した嘆願書の存在を確認したという。井出氏はこの事実を発掘することをライフワークとする決心を固め、新聞社を辞し、一人で取材を進め、3年間にわたる執筆作業によって135万字にも上る大書を上梓したのである。
 自らの危険を顧みず嘆願書を送りつけた三人の日本人とは、
 ◇満州熱河省日本人居留民団長 久保昇 氏
 ◇ウランバートル収容所日本人部隊指揮官 小林多美男 氏
 ◇日本人向け病院部隊の軍医 木本隆夫 氏  
の三人である。

   

 嘆願書は公文書館において9通が見つかったという。その内容は、久保氏の名による「民間人の抑留は国際法違反であり、捕虜の扱いを受けるのは了解できない」として早期の本国帰還を求めたもの。一方、小林氏、元木氏の嘆願書は、モンゴル到着後、日本人抑留者の間で相次いだ凍傷に対する緊急対策を求めたものだった。
 その見返りはやはり厳しく、3人は投獄されたり、帰国が他より遅らされたりした。特に小林氏は過酷な取り調べを受け「水牢」に4ヵ月以上も収容されたりもしたという。
   
※ 久保氏が提出した嘆願書の写しです。

 著者の井出氏は何度か公文書館に足を運ぶうちに抑留者の中で、現地で死亡した283人(その後の再調査でさらに分かった67人も加え)の「死亡診断書」、「死亡証明書」を見つけて、その写しを自費で入手し、著書にそれらの方々の氏名を公表し、ご遺族に死亡記録(写し)を無償提供することを現在も続けているという。

   
※ 135万字とは、新書版に換算すると実に30冊分に相当するという大書であるという。

 話は多岐にわたったが、講演の趣旨は以上のような内容だった。私はお話を聴きながら、確か小学校の低学年の頃だったと思う。ラジオから流れてくるソ連、中国、朝鮮などから引き揚げてくる人たちが帰港する「舞鶴港」からの実況中継していたアナウンサーの声が忘れられない。帰港する方々の数奇な運命など分からないまま、アナウンサーの方が興奮した声で語る声が耳に残っている。その中に、モンゴルで苦しまれた方もいらっしゃったのだろうか…。
 なお、講師を務められた井出裕彦氏は読売新聞社退社後、その理由は語られなかったが、現在は石狩管内の当別町に居を移して、当別町を拠点に活動を続けているそうだ。身近なところに、素晴らしい生き方をされていることを知り、大いに刺激された。

 ※ 実は、私が井出氏のお話を伺うのは7月24日に続いて2度目である。