田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

札幌でしかできない50のこと〔31〕ラーメン いそちゃん

2021-01-21 18:01:26 | 札幌でしかできない50のこと

 「えーっ!?これが札幌を代表するラーメン?」と正直思った。それほど特徴がなく、あっさりとした味なのだ。しかし、食べ進むうちに「なぁ~るほど」とも思ったいそちゃんの塩ラーメンだった。

 「札幌でしかできない50のこと」№31はラーメン「いそちゃん」である。ガイドマップ上では№2にリストアップされている。そこには「深夜の誘惑に負ける」と題して次のような紹介文が載っている。「すすきのの新ラーメン横丁内にあるラーメン店。札幌らしい味噌バターコーンラーメンもあるが、人気は『中華ネギラーメン塩』。朝5時まで(日曜日は翌3時まで)オープンしているので、飲んだあとには行くしかない。」とある。

   

   ※ ススキノのメイン通り(国道36号線)に面している新ラーメン横丁です。

 ラーメンいそちゃんは私にとって鬼門だった。というのも開店が午後8時と遅いうえ、店はススキノのど真ん中とあって、夜間に私のような年寄りが近づくところではないと、ある種諦観していたのだ。しかし、このご時勢である。「もしかしたら?」と思い、昨日問い合わせてみると、なんと!午後3時から開店しているというではないか!そこで早速、本日訪れることにしたのである。

   

   ※ ビル内にラーメン店が一列に並んでいました。「いそちゃん」は一番奥でした。 

 新ラーメン横丁はメインストリートの国道36号線に面しているので分かりやすい。(元祖さっぽろラーメン横丁はやや分かりにくい)横丁には5店ほどが入居しているようだが、いそちゃんは横丁の一番奥に位置していた。

   

   ※ いそちゃんの店の前です。店外にお客さんが並ぶ時もあるようです。(椅子が)

   

   ※ いそちゃんのおすすめメニュー。中華も人気のようです。

 私が訪れた時は開店早々だったので、もちろんお客さんは誰もいなかった。注文したのは紹介文でもお勧めの「中華ネギラーメン塩」(600円。今どき安い)である。少し時間をおいて出てきた「中華ネギラーメン塩」はやや小ぶりの丼に各種トッピングとともに麺が入ったラーメンが出てきた。トッピングはチャーシュー、メンマ、ナルト、海苔それにもちろん刻んだ長ネギが載っていたが、きわめて一般的なラーメンのように思えた。麺はやや固茹でだったが、スープはきわめてあっさりしたものだった。私は一口食して「えーっ!?これがリストアップされたラーメン?」と正直思った。そして「札幌にはまだまだ特徴のある人気店がたくさんあるのではないか!」と思った。しかし、食べ進むうちにこのいそちゃんがリストアップされた理由のようなものが分かるような気がしてきた。店が開いているのが深夜である。ということはススキノで飲んだ人たちが「〆の一杯」として食するには、札幌ラーメンの特徴の一つである濃厚なラーメンよりは、あっさりした塩ラーメンが好まれるということなのではないかと…。お店の主人とちょっと親しくなっていたので、その旨を告げると、主人も「そのようですね」と答えてくれた。

   

   ※ 店内は開店直後とあって閑散としていました。

   

   ※ これが噂の(?)の「中華ネギラーメン塩」です。

 ラーメンいそちゃんは呑兵衛さんから好まれているラーメン店に違いない。

 なお、いそちゃんはラーメン以外の中華のメニューも人気だという。

  

  ※ やや固茹での麺でした。

                                 

《ラーメンいそちゃん 概要》

〔住  所〕札幌市中央区南4条西3丁目 第3グリーンビル

〔電  話〕011-533-4511

〔開館時間〕火~土 20時~翌日5時

      日・祝 19時~翌日3時

 ※ 但し、現在当面は15時~20時で営業

〔定休日〕 月曜日

〔座席数〕 16席(カウンター席6、テーブル席10)

〔駐車場〕 無                                  


佐瀬稔著「狼は帰らず -森田勝の生と死」

2021-01-20 18:33:09 | 本・感想

 門外漢の私は「森田勝」という登山家の名を本著に出合うまで知らなかった。“狼”とも呼称された森田は何かに取り憑かれたかのように岩壁に挑み続けた。常人にはなかなか理解できない彼の思いとは?そして森田の先に待っていたものは?

 とうとう魔界に足を踏み入れた気分である。読書後の感想、あるいは書評なとどいうのは、その人の読解力とか、能力とかがもろに表出されるものと警戒し、けっして近寄りたくはなかった。さらには私には人様に誇れるほど読書の量が多いわけでもない。

 あゝ、それなのに…、とうとう魔界に足を踏み入れることになってしまった。これもコロナ禍の影響の一つである。

 加齢と共に徐々に外(戸外)へ出てゆく機会も減ってくるのかもしれない。あるいは魔界に足を踏み入れることも必然だったのかもしれないと観念し、そろりそろりと足を踏み入れようかな、と考えた次第である。

          

 数少ない登山文学に接して、「登山文学とは、ある意味ノンフィクションの極致かな?」とも思えるのだが、どうだろうか?当然反論は覚悟のうえで述べてみた。私がこれまで接してきた登山文学の場合、生死をかけてのギリギリの状態の、しかも事実の描写が読む者に手に汗握る興奮を与えてくれると思うからなのだが…。

