鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

今日も貧果

2006-08-21 22:37:38 | 最上川

 【写真は寒河江川の上流部、西川町の西川中学校裏の寒河江川です。川下の風景です。西川町の何とか公園になっていますが、それにしては手入れがさっぱりです。また、ここは嬉しいことに友釣り専用区になっています。】

 釣り友と二人、満を侍して山形へ釣行したのですが・・・。(メモ帳を持っていくのを忘れたので、時間は少しいい加減なところがあります。悪しからず。)

 目指すは、寒河江市の最上川(が駄目ならば寒河江川)。オトリ店で大き目のオトリを2匹ずつ購入。寒河江水辺プラザの最上川へ。

 誰もいない。水は少ない。出発前にインターネットで検索したら、水位は午前4時現在で8.51。このくらいなら丁度いいのではと喜んでいたのだが、到着してみたら少なすぎる感じ。

 ブログのために水位を調べたら、午前9時で8.44、少ないはずだ、これでは。希望は8.6くらいなのだが。水温は何と26.5度。あったかい、ぬるま湯である。冷たい水の中にいるおとりアユをすぐに活けるわけにはいかないので、水を調整しながら、オトリ缶を活ける。

 二人で第一組合と第二組合の境界標識の上流部に入る。釣友は川の中央に入り、私は例によって左岸から竿を出す。 流れに乗せておとりを沈めたら、何故か一気に斜め中央に数メートルも動いたので、元気なオトリだなと思いつつその後も泳がせるが、何か動きがおかしい、不自然である。そしたらかかっているではないか。しかし、オトリが水面に顔を出す前にばれてしまう。

 このところ、オトリを入れると割りと早くかかる、今日もそのパターンであったが、ばらしてしまう。と同時につきもなくしてしまった。その後もう一回だけ確かな当りがあったが、ハリがかりはしなくて、逆バリがはずれていたということがあっただけ。

 その後二人でいろいろ歩き回ったが、かからず。水量が少ないので、荒瀬を攻めていたら、根がかり。とても回収に入っていけるところではない。いろいろ竿をあおったりしていたら、オトリ鮎が浮いてきた。水面まで出てきたのだが、それ以上は何もできず。つまり、またもやガラガケのハリに引っかかってしまったというわけだ。頭にくる。

 下流域にガラガケの人が一人入って、瀬ばかりをひととおり攻めて引き上げていく。

 右岸のへちを攻めていたらようやく当たりあり。しかし、引き抜いてがっかり、ハヤでした。 結局、9時から10時40分くらい竿を出したが、釣果は0。

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広瀬川清掃

2006-08-20 22:54:05 | 広瀬川

 今日の地元の新聞、河北新報によると、昨日19日仙台市カヌー協会のメンバー約30人がカヌーで川下りをしながらゴミを拾いながら広瀬川の河川敷の清掃を行ったと写真入りで紹介していました。

 スタート地点は澱橋です。ここはすっかり流れがなくなったので、ある意味カヌーの練習にはもってこいかもしれません。過去にも何回かここからカヌーで下っていくのを見ています。

 澱橋から仲の瀬橋を過ぎ次の大橋まで下ったとのことです。

  思い出すのは、我々青葉カワセミ会も構成員だった仙台友釣り団体連合会(略称:仙友連)です。市内のアユ釣りの団体や個人からなる仙台友釣り団体連合会は、今思うとよくやってきたと思います。

 7月1日の解禁前には、名人を講師に仕掛けつくりの講習会を開催したり、解禁直前の日曜日には広瀬川の河川敷だけではなく川の中のゴミを集めるというクリーン作戦、解禁後には市民アユ釣り大会、シーズンオフには広瀬川の堰、堰堤等の調査をしたりといろいろ活動したものです。それぞれの行事の担当は加盟団体が責任を持って行うという方針でした。

 青葉カワセミ会は、専ら広瀬川クリーン作戦を担当しましたが、その場所は、中の瀬橋から上流の澱橋間のゴミを集めました。

 参加者は毎回20から30人近くの人が集まり、スリムウエダーやウエットタイツをはいてのクリーン作戦で、川の中のゴミを集めるとともに、ついでに川の様子、アユのハミあとの調査も個人的には兼ねていたと思います。

 この事業は子どもや家族を巻き込んでの環境教育という一面も持っていたので、マスコミの取材はすごかったです。新聞やテレビの取材があり、参加者もやる気が出てきたものでした。

 集まったゴミも毎年半端なものではなく、大きな専用のビニール袋で30袋以上、何トン単位で集まりました。

 当然行政とも連携していまして、袋は市の環境局よりもらいうけましたし、ボランティア保険にも加入させてもらったし、県の土木事務所にも集めたゴミを回収してもらうべくお願いしたり、釣りばかりではなく、市民のためにも活動していました。

  それも昔の話。構成団体の脱会等もあり、活動も先細りとなり、遂には休眠状態になって現在に至っています。 結成当時の熱情が薄れていったことが大きかったのかも。マンネリ化もあったでしょう。

 残念ですが、組織を何時までもいきいきと活動させていくというのは難しいものです。


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ザ・ピーナッツ

2006-08-19 22:23:37 | 思いつくまま

 今日のNHKBS2で「特集ザ・ピーナッツ、ウナ・セラ・ディ東京の秘密」を観ました、聴きました。無条件によかったです。録画もしておきました。

 ハナ肇とクレージーキャッツと一緒に出ていた「シャボン玉ホリデー」を懐かしく思い出しました。

 当時はまだカラー放送ではなく、白黒テレビでしたが、毎週とっても楽しみでした。クレージーキャッツのコントとザピーナッツの素晴らしい歌、そしていつも番組の最後に流れる「スターダスト」の歌、今でも鮮やかに当時のイメージが浮かんでくるようです。

 当時も今も二人組の歌手であれほどハーモニーの美しい歌手はいないと思います。当時は演歌歌手でこまどり姉妹がいましたが、歌唱力では到底ザピーナッツの敵ではありませんでした。(トリオではスリーグレイセスというグループがいました。このグループもとっても歌が上手かった、ハーモニーがきれいだった。何故かあっという間に引退?してしまいましたが。)

