津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

延元様玄也公御一代之御儀覚書 - 1

2010-01-12 11:36:52 | 歴史
    幽齋公室光壽院(麝香)御実家の沼田家実記から、「延元様玄也公御一代之御儀覚書」を、
    数回に渡りご紹介する。

 光兼---+--光長---+----女
      |       |   ∥
      |       |  竹田梅松軒
      |       |
      |       +----女
      |            ∥
      |           松井康之 
      |
      +--女(荒川治部少輔晴宣室)---菅野輝宗
      |
      |                  篠山五右衛門    篠山与四郎
      +--女(飯河山城守信堅室)---飯河豊前宗祐---長岡肥後宗信
      |                     慶長11年7月父子共に誅伐さる
      |                     
      |       +--女(細川興元室)
      |   1    |   2       3
      +---清延--+---延元---+--延之   +--延相---兼辰
      |                |  4    |        5↓   6     7         
      |                +--延将---+=========兼辰---元昭---将休(熊五郎)
      |
      |  細川藤孝(幽齋)---+--忠興---忠利     
      |     ∥        |
      +-----麝香        +--興元  
      |
      +---女・北畠左衛門佐教正室---女・米田求政室
      |
      +---女・進士美作守国秀室-----進士作左衛門(田辺城籠城)
      |
      +---女・築山弥十郎貞俊室(義晴命により藤孝生母付き)



一、元亀三年壬申月日不知京都御誕生字小兵衛後長岡勘解由左衛門延元
一、御父道安様 称沼田勘解由左衛門清延後称道安 御代公方家江被成御近習若狭國隈川城主永禄八年
   公方義輝公号光源院殿為三好氏御切腹被成候以後道安様御浪人被成其後丹後へ御越 忠興
   様ニ御懸被成中山ニ居城被成候延元様も同中山ニ被成り御座候由之事
一、延元様御幼少之時分より御意智荒ク御座候よし御若軍ひ被成御座候刻中山之御城御日待御座
   候ニ付御城内を潔斎被仰付信心被成候處に御夜食之出申候時分御料理人其等御意ニ違申候と
   て延元様抜打ニ彼者を御成敗被成候就夫 道安様御勘當被成向後御對面被成間敷候間急度御
   城を御出被成候様にと被仰候 延元様被遊御浪人御覚悟被成候処に早々御出被成候将と御使
   及再三申候然処坂井金内と申者坂井武兵衛祖父ニ之丸に罷在申候ニ付御袋様より延元様御儀 道
   安様之被損御機嫌唯今御浪人被遊候間可然様頼思召候由御使者御座候依之金内早速罷出御
   父子様御中直り御座候其時之為御褒美 延元様より 道安様御細工ニ御打被成候御鞍金内に
   被為拝領候由御座候事
一、其後御小姓■屋根の繕をいたし候迚ひさしの上に上り居申候彼者何とそ慮外を働申候哉延元様
   ひさしに御あがり被成御小姓を御手打ニ被成候此者脇さしを抜合申候然共深手にて御座候處に
   村越久右衛門村越惣左衛門祖父其侭屋根へ上り彼者を下タへ突落し久左衛門もとび下り留を指申候
   御小姓脇差を持なから落申候其のとき何と仕候哉 延元様御額に少し當り其疵跡後迄御座候叓
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「武士の家計簿」

2010-01-11 17:32:49 | 徒然
 YoHoo!ニュースの「エンターテインメント」を見ると、磯田道史氏の「武士の家計簿」が映画化されることを報じている。著者の磯田氏が「まさか!」と驚いておられるようだが、氏が仰るように「ちゃんばらない時代劇」の目の付け所が面白く、期待できる。

 磯田氏は神田神保町の古書籍店の「販売目録」を見て直感し、お金を下ろしてお店に走りこみ、ダンボール製のみかん箱に納められた36年分の家計簿を発見されたのである。羨ましい限りでは有る。しかしながらこれを読み解くのも至難の業である。100%完了したのだろうか?。加賀前田家と肥後細川家とは事情がいろいろ違うだろうが、此処から教えられることは多い。「肥後中村恕齊日録」や「佐田右平日記」に親しみ、当方にも玄祖父上田久兵衛の日録が残されその読み下しに悪戦苦闘している私としては、「ご同慶にたえない」という思いである。