 本書の主人公・森田勝も常人はおろか、山仲間からも困難とされる岩壁に次々と挑んだ姿を描写するそれはノンフィクションの極致なのでは?と思わせてくれた。

 本著における森田は中学卒業後、金型工として職を得るが、当時若者の間でブームになりつつあった登山を始めるようになった。そして社会人の登山団体「東京緑山岳会」に入会し、本格的に登山を始めるのだが、そこからはのめり込むようにクライミングに熱中しだす。生活は登山中心で、仕事の方は金型工としての腕はあったが、職場を転々としながらの生活となっていった。山岳会には所属していたものの、組織的な行動は苦手で一匹狼的に谷川岳の難壁に登り続け、やがてクライミングの世界で名を知られる存在となっていく。やがて海外へもそのフィールドを広げ、アイガー北壁にも挑み登頂を果たした。

          

 そうした実績から日本の山岳会が組織したエベレストやK2の登山隊に選抜されたが、組織に馴染むことができずに苦い思いを残すことになる。

 森田も40歳を超え体力的にも限界を迎えるも、なお意欲は衰えず1979年(森田42歳時)ヨーロッパアルプスの難峰グランド・ジョラス北壁の厳冬期の日本人初登頂を目ざした。しかし、彼は滑落し骨折を負い挑戦は失敗に終わった。日本人初登頂は当時急速に頭角を現してきた長谷川恒夫にその座を譲ることとなった。

 それでも彼のグランド・ジョラスへの熱意は冷めなかった。翌1980年、前年の骨折で脚に入ったボルトを入った中で再度挑戦したのだが、またまた滑落し帰らぬ人となった。

          

 私が知るかぎり、多くの登山家が山で命を落としている例が多い。森田とグランド・ジョラスの先陣を争った長谷川恒夫も1991年、ウルタルⅡ峰で雪崩に巻き込まれ遭難死している。いったい何が彼らをそうさせるのだろうか?そこには私のような凡人が想像すらできない魔力が山には潜んでいるのだろうか?

 生と死のギリギリの境で格闘する彼らは、おそらく私たちには計り知れないカタルシスを感じているのでは、とも思われるのだが…。

 本著において著者の佐瀬稔氏は森田の心情に寄り添いながら、森田の軌跡を克明に辿っている。淡々と、しかし克明に書き綴る佐瀬稔の筆致には読む者を飽きさせず、森田勝の世界に惹き込む力があった。

 


映画 レ・ミゼラブル(2012) №298

2021-01-19 16:58:51 | 映画観賞・感想

 数多く存在する「レ・ミゼラブル」の映画であるが、本作は世界中でロングラン公演されたミュージカルを映画化したものである。ミュージカルのためか6月暴動の際の「民衆の歌」の歌声が強く印象に残ったが、主題は主人公ジャン・ヴァルジャンの愛の物語である。

        

 「レ・ミゼラブル」はフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーが1862年に著した大河小説である。その人気の高さ故、世界各国で何度も映画化された作品である。また、ミュージカルとしても各国でロングラン上演されているという。そんな中、2012年にミュージカルの手法を用いた映画として本作はアメリカ・イギリスの合作映画として制作された。

 ストーリーの細部は原作と違っている点もあるが、おおよそにおいて原作をなぞったストーリーとなっている。本作がミュージカルの映画化ということでミュージカルファンにとってはキャストも豪華だったことも併せて評価が高いようである。反対にセリフのほとんどがキャストの歌声ということで抵抗のあるファンもいるようである。私は特別にミュージカルファンということではないが、キャストの歌声が気になるということはなく、自然にストーリーの中に入っていくことができた。

 原作で著されている1810年代のフランスというと、王政が倒され、七月革命は成ったものの世の中は混沌としており、混乱と矛盾が蔓延っていた時代である。そのような中で物語の主人公ジャン・ヴァルジャンは姉の子どもたちのために、たった1本のパンを盗んだ罪で19年間も刑務所に服役された。

 そのことでジャン・ヴァルジャンは人間不信に陥るのだが、教会の司教の崇高な人間性に触れたことによって、人間としての良心に目覚めて一人の少女を救うために全霊を捧げるというストーリーである。

     

 私がリード文で民衆の暴動の際に歌われた「民衆の歌」が印象的だったと記したが、トリコロールカラーのフランス国旗を打ち振りながら群衆が歌う歌は力強く伝わり、人々を鼓舞する力に溢れているように聴こえてきたのだ。しかし、暴動そのものは民衆に支持されることなく失敗に帰してしまう。その暴動を扇動する学生の一人と、ジャン・ヴァルジャンが救った少女が恋仲となり、ジャン・ヴァルジャンにとって複雑な気持ちを抱くものの結局は二人の恋を温かく見守り、彼ら応援するのだった。

     

 レ・ミゼラブルとは、「悲惨な人々」と訳されるようであるが、わが国では「あゝ、無情」と翻訳されて著作が出版されたり、映画化されたりしていた。

 1800年代の混とんとするフランス国内における庶民の生活はまだまだ虐げられた悲惨な生活を送らねばならなかったようだ。その一人がジャン・ヴァルジャンだったのだが、そうした環境下におかれた彼が一人の司教の人間性に触れ、他に愛を捧げられるような人間となっていく様を描いた物語だと理解した。

 映画「レ・ミゼラブル」(フランス映画)は、またまた現代版としてリニューアルされ今春2月28日より全国上映されるという。

 これほど何度も何度も映画化されたり、ミュージカルで上演されたりする理由は何故なのだろうか?主たる要因はもちろん原作の力なのだろうが、矛盾に満ちた世の中は決して過去のものではなく、現代もまた多くの矛盾を抱えていることが背景にあるのではないだろうか?そうした中にあって、「愛」の強さ、尊さが人々の心を打つということなのだろうと私は思ったのだが…。

 なお、映画は1月11日(月)NHK・BSプレミアムで放送(放映?)されたものである。

                                                                                    

 