 いくら双子、一卵性双生児とはいえ、あそこまできれいにハモルなんて、本当に実力を兼ね備えた素晴らしい歌手でした。デビューして16年で歌手生活、芸能生活がおしまいなんて本当に惜しい限りでしたが、それが彼女らの自ら選んだことだったんですね。

 山口百恵と似ています。「惜しまれて去る」という覚悟、男らしいといったらセクハラとなりますか、つくづく潔いと感じ入ります。

 番組では、英語・ドイツ語・フランス語で歌える唄が1000曲もあったというのです。また、世界35カ国でもレコード(懐かしい言葉です。)が発売されたとか。実力があったから全く不思議はなく、当然といえば当然かもしれませんが、それにしても引退は惜しかった。

 

 去年の春か、何十年ぶりかで再結成されたピンクレディのラストコンサートを聴きに行きましたが、もしかして・・・と思うことは無理ですよね。

 でも去年か園まり・中尾ミエ・伊東ゆかりの昔々の三人組が全国公演したし、歌唱力は衰えてはいませんでしたので、ひそかに発声練習をしていればザピーナッツの再結成も不可能ではないと思いたいのですが。

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澱橋上流部

2006-08-18 23:04:03 | 広瀬川

 この写真は澱橋の上流部です。私の大好きなポイントです。正確には「でした」。

 上部の瀬から上のほうが岩盤を底にして、大きく掘られて溝になっていたり、大小の石がのっていたりして変化に富んだ瀬が続いています。

 手前の方は何の変哲もないだだっ広い鏡になっていますが、かってここはアユ釣り人やその見学者で賑やかなものでした。アユ釣り銀座とでもいいましょうか、そのくらいここには活気があったのですが。

 流れもこんなものではなく、大小の石が点在し、瀬やトロがあり、変化に富み、アユも一杯いたものでした。

 友釣りの人とガラガケの人がそれなりに共存していました。共存できていました。

 それに釣り人と見学者が一体となって、アユ釣りを楽しんだものでした。橋の上から川の様子がよく見えます。そのため橋の上から見ている人が、釣り人にあれこれ指示したり、教えてくれるわけです。おとりがいるところにはアユがいないから、もっと左とか、右とかに動かせと教えてくれるわけです。

 また、そんなわけですので、解禁日にはTVや新聞社等のマスコミが一杯やってきて取材していきました。私もNHKの取材を受けたことがあります。

  それも昔の話。度重なる大雨増水により川底がすっかり砂で埋まってしまいました。そして誰も寄り付かなくなって・・・。淋しい限りです。

 4月の下旬か5月の上旬に年に一回のみ、虹鱒の放流のときに少し賑わいます。それだけです。

 台風の大雨大増水ですっかり流れが変わってしまった那珂川が、ショベルカーやブルトーザーを使って大小の石を入れて黒羽の町裏を蘇らせましたが、広瀬川でもそういうことができるのであれば、またいいポイントになると思うのですが。


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地元の紹介

2006-08-17 21:51:42 | お知らせ

 九州地方の皆様、台風による大雨に十分ご注意ください。

 また、酒匂川で急激な増水で亡くなった釣り人のご冥福を祈ります。被害に会った方には、お見舞い申し上げます。さぞかし怖かったことでしょう。

  テレビで見ましたが、上流部の降水による急激な増水は本当に恐ろしいものです。改めて再認識しました。他山の石として、天気予報や気象情報には常に注意を怠らないようにしたいと思います。雷にも。

  写真は、私が毎朝出勤のとき通る堤防からみた広瀬川と街のビル街です。

 右手の杜のような木々の奥が広瀬川です。中央に見えるのが澱橋です。堤防の下に見えるのは整地された河川敷というか緑地公園みたいなものです。環境は最高です。散歩の人やジョギングの人が一杯います。

  この頃朝は、右側の木々からはセミの元気な鳴き声が聞こえます。アブラゼミは意外と少なく、ミンミンゼミの方が多いと感じます。

 この頃は、さすがに鶯の鳴き声は聞かれなくなったようです。時たま、雉の鳴き声は聞こえます。

 夕方はカナカナゼミやツクツクボーシが、朝方とは打って変わって秋の気配を感じさせるかのように落ち着いて?しっとりと?鳴いています。

 天気のいいときは、朝日がビル街からスペシューム光線?を浴びせてきます。

 橋の手前に来ると、右手に広瀬川が見えてきます。もう朝の釣り人の姿はとんと見ていません。淋しい限りですが、誰かが釣りをしていると羨ましく思ったりして、何とも勝手な男です。

 でも、ここに入ったのは解禁日とその後1回の2回しかないのですが、2回とも腕等がかぶれてしまって、ここは近寄るべからず、立ち入るべからずの聖域?になってしまいました。

 昨今の広瀬川は、水量が減ってきて、場所によっては垢ぐされが発生しています。アユはまだいるのではないかと思うのですが・・・。


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こんな釣りも。

2006-08-16 22:40:34 | お知らせ

 皆さんは、「JANJAN」というNPO型市民メディアをご存知ですか?読んだことがありますか?読んでいますか?

 経営は、NPO型株式会社「日本インターネット新聞(JIN)社」ですが、株式会社にしているのは、政府等の関与をなくして、独立性を保つためだそうです。NPOにすると、申請して認定を受けなければならないからです。

 パキスタンのカシミール地方の釣りは魚を釣らないそうです。

 もともとカシミール地方の川にはマスに似た渓流魚がいて、春先には市場に出回り、それを油で揚げたものがカシミールの春の風物詩だそうです。

 この釣りは雨季の釣りです。昔の日本の沿岸捕鯨のような光景で、川岸には大掛かりな仕掛けがつくられ、村の住民総出で精を出します。大物になると何日もかかって陸に引き上げ、輸送もトラックが必要になるくらい大変な作業だそうです。

 ここまでで何となく想像がついたでしょうか?