 仲間由紀江、堺雅人を主演に中村雅俊、松坂慶子、草笛光子、西村雅彦という錚々たる人たちの出演だそうだが、完成を楽しみに待ちたいと思う。

 今日は布団に入って210数頁を一機に再読しようと思っている。
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67爺8時間飲む

2010-01-11 14:27:41 | 徒然

 一昨日は長男の家で祝い事、昼の三時から飲み始め終了は夜の十一時、腰を据えて8時間飲むのは久しぶりで、一夜明けた昨日は起床後暫くは朦朧の世界にあった。頭痛も胃痛も無いのだが・・・動くのが億劫でブログのタイピングをするのさえ一仕事だった。
今日は祝いの席に来てくれた友人と所用で会うと、「大丈夫だったですか・・?」と開口一番。「ああたは私より三つ兄貴ばってん凄かなー」と感心しきり、私とて想わぬ実力をご披露して正直驚いてしまった。

 先様も相当な酒豪なのだが、其の彼に一目置かせてしまった。
67爺の肝臓はまだまだご健在であった。何方かの言ではないが「肝臓に一献差上げたい」気分では有る。

                 

        
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有吉家御家傳略 - 10 (了)

2010-01-10 14:04:39 | 歴史
一、武蔵守様第三之御娘 すき 後壽■ 福嶋左衛門大夫殿浪人京都居住柏屋 冨田共 与兵衛と申
   人ニ御嫁被成候男子四人有り
一、一男助之進後ニ英貴君御家名を被授有吉助之進と申候弐百石ニ而御家士ニ被成候當御國
   ニ而出奔して京都ニ蟄居ニ而御座候を弟市郎兵衛殿より英安君二御断ニ而御呼下ニ而市郎
   兵衛殿御育置候処牢人者と喧嘩して討果申候事
一、二男吉十郎と申候御家士佐々勘左衛門と申者ニ養子ニ被遣候當御國ニ而助之進一同ニ出
   奔して同所居住ニ而御座候市郎兵衛殿知行所ニ御遣被置剃髪して冨田無休と申候事
一、三男有吉雅楽殿 後市郎兵衛 御家名被授寛永十三年英貴君より 忠利公江雅楽を被召仕被
   下候様佐渡殿を以御願被置候処御児小姓二被召出同十四年御知行五百石被為ハ遺領候事
一、四男冨田半十郎殿と申候御知行五百石被為拝領候冨田小左衛門殿先祖ニ而御座候事

一、有吉清助直常主
   英安君證人御養子木下織部殿 憲近 之二男御母ハ英貴君第三之御女なり万治二年英安君之
   證人として御家名被進有吉清助直常主と申候同九月江戸江御登り英安君江戸ニ而御病気ニ
   付而京都迄御出被成彼地石井三左衛門宅ニ而同五月十一日御歳廿六ニ而終ニ御卒去被成
   候依之御跡目之儀ニ付而■々■樹院様英安君御母公御存念之筋有之 綱利公御意之趣ニ應し
   給すニ付き佐渡殿監物殿御扱有之候得共御承引なくして御跡目儀隙取申候御跡式貞之君江
   被仰出候常覚院様と奉申候昌傳院様御嫡子其時分千五百石之別禄ニ而御番頭御勤被成御座候 清助主江者於
   江戸ニ新知千五百石被為拝領候帰国被仰付志水伯耆殿組之着座ニ被召加其後御番頭被仰
   付鶴崎御番代御加増五百石被為拝領其後御備頭被仰付千石之御加増清助主御子清九郎直
   春主と申候事