SAJ(全日本スキー連盟)の指導員…………でした…

2021-01-18 17:04:04 | スポーツ & スポーツ観戦

 人が輝いていた時代の話をし始めたり、自分の成功噺をしたりすることは、その人が老いてしまったという証拠なのだろう。私は十分に老いてしまったようだ。私の若い時代の話をしようと思う。耳を塞いでお聞きいただきたい。

 ブログを毎日投稿することを唯一無二の目的としている私にとって、最近の話題枯渇は深刻である。コロナ禍が恨めしい。そこで思いついたのが回顧噺である。

 2日前の拙ブログで孫と「朝里川温泉スキー場」へスキーに行った話を綴った。その際、「朝里川温泉スキー場は私がスキー指導員検定に合格したスキー場である」と書いた。

   

 ※ 指導員検定時に私が付けていたゼッケンが奇跡的に保存してありました。

 私にとって20代~40代にかけて冬と云えばスキー一色だった。私は拙ブログにおいてもスポーツ好きを広言して憚らない。だから若いころは色々なスポーツにトライした。しかし、他人と比べて体格や体力に劣る私は、どのようなスポーツに挑戦しても他者に優ることはなかった。そうした中で出会ったのがスキーだった。スキーならば多少の運動神経と巧緻性さえあれば、あとは努力次第で他に伍していけるのではないかと思った。さらにスキー技術を習得すれば、子どもたちの教育にも役立てることができるのではないかと考えた。

 それからはスキー街道まっしぐら…。その頃の話をすると、多少誇張しているところもあるが、冬のボーナスの半分は毎年スキーにつぎ込んでいた。北海道と云っても道東は積雪が遅く、年末年始は旭川方面まで遠征してスキーに打ち込んだ。結婚し、子どもができても年末は家族三人で比布スキー場に宿泊して技術を磨いた。

 本格的にスキーに取り組んだのが23歳と遅かったこともあり、準指導員に合格するまで時間がかかり、合格したのは30歳の時だった。

 そしてそれから3年後の1979(昭和54)年、小樽市の朝里川温泉スキー場において指導員検定を受験した。日程は3月1日~4日までの4日間日程だったが、幸いにして合格することができた。

         

         ※ ちょっと歪んで写ってしまった合格証です。

 以来、冬の週末はスキー指導に忙殺された。先述したように道東は雪が少ないこともあり、当時はまだまだスキー指導者が少なかった。そうしたこともあり、指導が地元だけにとどまらず他市町村からの要請を受け指導したり、バッジテストの検定をすることもあった。30代、40代の冬はスキー一色に染まって過ごしたのだが、本職の方で管理職になったころから夜間や週末に指導に出かけることが徐々に困難になり始めた。そのことを理解してくれる地元スキー協会もあれば、まったく一兵卒としてスキー協会に協力することを強制される組織もあった。転勤族はそこが辛いところである。やがて私は地元スキー協会に所属していることが苦痛になり始め、あんなに好きで熱中したスキー組織から離れることになってしまい、今日を迎えている。

      

 スキーの本場スイス・フランスのヨーロッパアルプスを滑ることもできた。家族でカナダのスキー場で滑る体験もできた。スキーには思い出がいっぱいである。

 若き日の甘酸っぱい思い出を振り返ってみた…。私は十分に老いてしまったようだ…。

 

※ モノを整理できない自分が、指導員検定当時のゼッケンや合格証を保存していたことは奇跡に近いことだ。珍しいこともあるものである。                 


フットサル エスポラーダ北海道惜敗!

2021-01-17 19:54:26 | スポーツ & スポーツ観戦

 数字だけを見ると2対3と惜敗だが、試合展開は北海道ファンとしてはなんとも盛り上がりに欠ける試合展開だった。観客を入れての試合は久しぶりだったという。その中でエスポラーダの選手たちは健闘したのだが僅かに及ばなかった。

 久しぶりのスタジアムでのスポーツ観戦だった。といってもチケットを購入しての観戦ではなかった。「中央区民応援デー」に応募して観戦招待券を入手しての観戦だった。

 時間に余裕をもって会場の「北海きたえーる」(北海道立総合体育センター)に向かったのが良かった。北海道がコロナ感染症対策のために「集中対策期間」を2月15日まで延長したことに対する措置だろうか?入場者全員に会場の入る前に座席を指定する措置が講じるために会場前が大渋滞となっていた。(以前はエリアだけ決められていて、座席は自由に選べた)私は試合開始40分前に着いたのだが、その手続きに時間を大きく取られ、入場できたのは試合開始直前だった。私の後にも相当長い列が出来ていたので、試合開始に間に合わなかった人たちが多数出たのではないだろうか?もう少し早く処理できる方法がなかったのか?ちょっと残念な措置だった。

  

  ※ 会場に着くと、座席指定の事務処理のため写真のような長蛇の列ができていました。

 本日の試合の対戦相手は「ボルクバレット北九州」で、対戦前はエスポラーダの10位に対して、北九州は9位と共に下位に沈んではいるものの当面のライバルと云って良い相手だった。(Fリーグには全12チームが参戦している)

    ※ 試合開始前のセレモニー時、正面スタンドはほとんど空席でした。後から埋まりましたが…。

 試合の方は、前半開始間もなく相手シュートがエスポラーダの選手にあたりオウンゴールという不運な得点を献上してしまった。その後、北九州が圧力をかけて攻め立てたがエスポラーダは粘り強く守って0対1の緊張した試合が続いた。前半も残り2分、エスポラーダがワンチャンスを生かして待望のゴールを奪い、会場が大いに沸いた瞬間だった。しかし、それも束の間、その直後に北九州にゴールを許すという残念な流れとなって前半が終了した。

  