 答えは、木材、木ということです。

 雨季に入り、大雨が降るとインド側のカシミールの山から多くの木が土砂崩れで流れ出し、パキスタン側のカシミールに流れてくるそうです。大木となると、直系は1メートル以上、長さも20メートルにもなるそうで、このような大木は1本20万円になるので、釣る方も大変真剣だそうです。

  釣りかたは、川岸に綱を張り大物が引っかかるのをずっと待つだけです。大物がかかると、下着一枚になった男たちが、綱が木から外れないように川に入り、綱を押さえながら大きな掛け声とともに陸に引き上げるのです。

  大雨が降って少し水位が下がった翌々日当りが狙い目とか。早起きして川に探しに行くそうです。

  パキスタン側のカシミールの人たちは、この木をインド側カシミールからの贈り物といって、とても楽しみにしているということです。

  こういう釣りがあるのですね。でもいつまでも土砂崩れが続くということでもないでしょうと思うのですが。でもそれだけ規模が大きいということで、我々の想像を絶するということなのでしょう。

  川が大きいというと、思い出すことがあります。中国の長江をみて、その規模の大きさに圧倒された日本人が中国人に、日本にはとてもこんなに大きな川はないといったところ、その中国人が日本に来て瀬戸内海を見ながら、日本にも大きい川があるではないかといったとか。


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敗戦の日に寄せて

2006-08-15 23:35:39 | 思いつくまま

 今日は敗戦記念日、世の中では終戦記念日というけれど、まずは「敗戦」があって、戦争が終わったということ、敗戦をしたのだということをきちんと再認識することが大切だと思います。

 アメリカやイギリスにだけ負けたのではなく、中国や東南アジアの国々にも負けたのだということを改めて確認する必要があるのではないでしょうか?

 アメリカには負けたが、中国には負けてはいないという考えの人がまだまだ一杯いるのではないでしょうか。だからアメリカには必要以上に、今になっても卑屈になる一方で中国や朝鮮には依然として居丈高になるという情けない、浅はかな現象はそこから来ているのではないかと考えます。 (今日はこのことはこれ以上深入りはしません。)

 8月15日。

 いつものように街には右翼の害戦車ならぬ街宣車が繰り出し、軍歌をが鳴り立てていました。もうすっかりお馴染みになってしまいましたが。本当に右翼なら、攻め立てる相手が違うのではないかと思うのですが、こちらも強いものにはまかれろ式の情けない体たらく。

 一方では憲法9条改正反対のシュプレヒコールも聞こえました。

  そして朝7時40分、小泉は礼装で靖国神社に参拝しました。公約は守らなければならないといって。公債の30兆円枠の公約は破っても「そんなことはたいしたことではない」と居直っていたあきれた奴が、そんなことをのたまわったのですから、何をかいわんやです。心の問題という私的かつ一般論化した考えで、厚顔無恥、狡賢いことこの上もない。

 まあ、こんなもうすぐ辞める、知性のかけらもない最低の首相なんかどうでもいいのですが、こんな奴に、「英霊」云々の言葉は使って欲しくないと切に思います。戦没者を英霊呼ばわりするから、英霊ということにして真実を隠す、現実を見えなくしているとしか残念ながら思われません。

 一千五厘の赤紙で召集され、戦地に送られ戦死すると「英霊」になる。英霊となって靖国神社に祀られる。本当にそうですか?

 私に言わせると、何が英霊だ!と叫びたい。

 アジア・太平洋戦争で亡くなった人は、310万人とか。うち軍人・軍属は230万人、空襲や原爆等での一般人の死亡者は80万人ということですが、もちろん一般人の犠牲者80万人は英霊でもなく靖国神社にも祀られてはいません。

 靖国神社は、今日の河北新報にもありましたが、「靖国神社は戦死者を追悼する施設ではなく、勝ち戦の戦死者を追悼する施設なのである」(佐藤俊樹・東大助教授)

 一般人の死亡者はもとより負け戦の死亡者=戦死者を追悼する施設ではないということです。我々東北地方の、奥羽越列藩同盟を結び、薩長軍(官軍?)と戦って負けたみちのく武士たちは賊軍呼ばわりされ、戦死しても埋葬さえさせてもらえなかった、もちろん靖国神社などに祀られてはいません。

 つい最近、財団法人日本殉職船員顕彰会が作成したパンフ、「太平洋戦争と戦没船員」(総8Pの小さなものですが)を読む機会があり、船舶(商船・漁船・機帆船)の被害と戦没船員のことを知ることができました。

 それによると、商船の被害は、約2500隻、800万総トンだそうです。漁船や機帆船は4000隻以上だそうです。戦没船員は60608人、20歳未満の人は19048人で全体の31%を占めます。20歳以上30歳未満の人は16601人で、27%となっています。

 軍人の損耗率は、陸軍20%、海軍16%に対し、船員は43%と、軍人を上回る犠牲となっています。商船については、総トン数で60%が潜水艦による攻撃で沈没しています。

 太平洋戦争は、南方の島々を巡る戦いであり、勝敗を決するカギは海上輸送の確保にかかっていたが、海軍は輸送船の護衛にはほとんど目を向けていなかった。貧弱な護衛のため損害は甚大となったということです。

 商船が沈み、船員が死亡したということは、当然その船に載っていた主に陸軍の兵隊も死亡したということになります。資源を運んでの商船もあったし、資源と一緒に兵隊も運んだでしょうし、当然武器弾薬食料も運びました。船と運命をともにした軍人は何と30万人を超えただろうというのです。

 230万人のうち30万人は軍艦ではない商船等に乗っていて、乗せられていて死亡した兵隊ということになります。こういう死に方をした兵隊は、戦死でしょうか、名誉の戦死でしょうか?

 商船や軍艦の沈没により、補給線が断たれたことによる死亡者は150万人から200万人ということです。食料や武器弾薬が補給されないのです。これでどうやって戦えというのですか?

