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(今朝は屋根ではなかったです。)
いやあ、今日もきのうとさほど変わらない気温だったのですが、風の違いかな、きょうはあたたかくは感じませんでしたね。きのうの最高気温は10.9℃に対してきょうは10.1℃でした。最低気温はきのうが0.8℃できょうは1.5℃でした。
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そして、これから週末にかけて気温はうなぎのぼり?でも、月指からはまたsても低下傾向へ、そして4日火曜日の最高気温は何となんとナント4.0℃と予想していました。これから14℃くらいまで上がるだろうというのに、またしても一気に下がってしまう。困るのです、これじゃあ困るのことよ!です。
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きのうから国公立大学の二次試験が始まっていますね。受験生には何はともあれ万全な体制で試験に臨んでほしいものですが、如何せん、希望者全員は入学できませんので、厳しいですね、少しでも悔いを残さないように!というしかありません。
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私は国立大学しか受験したことはなかったのですが、そのためかどうか?一浪しています。昭和41年頃の大学受験は今と比べたら簡素なものというかはっきりとした、簡単なもの(様式や手続きがです)だった(といっていいのかな?)。
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何といっても国立大学は年に2回受験できたというのが一番よかったか。旧帝国大学を「一期校」とし、そのほかの地方にある、旧制高校を中心とした1県1国立大学の「二期校」の二つに分かれていました。一期校の受験日は3月上旬で、一期校の試験結果がはっきりしてから二期校を受験することができました。
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まあ、そういうことから言えば二期校の受験に集まった生徒たちはほぼ全員一期校の落選組、いわゆる落ちこぼれ組といっても間違いではないですが、でも、純粋に二期校を第一志望として受験した生徒もいたわけで、そういう生徒に対しては何とも失礼な言い方であると思っています。鼻持ちならないですね。
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一浪して、何とか他県の二期校に合格しましたので入学しました。親からは国立大学、それも近いところの大学とくぎを刺されていましたね。少しでも教育費を安くするために学生の寮に入りました。大正時代に建てられた旧制高校時代の木造2階建ての六棟が廊下でつながっている寮でした。12畳に5人が寝起きします。今思うとよくぞまあそういうところで生活してきたものだと自分を誉めてやりたいくらいです。
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寮費は月額100円、食費は一日3食付きで120円(朝食:30円、昼食:40円、夕食:50円)で月額にすると3,600円でした。だから、奨学金を借りればそれだけで一カ月は生活できたのでした。信じられません。寮は大学構内にありましたので、お昼は寮に戻るわけです。
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冬の時期は大変でした。12畳に炭1俵でした。火鉢は二つありました。冬の時期、部屋を暖かくするのは一年生の役目で、薪や新聞紙から炭に火を熾します。冬は寒かった。窓ガラスが壊れていたところもあったし、そういうところは段ボールで防いで何とかしのぎました。机は持って行ってあるのですが、冬は寒いので布団に下半身を入れて勉強しました。机替わりは当時のリンゴ箱の一部の板を外して机として使いました。ちょうどよかったですねえ。
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よくぞ粗衣粗食に耐え、零下の気温にも耐耐えたものです。2階を人が歩くと揺れるくらいの古い建物でした。当時は若かったからなあ。早々その木造の寮は一年で取り壊されました。郊外に新しい鉄筋コンクリートの寮ができました。ただ遠いので、自転車通学となり、昼食は学食となりました。寮費の月100円は変わらなかったと思います。食費も。お風呂は毎日入れたかなあ~、それはぜいたくでしたかも。
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こういうことを書きだすとキリがなくなります。ついつい思い出すままに書き連ねていってしまいます。ので、この辺で止めておきます。それにしても、55年以上前の大学(生活)と現在の大学(生活)、その違いには茫然自失、大口あんぐり、空いた口がふさがりませ
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教育がこんな先見の明がない、近視眼的な、アメリカに振り回される政治に左右されるようなことでいいのでしょうか。学生もですが、大学も声をあげないともうどうしようもなくなるのではと非常に危機感を持っているのですが、もやは手遅れかもしれません、少子化と同じように。
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(凛として、美しい姿ですねえ~)
きょうは2月26日ですね。何年くらい前までのことでしょうか、この日になると陸軍将校のおこした2・26事件について新聞やニュースでも大きく取り上げたものですが、この頃は全く歴史のかなたに追いやられたままのようです。
でも、きょうネット記事を見ていたら、おもしろい記事を見かけましたので少し簡単に紹介してみたいと思います。
(引用開始) 帝都を赤い血で染めた「二・二六事件」、青年将校はなぜ「冬の日」に決起したのか? 意外な理由があった
学術文庫&選書メチエ編集部 によるストーリー
・・・中略・・・・
以下、有馬学『日本の歴史23 帝国の昭和』を参考に、当時の状況を再構成してみます。
・・・・中略・・・・・
なぜ冬に…?
ところで、二・二六事件と聞いて気になるのが、きわめて卑近なことではあるのですが、「なぜわざわざ冬に決起したのか?」ということです。
もちろん、事件の背景にある青年将校たちの思想や陸軍内部の対立も気にはなるのですが、現代のきわめて快適に整備された環境を生きる人間の目からすると、「なぜわざわざ冬に決起したのか」は素朴に気になるところです。
冬の決起というのは大変そうです。何より寒くて仕方なさそうですし、寒さによって武器の操作ミスなども発生しそうです。数日にわたって帝都の中心を占拠するのであれば、さまざまな物資が必要となりそうなものですが、やはり寒さを考慮すると冬のほうが必要となる物資が多くなりそうです。
言い換えればこれは、決起を春まで待てなかったのか……という疑問になりますが、その疑問に答えを与えてくれたのが、九州大学名誉教授で日本近代史が専門の有馬学氏による『帝国の昭和』でした。
〈二月二十六日という特定の時日はさておいて、青年将校がなぜこの時期に決起したのかといえば、第一師団が満州に派遣されることが内定し、当分の間決起の機会が得られなくなると判断されたからである〉(同書199頁)
なんのことはない、決起に参加すべき人員が満州派遣にとられてしまうことが原因だったというのです。意外な感もありますが、言われてみればたしかに、という理由です。まあ、クーデター未遂というのはそういうものなのか、と。
(引用終わり)
なぜ冬のさむい時期に決起したのか?そういえば今まで誰も疑問には思ってはいなかったようですね。自分にとっても盲点でした。そういう見方があるのか!?
ということは、もしかしたら(もしかはありえないことですが)満州事変が起きなかったのかもしれないのでは?そうであったならば、その後の日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。