  ※ エスポーラーダの選手たちの名が入った垂れ幕が会場内に掲げられていました。

  

  ※ ハーフタイムでは可愛いチェアガールのダンスが披露されました。

 後半、試合はなんと前半と同じような展開となってしまった。後半は両チーム譲らず膠着した試合展開だったが、そうした中の後半14分、エスポラーダに待望の同点弾が生まれ、会場は逆転を期待して大いに盛り上がったのだが、その直後に前半の鏡写しのようにまたまた北九州に得点を許してしまい、万事休すだった。

  

  ※ エスポラーダが得点し、喜び合う選手たちです。

 つまり得点は2対3と1点差の僅差だったのだが、試合のほとんどは北九州がリードしているという試合展開に会場は盛り上がりようがなく対戦を終えたという感じだった。

  

  ※ 残念 !そして惜しい試合結果でした。

 私はこれまでフットサルの試合を何度か観戦しているが、コートが狭い分だけ動きが激しく目を離せない試合展開はなかなか興味深い。ただ、床面が固いため転倒などをすると怪我をするリスクを負っているようだ。本日の試合でも固い床に転倒することで怪我をして途中交代する選手が何人かいた。 

 エスポラーダ北海道の選手は、ほとんどの選手が仕事とフットサルを両立させながら選手生活を送っていると聞いている。毎日仕事を終えた夜間に練習をしているようだ。大変な選手生活かと想像するが、選手として大成することを夢見て頑張ってほしいと思いながら会場を後にした。


孫娘と初滑り in 朝里川温泉スキー場

2021-01-16 20:09:52 | スポーツ & スポーツ観戦

 お正月に孫娘(小5)のスキーが上達したと聞いた。そこで「爺ちゃんとスキーに行こうか?」と問いかけたところ「行く!」と元気よく返事が返ってきたので、本日朝里川温泉スキー場に出かけた。私にとっては今シーズンの初滑りだった。

   

 当初、私の思いでは孫娘と二人で行こうかな?と思っていた。ところが話が徐々に膨らみ、結局今日は私と妻、そして息子と孫娘という4人でのスキー行となった。

 近年の私はスキーからすっかり遠ざかり、滑っても年に1~2度であった。だから孫娘と一緒にスキーをすることなど考えつかなかったのだが、お正月に我が家に息子家族が来た時にスキーの話になって、俄然私の中に眠っていた虫が起き出したのだった。「そうだ!成長した孫娘とスキーを楽しむのもいいなぁ」と…。

 そこで目ざすゲレンデは「朝里川温泉スキー場にしょう!」と内心決めた。その理由は、今から42年前の昭和54年、私は朝里川温泉スキー場で全日本スキー連盟の指導員検定に合格したという思い出深いスキー場だったからだ。(※ 現在は活動していないため、指導員登録は抹消しています)

   

 我が家からおよそ1時間、小樽市に近い朝里川温泉スキー場は生憎の雪模様だったが、スキーを楽しむには問題の無いコンディションだった。

 孫娘は習いものを終えた後に合流するとのことで、まずは先着した私と妻で滑った。妻は若いころは盛んにスキーに興じていたが、このところはすっかりご無沙汰で10数年ぶりのスキーだったのだが、意外や意外!しっかりと体が滑りを憶えていて10数年ぶりというのが信じられないほどスムーズに滑り降りてきた。私の方は?というと、こちらも昔の滑りを憶えています、といった滑りだったのではないか?(自分の滑りは客観的に見ることができない)

 妻と数本滑っていると、息子親子が到着した。4人で一緒に滑った。初めて見る孫娘の滑りはなかなかスムーズに滑ることができ、いわゆるパラレルスキーに今一歩という段階であった。学校スキーと、家族で年に数回のスキー行では十分でないかと思われた。ただ経験が少ないだけに急斜面は恐怖感が先に立つようだったが、これも経験を積むことで解消されるだろう。私が滑られるうちに伝えることができればと思っている。

   

  ※ スキー場の最高部から撮った一枚だが、晴れていれば向こうに小樽湾が見えるのだが…。

 40数年ぶりの朝里川温泉スキー場は記憶に残っているレイアウトと変わりはないようだった。ただ、最上部のリフト(3本目のリフト)が当時架かっていたかどうか記憶が怪しい。

 ここ数年、年に1~2度のスキー行は単独行ばかりで楽しさに欠けるところがあった。しかし、本日のように知り合いと一緒のスキーは楽しさがまったく違うことに改めて気づいた。できれば妻や息子、そして孫娘、あるいは友人・知人を誘って楽しむことができれば、と思っている…。  

 

        

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札幌でしかできない50のこと〔30〕Café 森彦

2021-01-15 17:03:39 | 札幌でしかできない50のこと

 札幌で一押しのCaféと云ったら多くの人がこの森彦を押すだろう。それほど、そのコンセプト、そしてこだわりのコーヒーは多くのファンをつかんで離さない。久しぶりに「森彦」本店を訪れてみた。

   

   ※ いかにも古民家然とした佇まいです。

  「札幌でしかできない50のこと」№30はCafe「森彦」である。ガイドマップ上で№18にリストアップされている。そこには「コーヒーは古民家で飲む」と題して次のような説明文が載っている。「木造民家を改装した、自家焙煎コーヒーのカフェ。築70年に近い建物の内装は、引き戸や梁など当時の面影が残っている。ネルドリップで一杯ずつ淹れるコーヒーには、チーズケーキなどのデザートメニュー夏やクロックムッシュを合わせたい。」とある。

   

   ※ カフェと暖簾というミスマッチ(?)にもこだわりを感じます。

 私はこの「森彦」には、過去に盛んに市内のCafé巡りをしていたときに訪れたことがあつた。(2010年7月)そのころは、森彦の系列店である「D × M」、「ATELIER Morihiko」、「Plantation」などを訪れたことを憶えている。(「D × M」は閉店した?)