 満足な武器弾薬があっての戦いなら、そういう戦いで死亡した、戦死したというのなら、兵隊として、軍人としてある意味本望でしょう。戦う訓練をさせられてきたのですから。満足な武器弾薬がなくても、それなりの兵器で戦うことができた兵隊は幸せであったといえます。もともと少ない武器弾薬、食料は現地調達が原則という状況で、どうして満足な戦いができますか?精神力で補えますか?

 日本軍には補給、兵站という思想が完全に欠如していたのです。

 しかし、現実にはそういう状況の中で、よく戦ったと思います。よく敢闘したといえます。よく戦っても、消耗していって負ける、勝つことはない、持久戦になれば確実に負ける。精一杯戦ったのならそのあとは捕虜になってもしかたがない、という思想、考えがなかった。なかったのではなく、なくした。捕虜になるということを許さなかった。

 それは「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」のためです。登場非出来ならぬ東條英機が作った戦陣訓の教育が徹底したためです。

 だから、もう戦うにも戦うものがなくなっても、投降することができない、捕虜には絶対になるわけにはいかない、逃げなければならない、いつまで続くか分からない逃避行が待っているだけです。

 その結果どうなったか、待っているのは病気や飢えです。結果として戦病死や餓死してしまう。死んでいる兵隊の肉ばかりではなく、生きている兵隊でも殺して人肉を食べるという鬼畜の逃避行となってしまう。ここまで政府や軍の指導者は、現地の兵隊たちを追い詰めてしまったわけです。

 フィリッピンで、ビルマで、インドネシアで何十万の兵隊が死ななくてもいいのに逃げ回ることによって自らを追い詰めていった。待っているのは自決か病死と餓死ばかり。

 全戦死者の70%は餓死したといわれています。餓死ですよ。戦うためにはるかかなたの南洋諸島まで連れてこられて、満足に戦うこともなく逃げ回って、揚げ句には餓死してしまう。これはアメリカ軍の責任ではない。日本軍部の指導者の責任です。それ以外の何ものでもない。

 そして、更にそれらの餓死した兵隊たちはそのまま野ざらしとなり、朽ち果てていった。土に返っていった。本来国の責任において戦没者の遺骨をきちんと収集すべきではないでしょうか?未だに何十万という兵隊が故国に帰れずに異国のジャングルに眠っているのです。これでいいのでしょうか?こんなにも国は無責任なのです。

 この元凶は、繰り返しますが東條英機首相兼陸相です。然るに、この頭だけがいい軍人は自分では自決さえできなかった。捕虜になるな、なるくらいなら自決せよと言っておきながら、自分は自決(とはいいたくないのですが)、自殺さえできなかった。一応は拳銃で自殺を図ったようですが、何と心臓を狙って引き金を引いたというのです。

 自決の仕方さえ知らなかったようです。拳銃の場合はこめかみをねらうこと、歩兵銃の場合は銃口を口に銜えて足で引き金を引くことということさえ分からなかったようです。これが陸軍大将のやることですか。情けなくて、笑ってしまいたいくらいです。戦地での自決した司令官に恥ずかしくないのか。

 東條を初めとして310万人を殺してしまった責任者たちを祀った靖国神社、そこに参拝して、アジア諸国の反対を押し切って、国内にも反対者が一杯いるのに、8月15日に平和を祈るなんて信じられません。バカじゃないかと思います。アホです。こんな総理大臣を持った我々日本人は全く持って恥ずかしい限りです。

 それを支持している人が、まだ40%以上もいるなてことも私には全く信じられません。一体何時までだまされ続ければ目が覚めるのでしょうか?何処がいいのですか?何か国民のためになることをしてきましたか?こんな日本にした元凶は小泉潤一郎です。ブッシュのぽち、番犬、一番許せないのは売国的な行動をしてきたことです。正にアメリカに対する売国奴・小泉、こんな男の何処がいいのでしょうか?いい加減目を覚ませといいたいが、後継者が小泉に輪をかけてたちの悪い安倍ごときではどうしようもない、何でこうも簡単にだまされ続けるのか、あきれを通り越して絶望的にさえなってきます。

 最後に、日本遺族会の皆様方に言いたい。残念ながらあなた方の肉親の死は犬死であったと。きつい言い方ですが、そのことをきちんと見つめた上で遺族会として、二度と戦争をしないような活動をすべきです。よくもまあ我慢できるものであると思います。エンドレスの遺骨収集を国に働きかけるべきなのに、金銭的な補償でお茶を濁してしまっている。とっても残念に思います。

 この頃思っていることをかなり過激に書いてしまいました。このままでいいのでしょうか?もう一度考えて欲しいと思います。

 ここまで読んでくれてありがとうございます。あきれたかもしれませんが、思っていることをかなり正直に書かせてもらいました。

 戦没者に 合掌 


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お墓参り

2006-08-14 21:30:51 | お知らせ

 私のお墓は新寺小路にある浄土真宗の「正楽寺」です。

 今日久し振りに全員揃った家族4人で、お墓参りをしてきました。

  皆さんは新寺小路という地名から、いつころ作られたと思いますか?「新」が付くので割りと近い時代かと思いきや、なんとなんと、1600年代の初め頃と言うのです。

 つまりは、伊達政宗が仙台開府してさして年数が経っていないということになります。1630年頃、お寺を新しいところに移転させたということです。それで「寺小路」に「新」を付けて新寺小路、元のところを「元寺小路」と呼ぶようにしたとか。

  かなり前にこの辺を区画整理したために、お寺も区画され、他に移転したお寺や本堂だけが残って墓地は別のところに整理されたりして、今はきっちりとしたお墓のまち(はおかしいか、お寺のまち)になっています。

  私のお墓も同じ敷地内に区画されて移りました。

 小さいお墓ですが、江戸時代から続く由緒?あるお墓です。江戸時代と入っても、「嘉永」時代ですので、江戸も後期も後期となります。1848年から1854年が嘉永時代です。嘉永のあと、明治までの年号は、安政・万延・文久・元治・慶応と続きます。

 だから小さいお墓ですが、でも周りのお墓と比べると、とっても趣、風格があり、私は好きです。何時までもこのままであり続けたいと思っています。

 過去帳があるのですが、一番最初に書かれている人の名前は、法名になりますが、『釋尼教受』で、享保19年8月13日に亡くなっています。 享保時代は西暦では、1716年から1736年の21年間ですので、1734年頃に亡くなったようです。

 浄土真宗では、戒名はなく、法名といいます。生前にも法名はいただけるということですので、私個人としては、できれば生前に戴いておきたいと思っています。死んでからの自分の名前ですので、生きているときから自分の名前に親しんでおきたいという単純な考えからです。

 個人的に浄土真宗は、開祖の親鸞聖人はとっても偉い人、素晴らしい人(私ごときがそんなことを言うのはおこがましいのですが)と思い、尊敬しています。

 法名は簡潔明瞭です。これがとっても気に入っています。男の場合は『釋』、女の場合は『釋尼』が法名の頭に付き、その下に漢字二文字が付きます。

 ちなみに、平成5年に亡くなった私の父は『釋顕正』といいます。これなら誰でも覚えられます。

  大言居士とかなんとか、お金によって長い戒名になり有り難味がわくなんておかしいです。死んでからも差別される、しかもお金によって差別されるなんて納得できません。他宗派の悪口を言うつもりはありませんが、どう考えてもおかしいです。

  このお寺の本堂は何時の時代のものかは分かりませんが、木造のとっても風格のある大きな本堂です。使用されている柱や梁は見事なくらい太く、黒光りして重厚感があります。

 また境内にある太い銀杏の木は樹齢400年以上の、仙台市の指定記念物となっています。山門も指定文化財のようです。

  これからも人災や雷で火事になったりせず、30年以内に99.9%の確率で発生する地震にも耐えて、生き残っていって欲しいと思っています。


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また行ってきました。(最上川)

2006-08-13 22:38:14 | 最上川

 今日13日の釣行は、あくまでも狙いは最上川です。

  実は、寒河江川に入る前に寒河江水辺プラザの最上川に行ってきました。びっくり。濁っている。増水している。それもかなり。この前よりも20cmは増えている。だれもいない。居たのはキャンプ?に来ていた親子連れのみ。

 濁ってはいるが、過去の経験から言って問題はないとみました。とりあえず竿は出してみようとじぶんに言い聞かせ、鼓舞し、用意して川に入りました。

 いつものように第1と第2組合の境標識の少し上に入り、大き目のおとりを出しました。少しして、ゴツンという当たり、よし!きた!竿を寝せてハリを食い込ませてから、竿を立てたところ、一気に下流中央へかかった魚は走ります。硬派の竿でも耐えられません。黒っぽい魚体がチラッと見えたと思ったら、はずれました。

 てっきりオトリ諸共パアーかと思ったのですが、オトリもハリも回収できました。よく見たら、4本イカリのハリの1本がぐっと開いていました。何だったのでしょうか?

 このオトリは使えなくなりました。浮いてしまいます。2匹目に交換し、再度気を引き締めて流芯に放します。かからず。背バリを使用。構えては引き戻しを何回か繰り返すうちに、背バリの打ち所が悪かったのか、おとりが動かなくなり使い物にならなくなりました。

 8:50から9:20まで。釣果0 

 写真を撮ろうと思ったのですが、何故か上手く作動しません。  昨日の夜取りダメしていたものを、ゼロにしておこうといろいろ操作したのがよくなかった模様で、そのため、今日の川や釣果の写真はありませんので悪しからず。

  仕方なく、かっこ悪いけど再度オトリ店へ。話を聞くと昨日の午前中まとまった雨が降ったとのこと。ただし、寒河江川は増水も濁りもないと。

 オトリを2匹購入し、午前中は寒河江川で竿を出し、いいオトリを確保してから最上川に入ろうと思ったわけです。

 寒河江川での釣りの状況は既に書きました。

  午後の最上川は少し減水していました。ありがたい。釣り人はいない。午前中いた親子連れは帰り支度を始めていました。 気を入れなおして、再度挑戦です。午前と同じところから竿を出しました。 

 13:15分スタート。スタートして4分後か、ググッと言う強い当たりあり。ヨッシャアと気合を入れて、ためてから竿を立てる。強い引きだ。果たしてあゆか?手応えはニゴイではない。嬉しい。大きそうだ。

 無事引き抜いたのは、21センチクラスの文句のないアユ。ようやくこれで広瀬川並みのアユが、最上川でも釣れるようになったのかと思うと感無量です。

 さっそくオトリを取り替えて、少し下流を攻める。10分後にまたいい当たり。同じく21センチクラスの立派なあゆ。嬉しくなる。いよいよこれからが、最上川の本番だと。その後も2匹追加。これは20cmクラス。35分の間に4匹という釣果。いい感じである。

 しかし、その後は当りが遠のいてしまったし、南の空から雷の音が聞こえてきた。ヤバイ!どうしようか?釣りでは雷が一番怖い。でも、まだ遠いようだし、折角だからもっと釣っていたい、でも怖い。精神の集中が途切れてしまいました。

 平瀬ではかかったのですが、川中央の岩盤の手前の荒瀬近くからは全く当たりなし。瀬には居ないのか?竿がとどかないだけか?(寒河江川では、瀬が、瀬でしかかかりませんでした。瀬の規模が違いますが。)

 雷はあまりしなくなったが、代わりに曇ってきて、雨が降りそう、にわか雨がやって来そうになり濡れる前にあがることにする。

 最上川も本調子になってきたということが分かっただけで十分であるし。

  車の中で着替え、土砂降りの中を帰途に着く。 強いにわか雨は、14:45には劇的に収まり、再度陽がさしてきました。

 最上川のまとめ;

・竿は、ダイワ硬派「剛」早瀬抜き95

・糸は、複合メタルの太いもの(不明)

・時間は、13:15から14:10

・釣果は4匹。20cmと21センチ。

・ハリは、7号クラスの4本イカリ

・水温は26度。高いです。寒河江川はもっと低い、冷たい感じ。

  というわけで、いよいよ最上川もいい釣りができるようになってきました!! 