 久しぶりに訪れた「森彦」だったが、その印象は変わってはいなかった。マンションやコンクリート造りの住宅に囲まれてひっそりと建つ古民家…。店内には「森彦」を語る一文がメニューの中に綴じられていた。その文章を写してきたので紹介したい。

   

   ※ 昔懐かしい足踏みミシンの上部がテーブルの上に飾られていました。

 「1996年、小さな小さな木造民家から全てのストーリーが始まりました。春、クロッカス。夏、蔦翠。秋、野葡萄。冬、況んや雪華。四季折々に変化をみせるこの小さな民家から珈琲の馥郁たる香りが静かに流れます。ミニマムであることで到達できる豊穣珈琲への思慮を発酵させ一杯の価値を高め続けるに相応しい子の空間を味わってください。」

   

   ※ こちらは足踏みミシンの台の部分をテーブル代わりに使用していました。

とあった。やや自己陶酔的にも聞こえてくる一文だが、店のコンセプトを良く表現しているともいえる。

   

   ※ 古民家には当然のように薪ストーブが似合います。

 本日、午後2時近くに入店したのだが、希望した2階席は満席ということで1階のテーブル席となった。平日にもかかわらず若い人を中心にして人気らしい。私は着席し、森彦本店限定の「森の雫」(税抜き680円)と名付けられたコーヒーと「円麦」(このお店も「札幌でしかできない50のこと」にランクインしている)さんのパンを使った「チーズトースト」(税抜き550円)をオーダーした。

 店内は古いミシンがさりげなく置かれていたり、ミシン代がテーブル代わりに代用されるなど、そのセンスが光るレイアウトが若い人たちをくすぐるようだ。

   

   ※ コーヒー「森の雫」と「チーズトースト」です。

   

   ※ スプーンにもなんとなくこだわりが…。

 「森の雫」である。私は久しぶりに本格的なコーヒーを味わった気分だった。そのコク、奥深さ、深く納得できる味だった。このところ私が入るカフェといえば安価が売りのDOUTOR Coffeeばかりだから無理もない。

 こだわりの「森彦」は「森の雫」についても一文が添えられていた。そこには…、

「本店だけのスペシャルブレンド。モカ、マンデリン、コロンビアを使用。アロマと甘味のあるコク。コーヒーの原点を感じさせるコーヒー。」とあった。

 チーズトーストも十分に満足できる美味しさだった。

 現在、「森彦」は市内に系列店14店を出店しているようだ。札幌を代表するカフェとしての地位を揺るぎないものにしているようだ。

                                  

Café 森彦 概要》

〔住  所〕札幌市中央区南2条西26丁目2-18

〔電  話〕011-622-8808

〔開館時間〕平祝日 10時~21時

      土日   8時~21時

〔定休日〕 無(但し年末年始休業有)

〔座席数〕 16席(2階席あり)

〔駐車場〕 有(他店舗との共用9台)


1月14日は私のブログ記念日

2021-01-14 14:03:18 | その他

 私のブログ誕生日は2006年5月6日である。しかし、私としては2008年1月14日をブログ記念日とする思いが強い。というのも、2008年の1月14日から今日まで一日も欠かさず連続投稿を続けているからである。以来13年の月日が経った…。

 私がブログを始めてから16年が経過しようとしている。2006年5月というと、私が退職する1年前だった。当時はまだ毎日投稿するというスタイルではなく、話題ができた時に投稿するという形で、2006年5月は12日、6月は11日、7月は10日ほど投稿するという程度だった。2006年、2007年はそうした形での投稿が続いた。

 そうした中、他のブログを拝見すると連日投稿をしているブログが目に止まった。それを見て「私も連日投稿を目ざそう!」と決心したのが2008年の1月14日だった。

 以来、内容はともかくとして私は連日投稿を唯一の目標として今日までブログ投稿を続けてきた。ただ、正確には、2009年11月の13日から16日までの4日間休載している。これは私が突然の体調不良に陥り、立ち上がることもままならなかったことから第二の職場を欠勤しなければならなくなり、やむを得ず休載したものである。

 それ以外は、雨が降ろうが、槍が降ろうが内容は度外視して投稿を続けてきた。この間、道外を旅行中はもとより、二度の海外旅行(アメリカ合衆国、ニュージーランド)においても現地から投稿を続けた。

 内容は度外視して、と記したが数多い投稿の中にはごく稀に快心の文章を綴ることができたこともあった。そうして振り返った時、まず最初に頭に浮かぶのは2014年12月26日に投稿したMARUTA S Hey Judo (マルタのヘイ ジュード)」という投稿である。

 某テレビ局の特集番組と私の体験が見事にシンクロした瞬間を綴ったものである。本日は私のブログ記念日を彩るものとして、その投稿を再掲したいと思います。若干長い文章ですが、お付き合い願いたいと思います。

 

MARUTA S Hey Judo (マルタのヘイ ジュード)

 マルタは歌う。「人生は素晴らしい 人生は残酷 でもジュード 自分の人生を信じなさい」と…。ヘイ ジュードの原曲とはまったく違う意味のヘイ ジュードが1960年代末、チェコスロバキアにおいて人々に熱狂的に受け入れられたという。 

 今年の春だったと記憶している。
 NHKTV・BSプレミアムのNKHアーカイブスで2000 ハイビジョンスペシャル 世紀を刻んだ歌 ヘイ ジュード 革命のシンボルになった名曲」と題する番組が再放送された。
 その番組を視聴した私の中に大きな衝撃が走るのを覚えた。そして私の中にある記憶が蘇ったのだった…。