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また行ってきました。(寒河江川)

2006-08-13 21:43:57 | 寒河江川

 (11日の最上川での竿は鮭川と同じ、水中糸はホクエツの複合メタル超極細でした。)

  今日は一人での釣行です。自宅をゆっくり6時45分に出発。一路寒河江川を目指す。宮城県は県境に近付くにつれ天気がよくなり、関山トンネルを抜けてからも山形もいい天気でした。しかし、走るに従い、天気はうす曇から曇りとなりましたが、この分では日中は暑くなるかもしれないと思いました。

  大沼モータースにて、決心して寒河江川の年券を購入しました。6000円。日釣り券が1500なので、4回行けば元が取れます。安いものです。

 

 それに比べると、最上川第八漁協はどうでしょうか?!アユについてはたった250キロしか放流しないのに、日釣り券はなんと3000円(現場加算は+500円)もするのです。年券は1万円(10000円)。山形県で一番高い!!!よくも県が、内水面漁業管理委員会が承認したものです。絶対高い!高すぎる!!

 小国川みたいに組合として一生懸命河川の管理や養殖、放流事業に取り組んでいるのならまだしも、たった250キロのアユを放流しただけで、いかにも養殖放流事業をやっていますなんていえたものである。あきれてしまう。250キロを隠れ蓑にして、漁業権に胡坐をかいているとしか言いようがない。

 釣り人が団結して、何とかこれを覆す、大幅に安くする、せめて他の河川並みにするという行動を起こせないものでしょうか?手始めに、山形県や内水面漁業管理委員会に抗議の電話やメールを出し続ける、その輪を拡大していくというのはどうでしょうか?

 

 寒河江川ではチェリーランド(道の駅)の向かいに入りました。広い砂利敷きの駐車場の向かいにある中洲の奥の支流に入りました。ここは川幅も20メートルもない浅い瀬やチャラ瀬が続き、浅いトロ場になります。先行者が1人。

 右岸側から左岸のへチをねらいましたが、ポツポツとかかりました。思っていたよりも大きいアユもかかり、15㎝から19センチのが6匹。

 いい型のアユがとれたので、支流から本流の瀬を攻めることにしました。見るからによだれが出そうな荒瀬から深瀬に代わっていくところなのですが、約150メートルくらい釣り下るも、うんともすんともいいません。ここで貴重な時間をむだのしてしまいました。

 ここの更に下流の瀬には釣り人が4人いますが、そこに左岸からお邪魔しました。結構強い瀬で、下流の人はかけては釣り下りタモに受けていました。

 ようやく私にも当りがあり、17センチくらいのがかかりました。右岸寄りでかかったので、右岸に入っていた人がいなくなったため、右岸に回り、竿を出しました。これが正解、3匹追加しました。

 でも小さいです。支流の左岸ヘチのアユの方が大きい。これで丁度10匹。ツ抜け成功!!これだけで十分です。(情けない・・・)というのも、メインはあくまでも最上川ですので。

  寒河江川のまとめ; 

 ・竿は、ダイワ硬派「剛」早瀬抜き95(最上川用のものを使用)

 ・糸は、東レのメタル0.03号

 ・ハリは、6.5号クラスの4本イカリ

 ・時間は、10:00-12:20

 ・釣果は10匹(15から19センチ)

 とにかく、アユはいたるところにいることはいます。今日の水量は丁度いい。


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11日の釣行。その2

2006-08-12 22:30:29 | 最上川

 この写真は、最上川の下流域、もう少しであの有名な清川の手前、立谷沢川との合流点での写真です。

 ちなみに私は写っていません。写真を撮ったのが私ですが、フォーカススイッチを通常モードではなくマクロモードにしていたため、写りがよくなかったのであって(カメラの性能がよくないのはもちろんですが)、被写体の仲間がよくないからではありません。

 足元の流れは立谷沢川からの流れで、その奥に小さい中州、その奥に最上川の分流、更に奥に大きい中洲があって、その奥が本流となっています。川幅がとても広いのです。

 ここに着いたのが、12時を過ぎていたこともあり、まず腹ごしらえをしてから、竿を出すことにしました。その前に缶ビールで、天気に・妻に・仲間に・川に感謝の気持ちを込めて乾杯しました。

 いよいよ今日のメインイベント、最上川本流でのアユつりの開始です。12時50分スタート。

 最上川は、その昔NHKの連続TV小説「おしん」でも有名になったのではないでしょうか、おしんが冬の最上川を下って酒田へ丁稚奉公に行く場面が思い出されます。日本3大急流といわれていますが、個人的には今の最上川にはそんなに急流はないといえるのではないかと思います。押しは強いですが。

 舟運が江戸時代から発達したところですが、その背景には風があります。強風、最上川の下流域は強風、特に午後からの強風で舟運が発達したわけです。ここから少し下流に行けば、強風を利用した風力発電が行われている立川町があります。

 ありがたいことに、風は大したことがない、このくらいならここではかぜとはいえないくらいの風でとっても助かりました。

 5人全員が、一番奥の本流の瀬に入り、左岸から竿を出しました。いくら渇水で水量が少ないとはいえ、そこは最上川です。流れは強く、とても対岸へは行けません。ぎりぎり竿を出しても川幅の半分までも届きません。

 私の場合は、なかなかかかりません。おとりは、大きい方がいいだろうと思い、養殖おとりにしましたが、背バリでは潜ってくれません。水中でひらひらしているのが見える状態でした。私の上流側に入った釣り友はすぐにかけていました。アユはいるのです。ハミあともそこそこあるし。でも自分にはかからない。

 いったんここを見切って、動くことにしました。動くのは得意です。それから毛沢東ではありませんが「長征」をしました。しかし、浅いところで1匹、小型鮎がかかったのみ。

 長征をすること約二時間、結局前のところに戻ってきました。その前から、仕掛けはホクエツの複合メタル超極細で、背バリのほかに鼻に近いところに少し小さいおもりも使用しました。

 それがよかったのか、場所がよかったのか、2時間後の元の場所で4匹かかりました。嬉しかったと同時にほっとしました。

 結局、15:50までの3時間で5匹という結果に終わりました。水温は25度。水量も3時間後には前よりも10センチ近く減水しました。

 本来最上川のアユといえば大アユのイメージがあるのですが、今年はまだ早いのか大きさは19センチくらいではなかったかと思います。(広瀬川のアユはいかに初期から大きいことか!!)これからが楽しみです、本番です。

  さて、その1の写真ですが、もう既にお分かりのように、私が釣ったものではありません。仲間とともに釣ったアユです、少しでも一杯釣ったように見せようという仲間の暖か?心遣い?の賜物です。

 長い話に付き合ってくれて感謝します。

コメント (2)
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11日の釣行です。その1

2006-08-12 21:46:29 | 最上川

 実質二日間のご無沙汰です。お元気ですか?

 七夕が終わって、仙台は朝夕めっきり(はまだ少し早いか)、かなり涼しくなってきました。日中は日差しが強くて暑く感じても、陽が落ちてしまうと一気に涼しさが訪れます。

 だから。朝夕は過ごしやすくなってきました。

  写真は鮭川と最上川での釣果ですが、これは・・・・・・(あとで)。

  今年初めての「青葉カワセミ会」の会員5人による山形釣行となりました。

 朝6時に集合・出発して、帰宅は午後8時になり、丸一日遊ばせていただきました。自然の懐、川と空気と青空と入道雲に包まれながらドライブと釣りを楽しませていただきました。感謝です。

 5人と5人の荷物を一台の車に積み、それでも座席はゆとりがあり、ドライブ中は釣り談義に花が咲きました。地球温暖化防止のためにも、自然環境保護のためにもいいことをしたと思っています。

 例によって、前置きが長くなってしまいました。

 車中で話し合った結果、鮭川にまず入ってみて、下りながら最上川との合流点近くまで行ってみよう、それでも駄目なら最上川の下流域に行ってみることも考えました。

 いつも通る鮭川への道が工事中?のため通れなくなっていて、迂回したりしましたが、カーナビのお陰ですぐに沓沢オトリ店に着きました。HPを作っている親父さんは仕事で外出中でしたが、奥さんが丁寧におもてなしをしてくれて、相談や質問にも丁寧に対応してくれたし、何と一人一人に自動販売機から缶コーヒーを取り出して、サービスしてくれました。そうそう、オトリも1匹小さいのが入ったからと、もう1匹追加してくれました。

 日釣り券1,600円、オトリ2匹で1,000円合計2,600円。

  まず、近くの観音寺橋下流の瀬に入って竿を出していてくれ、一時間後くらいにおやじさんが軽トラックで様子を見に来てくれるというのです。

 先行者が一人いて、瀬尻で竿を出していました。聞きしに勝る渇水です。親父さんがHPでいつも一雨が欲しいと嘆いているのも頷けます。

 何年か前に来たことがあります。その時は1匹も釣れませんでした。いい記憶はありません。

 5人で竿を出しましたが、オトリ10匹のうち5匹を使って、後の5匹を最上川用に取っておこうと、一人1匹のおとりで開始です。

  瀬の上流の浅いカガミにふたり、瀬の上流と下流に一人ずつ、瀬の下のトロ場に一人という形で、9時20分頃に竿を出したわけですが、数年前と同じく瀬に入った人によくかかりました。水温27度。

 10時10分くらいに親父さんが軽トラでやってきましたので、私が代表していろいろ話をしました。手製の地図を渡され、下流域のポイントを教えてもらいました。この時点で多い人から7匹から1匹という釣果。大きさは大きくない、小さい。15から16センチくらいで、オトリの方が大きい。

  私は3匹。

 ・使用竿はシマノのαズーム鮎XL先掛R H2.5(穂先はリリアン、購入年はH8年だ から10年前の竿です。ちびアユのため柔らかい竿にしました。) 

 ・水中糸は、ナイロンの0.175号(7/9に使用した仕掛けをそのまま使用し ましたが、大丈夫でした。)

 ・ハリは、6。5号の3本イカリ 

 みんなで話し合った結果、下流域に移動することにしました。

 ところが、今日は平日であるにもかかわらず、橋を目標に、何処に行っても釣り人がいるのです。それだけ、アユ釣りに飢えていたのでしょうか?これでいいのでしょうか? よさそうなところには、人が張り付いている、5人は入れそうもない。空いているところは釣れそうもないところ。 とうとうほぼ最下流まで来てしまいました。

 話あった結果、この際だから、思い切って最上川の下流部に行ってみようと、少し冒険をしてみることにしました。


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鮭川と最上川

2006-08-11 22:40:58 | 最上川

青葉カワセミ会の五人での釣行。

鮭川(観音橋下流)と最上川の下流域(立谷川の合流点)に入りましたが、疲れたので、詳しいことは明日お知らせします。

どの川も渇水で、釣りにくくなっています。一雨が欲しいところです。


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広島・長崎原爆忌

2006-08-09 23:33:52 | 思いつくまま

 6日に廣島の原子爆弾のことを書こうかと思っていたのですが、不遜にも最上川に釣りに行ったりして、鮎釣りを優先しそのままになっていました。

 今日9日は廣島に続いて長崎に原子爆弾が落とされた日です。

 早いもので60回忌を超え、今年は61回忌となります。人間で言えば還暦が過ぎてしまったことになります。

 今朝のTVで知ったのですが、廣島の原爆ドームのすぐ近くに超高層ビル(マンション?)の建設が予定されているとか。それを知った、吉永小百合さんたちが反対を表明したということでした。

 原爆ドームの付近は世界遺産に登録されていると思うのですが、それなのにそんなビルが建っていいものでしょうか?建てる方も、建設を許可する方も何を考えているのでしょうか?