 「ヘイジュード」はもちろんあのビートルズの名曲中の名曲である。この曲は、1968年にジョン・レノンと当時の妻・シンシアの破局が決定的になった頃、ジョンの長男ジュリアンを励ますためにメンバーのポール・マッカートニーが作ったとされている曲である。
 ところが番組では、当時チェコスロバキア(以後、チェコと呼称します)国内で国民的人気を誇っていたMARUTA KUBISOVA(マルタ・クビジョバ)が原曲とはまったく違った意味の歌詞を付けて歌い、人々から熱狂的に支持されたという。

 熱狂的に支持されたわけ(理由)を理解するには当時のチェコがおかれていた状況を説明する必要がある。
 第二次世界大戦後、チェコには共産党政権が誕生し、当時のソ連を中心としたいわゆる共産圏の一国としての道を歩んでいた。共産圏国家の常として、西欧の文化を敵視して、人々の自由な表現活動を抑圧していた。
 そうした中、1968年チェコの共産党第一書記としてドブチェク氏が登場し「人間の顔をした社会主義」をスローガンに自由改革路線を推し進めた。いわゆる「プラハの春」である。文化人たちはそれまでの抑圧から解き放たれたかのように創作活動に励み、人々はそれを享受していた。
 そのようなときに登場したのがマルタ・クビショバだった。
 彼女は自分の意に沿わぬ形で歌手となったのだが、その素質を認められ国民的なトップスターとなって活躍していた。当時の彼女の動画を見ると、小悪魔的な美貌とハスキーヴォイスで、人気が出るのが当然という感じで、国民のアイドル的な存在だったようだ。
          
          
          ※ マルタが活躍していたころの写真です。

 こうしたチェコの状況を共産圏の盟主であるソ連は見過ごすわけにはいかなかったようだ。1968年8月21日、突如としてソ連軍60万の兵士がチェコの首都プラハに侵攻し、あっと言う間に「プラハの春」は終焉してしまった。
 
 人々の多くは抵抗したものの、圧倒的な力の前にどうすることもできなく、やがてソ連の意向を受けた共産党政権に屈服せざるをえなかったようだ。
 しかし、マルタは違った。彼女は“闘う道” を選んだのだ。それは彼女のその後の苦難の道の始まりでもあった。

 そうした中でチェコ版「ヘイ ジュード」は産まれた。
 1968年10月、マルタはアルバム「ソング・アンド・バラード」のオープニング曲にチェコ国民に勇気と希望を与えたいと、チェコ人だけに分かる暗号のメッセージを歌詞に込めてビートルズの「ヘイ ジュード」をカバーしたのだ。
 翌1969年10月にはその「ヘイ ジュード」をシングル・カットして発売するとチェコ史上空前の60万枚を売り上げる大ヒットとなったという。それはやがて発売禁止となってしまうが、地下で密かに歌い継がれたという。

             
      ※ 2014年当時のマルタが「ヘイ・ジュードー」を歌っている様子です。    

 そんな彼女を共産党政権が見逃すはずがなかった。
 懸命に闘い続けた彼女だったが、とうとう1970年1月、彼女は音楽界から永久追放されてしまった。
 その後の彼女の生活は悲惨の一語だった。歌うことを奪われたマルタは明日の生活にも事欠くような日々が続いたという。そうした厳しい状況の中でも彼女は志を捨てることなく、地下で続く抵抗運動のシンボルであり続けたそうだ。そして、彼女のメッセージである「ヘイ ジュード」も忘れることなく、密かに歌い継がれていったという。

 時が流れ、1989年11月10日、東西冷戦の象徴であった「ベルリンの壁」が民衆によって破壊されるという衝撃的な事件から、わずか一週間後の1989年11月17日、チェコにおいては共産党支配を倒す民社化革命、俗にいう「ビロード革命」が起こったのだった。
 その11月17日、民主政権誕生を祝うバツラーフ広場(国会前の広大な広場)に集まった100万の民衆の前に姿を現したマルタは20年ぶりに「ヘイ ジュード」を歌ったという。
 それはマルタにとって、そして国民にとって忘れがたい感動の場面だったことだろう…。

 さて、私の中にある記憶が蘇ったとは…。
 私は1968年6月1日、日本を発ちヨーロッパを彷徨していた。ソ連軍がチェコに侵攻した1968年8月21日にはスウェーデンの片田舎のレストランでアルバイトをしていて、その事件のことを知った。8月、9月とスウェーデンに滞在した後、私は北欧から中欧、南欧へ旅立った。
 そして10月17日にはベルリンに入って、「ベルリンの壁」の側に立ち、その無味乾燥な、しかし戦慄を感じさせる壁を呆然と眺めたのだった。

 「チェコへ行ってみたい。でも、ソ連軍侵攻から2カ月にも足りていない段階ではとても無理だろうなあ…」と考えていた。ところが、ベルリンのユースホステルで知り合った30代のイギリス人が「2日後にチェコに行くが、お前も一緒に行かないか」と誘ってくれたのだ。断る理由はない。急いで手続きを済ませ、2日後、彼と一緒に東ベルリンから列車でチェコのプラハに向かったのだった。

 10月19日、私たちはプラハに着いた。
 プラハの街は美しかった。古都然とした街のたたずまいには訪れるものを魅了する美しさがあった。
 しかし、街中には銃を携えたソ連兵が闊歩していた。バツラーフ広場の前に建つ国会議事堂の壁には、真新しい弾痕の跡が痛々しかった。

     

 ※ 私がプラハを訪れた時は、こうしたビルの壁にソ連軍の砲弾の痕が痛々しく残っていました。

 プラハには確か5日間ほど滞在したが、一緒だったイギリス人はちょっと軽薄なところがあり、チェコ人に向かって街中で事件のことを聞き質そうとするのだが、彼らは秘密警察への密告を恐れ誰もが黙して語らなかった。
 ところが、私たちが市内のビアホールに入ったときだった。多少酔いが回ったチェコの人たちがようやくその本音を覗かせてくれる場面に立ち会うことができ、彼らの心の底にある怒りと、やるせない哀しみを見た思いだった。

 私はプラハで見聞きしたことを自宅あてに絵葉書を書き送っている。その葉書を引っ張り出してみたら、そこには…。
 「(前略)今日でチェコのプラハでの滞在は三日になります。プラハはとても美しい街、そして歴史のある街です。チェコ問題から二か 月過ぎた今日、プラハの街は元に復した感があります。ただ街のいたる所に、真新しい弾丸の跡が見え、ソ連兵が我が物顔でかっ歩して いる光景は、直接関係のないボクでさえ怒りを感じます。そしてプラハ市民の心中を思うと耐えられない気持ちです。(後略)」
と記されていた。

 私たちがチェコのプラハに滞在した1968年10月、マルタ・クビショバはチェコ国民に勇気と希望を与えたいと「ヘイ ジュード」を含めたアルバムを世に出した時期でもあった。そのことを知ったとき、私の中で彼女の「ヘイ ジュード」はとても普通の歌ではない、特別な歌であることを悟ったのだった。
 私が体験したプラハの戒厳令下のような状況の中で、彼女は敢然と抵抗歌「ヘイ ジュード」を世に出したのだと…。マルタの強い意志を感じる「ヘイ ジュード」を私は何度も何度も聴き返した。

 ここで彼女が現在歌う姿をYou Tubeからお聴きいただきたい。彼女は1942年生まれだから、今年72歳と高齢である。You Tubeのものはおそらく60歳前後のものではないかと思われるが、若い時のものもいいが、幾多の試練を乗り越えてきた彼女の味のある「ヘイ ジュード」をお聴きいただきたい。

そして、次の詩が「マルタのヘイ ジュード」の全訳である。

 ねぇ ジュード 涙があなたをどう変えたの
 目がヒリヒリ 涙があなたを冷えさせる
 私があなたに贈れるものは少ないけど
 あなたは私たちに歌ってくれる
 いつもあなたと共にある歌を

 ねぇ ジュード
 甘いささやきは 一瞬 心地いいけど
 それだけじゃないのね
 「韻」の終わりがある すべての歌の裏には「陰」があって
 私たちに教えてくれる
 人生はすばらしい 人生は残酷

 でもジュード 自分の人生を信じなさい
 人生は私たちに 傷と痛みを与え
 時として傷口に塩をすりこみ 杖がおれるほどたたく
 人生は私たちをあやつるけど悲しまないで

 ジュード あなたには歌がある
 みんながそれを歌うと あなたの目が輝く
 そしてあなたが静かに 口ずさむだけで
 すべての聴衆はあなたにひきつけられる
 あなたはこっちへ 私は向こうへ歩き出す
 でもジュード あなたと遠くはなれても
 心は あなたのそばに行ける
 今 私はなす事もなくあなたの歌を聴く自分を恥じている
 神様私を裁いてください
 私は あなたのように歌う勇気がない

 ジュード あなたは知っている
 口がヒリヒリ 石をかむようつらさを
 あなたの口から きれいに聞こえてくる歌は
 不幸の裏にある「真実」を教えてくれる

 NHK・BSは12月14日(日)、先に放送した「世紀を刻んだ歌 ヘイ ジュード 革命のシンボルになった名曲」の番組をリニューアルする形で「冷戦終結25年 ヘイ ジュード 自由への旅」と題して編集を新たにした番組を放送した。

 「マルタのヘイ ジュード」は私にとって特別な歌となった…。


札幌Cafe紀行 №126 紙風船

2021-01-13 17:50:18 | 札幌Cafe紀行

 Caféというよりは定食屋さん的雰囲気が漂うお店だった。60代と思しきご婦人二人で切り盛りする店には、常連と思われる中高年のお客さんが会話を楽しみながらランチ(定食)を頬張っていた。

   

 予定も何もしていなかったカフェを突如訪れることになった。というのも、この日(12日)大谷大学でMarimba Concertがあると聞いて、地下鉄を乗り継いでやってきたのだが、どうやら日程を間違えていたことが大学に着いてから判明した。すると、急にお腹がすいてきたことを意識した。

 すると、地下鉄「東区役所」駅を降りて大谷大学に向かっていたとき、道筋にCafé「紙風船」があり、店の前には「軽食喫茶」という看板も記憶があった。

 「紙風船」というと、私の中では時々店内でライブを開催しているカフェではないか?という思いがあった。しかし、それは何かの記憶違いのようだった。

 というのも、店の扉を押して店内に入った時にそれは一見して「違う!」という思いに至ったのだ。ネット上にこの店を評して「正しき昭和喫茶」と表現した記述があったが、店内は古色蒼然とした感じであり、先客の4人は全て中高年の方々ばかり、さらには店のスタッフも60代と思しきお二人と、まさに昭和時代の喫茶店という感じだった。それは私にも懐かしい思いを呼び起こしてくれる光景ではあったが…。

   

 私はメニューを見て「日替わりランチ」を注文した。日替わりランチはかなり人気のメニューのようで、あらかじめ用意ができていたのか直ぐに出てきた。内容は「鶏肉のピタカとサラダ」、「タラコとコンニャクの子和え」、「青菜の胡麻和え」、「ニシン漬け」がワンプレートに載り、それにご飯と味噌汁という内容だった。お腹がすいていたこともあったのか、美味しくいただくことができ、量も十分だった。

   

 私は食後にコーヒーを注文した。しかし、他のお客さんたちはどうも食後のコーヒーはあまり飲まないようだった。そのためだろうか?朝淹れたコーヒーがやや煮詰まって苦い感じが強かったのは私の思い過ごしだろうか?