 廣島の原爆被害者の慰霊祭に、日本の将軍様小泉が出席しましたが、出席しただけで被害者の人たちとの話し合いには出ませんでした。

 そして、今日長崎の原爆慰霊祭にも首相は出席しましたが、何とその席で8月15日に靖国神社に参拝するようなことを発言していました。何と言う傲慢、無神経さ、呆れてしまいます。

 無謀なアメリカとの戦争に突入しなければ、冷静に考えてみれば誰にでも勝つことは不可能な太平洋戦争をしなければ(これは今だから言えることであって、当時の雰囲気としてはやむをえなかった、冷静な判断ができる状態ではなかったという考えもあるでしょうが)、日本は原爆を落とされることはなかったはずです。

 また、200万人以上もの日本人が死ぬことはなかったし、靖国神社なんかに祀られることもなかったなかったはずです。

 

 何からどう書いていけばいいのか分かりませんが、原爆について、詩歌・小説・ドキュメンタリーとか一杯書かれています。写真集も一杯出ています。

 私が始めて原爆の被害について知ったのは小学校の図書館の本からでした。親から教えてもらったことはないし、授業で教えられたのでもないように記憶しています。小学校3年生前後でしょうか、学校の図書館にたまたまいったのか、何で行ったのかはまるっきり覚えてはいませんが、図書館で目に留まったもの、それが原爆の恐ろしさを伝える写真集だったのです。

 正直恐かったです。本を手に取るのにも怖かったです。見るべきか、見てもいいものか悩みつつ、本棚から取り出し、恐る恐るページをめくりました。原爆の惨状が、死者たちの怨念が襲い掛かるようで、こわごわ見続けたと思いますが、全てを直視できる精神状態ではなかったと記憶しています。

 見なければならないという脅迫観念みたいなものが一方ではあり、一方では見るに耐えない、もう見なくてもいいという声もあり、そういう葛藤をしながらも何かに取り付かれるように写真に見入ったように思います。

 白黒の写真がなおのこと怖さ恐ろしさに迫力を与えているようでした。

 まだその本はあるのでしょうか?もうとっくにないでしょう。でも新しい原爆の惨状を知らせる別の本が書架に並んでいるのかもしれません。

 

  そして時は流れ、大学生になったとき再度原爆のことがよみがえってきました。それは大人向けの週刊誌に連載された漫画でした。原爆を扱った漫画が週刊誌に掲載されていたのです。「はだしのゲン」ではなかったように思います。大人が主人公の原爆を背景にした漫画でした。作者も題名も週刊誌名も思い出せませんが。

 それから、原爆のことをもっと知ろうと思い、いろんな本も集めたり、実際に長崎や廣島にも行ってきました。原爆資料館も見てきました。ショックでした。特に長崎の資料館で見た、アルコールに浸された胎児の標本が一番ショックだったと記憶しています。

 岩波書店発行の本。長田 新著「原爆の子」。

 これが凄いとしか言いようのない、体全体が打ち震えるような深い心の底からの感動を与えてくれました。涙無くしては読めませんでした。自分でも不思議と思うくらい涙が出てきて、出てきて止まりませんでした。特に低学年の子どもが書いた文章がせつせつと訴えてきます。

 私は原爆のことを知るために必読の本を1冊挙げよといわれれば、躊躇なくこの本を推薦します。

 低学年の子どもが、自分も負傷しながらも、自分の言葉で、ひらがなが多く、飾ることなく、静かに、淡々と、声高に叫ぶのではなく、とつとつと、時にたどたどしく、自分が見たこと、経験したことを書いています。それだけに、それだからこそ、真実というものが浮かび上がり、それが読む人を深く感動させ、厳粛な気持ちにさせるのでしょう。 興味のある方は、是非とも一読されることをお勧めします。

  人間の愚かさはいつになったらとまるのでしょうか?人類としては未来に向かって進むほどどうしようもなくなっていくというのはなんと言う皮肉でしょうか?

 キリストやシッダルタを超えるような人は、出てこないのでしょう。  

合掌


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女子プロレス

2006-08-08 21:14:48 | お知らせ

 今、GAORA(735CH)で、録画ですが、仙台女子プロレスリング(センダイガールズプロレスリング・略称:仙女)の旗揚げ興行を観て来ました。

 仙台女子プロは「里村明衣子」によって去年設立され、新人が4人(15歳から20歳という若さ、今年としたら16歳から21歳か)加入し、試合に向けて猛特訓してきました。 実際には7月に旗揚げしたわけですが、特訓の成果が現れて?よかったです。

 新人4人のデビュー戦ということになったわけですが、4人のうち4番目に出てきた四国出身の娘がよかった、近い将来大成するというか、強く逞しい女子プロになりそうで、将来が楽しみです。

 何と言ってもあの尾崎魔弓と互角に戦ったのですから。結局は負けましたが、最初は余裕を持って闘っていた尾崎が後半は本気になって戦い、何とか勝利をものにしたのですから。

 そして、なんと言っても最高だったのは、最後の試合、里村明衣子VSアジャコングの一戦でした。無制限1本勝負。 それまでの4試合が少し?物足りなかったせいもあるのでしょうが、両者とも本当に死闘を展開したといっていいと思います。

 亀田何とかの試合とは全然違います。同じショーでもこっちのショーの方がはるかにハラハラドキドキして楽しめました。

 

 仙台は今日で七夕まつりもおしまいとなり、今日が立秋ということもありますが、秋の気配が漂い始め、お盆を過ぎると一気に秋がやってくるようになります。

 そして鮎釣りも本番を迎えます、短いですが。

 カワセミ会の皆さん、いよいよこれからです。一杯親孝行ならぬ奥様孝行をし、子どもともたくさん遊んで、快く送り出してもらえるようにしましょう。

 これで、仙台にはプロスポーツの団体が4つもできたことになります。サッカーのベガルタ仙台・野球の楽天イーグルス・バスケットのエイティナイナーズ・プロレスの仙台女子プロ。

 4つとも順調に成長発展してくれればありがたいのですが、果たしてどうなることやら。(とはいっても、私は4団体の試合は一回も見たことはありませんが)


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