   

 店内にいたお客さん、あるいは来店するお客さんたちとお店のスタッフの方との会話が聞くとはなしに耳に入ってきたのだが、ほとんどが常連のお客さんたちのようだった。そうしたお客さんたちはお店のスタッフとの会話を楽しみにして来店しているようだった。

 地下鉄「東区役所」駅前から近いという好立地にあって、昭和チックなCaféが存在していることは地域に住まわれている中高年世代にとっては絶好のコミュニケーションの場として貴重な存在なのかもしれない。正しき昭和喫茶「紙風船」が一日も長く存在することを願いながらお店を後にした。

                       

【紙風船 データー】

札幌市東区北25条東7丁目1-24

電 話  011-741-3571

営業時間  ?

定休日   ?

駐車場   無

座 席   20席(ボックス16席・カウンター4席)

入店日   ‘21/01/12


新春カレンダー市

2021-01-12 14:57:14 | イベント

 新年も松の内が解けると、世の中は平時に戻り活気が出てくる。そして各企業や商店などで余ったカレンダーや手帳を福祉に役立てるためのカレンダー市が開催される。今年はコロナ禍の影響もあり取りやめるカレンダー市が相次いだが、私が知るかぎり唯一のカレンダー市に昨日行ってきた。

         

 例年は札幌の各所で開催されるカレンダー市が、今年は軒並み中止となった。いわゆる“密”を避けるためのようだ。そんな中で唯一開催したのが「札幌市身体障害者福祉センター」(西区二十四軒2条6丁目)のカレンダー市だった。

   

   ※ 体育室も備えた大きな建物が札幌市身体障害者福祉センターだつた。

 私は昨年、別なところで開催されたカレンダー市で二カ月が同時に表示される月めくりカレンダーを入手し、えらく使い勝手が良く気に入ってしまったので「今年もぜひ!」と思っていた。だから例年開催されているところが軒並み中止となりガッカリしていたのだが、幸い新聞で上記のところで開催されると知り、昨日勇んで福祉センターに向かった。

 開催時刻は午前10時だったので、10時をやや回ったころに福祉センターに着いたのだが、福祉センターにはすでに長蛇の列が出来ていた。

   

   ※ “密”を避けるため、会場の前に長蛇の列ができていました。

 センターに着くと、まず体温を検温され、氏名・連絡先を記入することを要請され、列に並ぶとビニール製の手袋を渡される徹底ぶりだった。そして長蛇の列の理由は、会場内が“密”になるのを避けるため、一定数以上を入れない措置がされていたからだった。

   

   ※ 会場内でお目当てのカレンダーを探す人たちです。

 待つこと30分。ようやく会場内に入ることができた。会場内には各企業などから寄付されたカレンダーが山のように積まれていた。(一部手帳類も販売されていた)その中からお気に入りのカレンダーを探すのだから大変である。書店など売られているように壁に掛けられていれば多少選びやすいのだが、平置きだから大変だった。私のお気に入りの二カ月同時表示のカレンダーはなかなか見つからなかった。

   

   ※ 机上には溢れんばかりのカレンダーが!目移りします。

 カレンダーの山と格闘すること20分。私が見つけたのは、なんと二カ月同時表示ではなく、三カ月同時表示のカレンダーだった。しかも同じ場所で二種類の三カ月同時表示の月めくりカレンダーを発見した。

 我が家では居間やトイレ、あるいはキッチンにおくカレンダーは妻が年末に購入済みなので、私の部屋用のものだけ必要だったのだが、二種類の三カ月同時表示のカレンダーと予備のために普通の月めくりカレンダー、計3(?)冊を購入し、金300円也を主催者に渡しセンターを後にした。

 二つの三カ月表示のカレンダーはその作りがまったく違っていた。

 一方の方は使用している紙も上質で、三カ月表示と云っても毎月表示されている三か月分全てを切り離すタイプのものである。今月分には1月、2月、3月分が表示されているが、それらをすべて切り捨てると、今度は2月、3月、4月分が表示されたものが用意されているのだ。つまり、全面を毎月切り離すので用紙は12枚使用されている。

        

 ※ こちらが贅沢タイプ(?)の月毎に全面を切り離すタイプのカレンダーです。

 もう一方の方は、使用している紙は薄かった。そのうえ、毎月切り離すのはその月分だけのタイプだった。だから 今月の表示は1月、2月、3月分が上から順番に表示されているが、今月が終わり1月分を切り離すと、その後ろから4月のカレンダーが現れ、上から4月、2月、3月の順に表示されるのだ。2月が終わっても切り離すのは2月分だけ、その下からは5月のカレンダーが現れるという仕組みである。だから表示される順番は上から4月、5月、3月の順となる。この仕組みだと、使用する用紙は3カ月分全てが表示されたものが3枚、2ヵ月分だけ表示されたものが1枚、1カ月分だけ表示されたものが1枚用意されているという省エネタイプである。

        

 ※ こちらはその月の分だけ切り離す省エネタイプのカレンダーです。

  

  ※ カレンダーには写真のような使用方法が載っていました。新案特許を取得したタイプのようです。

 私は自分の部屋にこの省エネタイプを掲示し、贅沢タイプのものは寝室用に掲示した。

 表示される月の順番は多少混乱するが、機能的には省エネタイプで十分ではないだろうか?

 なお、会場には「身体障碍者のために資金を有効活用します」という表示がされていた。