佐々木有吉------有吉立言 ---+
                     |
 +-----------------------+
 |   武蔵守
 +---有吉立行---+--興道----+---貞之・・・・・・・・・・・・・・・→ 有吉本家
 |           |       |
 +---芦九太夫   |       +---勝之 絶家
             |
             |       +--●大木織部嫁---○
             |       |             ↓
             +--英貴---+---英安========直常・・・→ 有吉分家・英貴流
             |       |
             |       +==市郎兵衛(雅楽)・・・・・・・→ 有吉分家・市郎兵衛流
             | 三女
             +---●
                 ∥-------- +--有吉助之進 有吉家士
          冨田与兵衛重冬     |
                         +--●(松野亀右衛門・嫁)
                         |                 二男
                         +--●(堀新五右衛門・嫁)---藤松
                         |                   ↓
                         +--戸田吉十郎 有吉家士
                         |
                         +--有吉雅楽 有吉英貴養子となる
                         | 光尚殉死           堀新五左衛門二男藤松
                         +--冨田小左衛門========小左衛門・・・・・→冨田家
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有吉家御家傳略 - 9 (嶋原一揆 ・ 2)

2010-01-10 12:20:59 | 歴史
 英貴君御馬乗中手負左之通

 鑓手 葛西惣右衛門      鑓手 戸田十之允
 鑓手 井上左門         鑓手 本間縫殿
 鑓手 原田三大夫        矢手 木部清大夫
 矢手 篠原角右衛門      鉄炮手 岡部形右衛門
 鉄炮手 斎木三左衛門     鉄炮手 中山半左衛門
 鉄炮手 渡邊傳左衛門     鉄炮手 生地貞右衛門
 鉄炮手 武藤山三郎       鉄炮手 門司喜左衛門
 鉄炮手 荻野兵助        鉄炮手 長坂五郎兵衛
 鉄炮手 岡田作左衛門     鉄炮手 中松傳助
 石手 團六左衛門        石手 岡沢兵左衛門   
 石手 岡崎治部左衛門     石手 竹崎忠兵衛

一、御小姓
 鑓手 佐久間武右衛門    鑓手 岸助之丞
 鑓手 安藤一郎兵衛      鑓手 宮崎猪兵衛
 鑓手 渡邊助左衛門      鉄炮手 三嶋次郎兵衛 
 鉄炮手 得増初大夫      鉄炮手 藤田仁右衛門

一、御馬乗討死
   甲斐喜左衛門        岡部上田多門
   午田七左衛門        北見仁右衛門
   喜多作左衛門        松山与兵衛

一、寛永十五年五月五日ニ英貴君江為御褒美来國光之御脇差并白銀三百枚御拝領被成候事
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有吉家御家傳略 - 8 (嶋原一揆 ・ 1)

2010-01-09 10:55:22 | 歴史
一、肥前国嶋原の城主松倉長門守重次同國唐津の城主寺沢兵庫頭忠高ともニ政道正しか
   らすして四民大に困窮す今年寛永十四年十月より肥後宇土前領主小西攝津守行長浪
   人益田甚兵衛好次と云者切支丹宗門を修し其子天草四郎大夫時貞を伴乱を起す嶋原
   之城を攻城主は在府にて留守居防事を不得して隣国ニ加勢を乞申候寺沢領分肥後天
   草ハ益田甚兵衛浪居之地にして各是に語ふ者多し此由熊本より府内御目附牧野傳蔵
   殿林丹後守殿え忠利公光利公御在府ニ付き御三老より被仰達候忠利公光利公江も早
   打を以被仰上候事
一、御目附衆両人高瀬江御越ニ而長岡佐渡殿英貴君を被召呼候ニ付御両人高瀬江御越
   被成候処委細嶋原の様子御尋御時分之下知も難及江戸江御伺ひ御下知次第と有之
   先他國の加勢被制旨ニ付其意を御受被成御引取被成候若又江戸之趣ニ依て加兵被
   差出趣有之時之ため兼て御定之趣を以長岡佐渡殿 英貴君 長岡監物殿被仰合候得
   而御内用意御座候内賊徒夥敷蜂起し寺沢老臣天草富岡城代三宅藤兵衛重利と所々
   にて戦ひ本渡廣瀬ニおゐて終に三宅を討取申候然るに上使板倉内膳正殿御下向にて
   鍋島信濃守寺沢兵庫頭を以嶋原の賊を罰せん事を命す然所肥後天草ニも一揆有るを
   以上熊本人数是を罰せよとの旨ニ依て拾弐月三日英貴君御手兵七百四十人隊下之士
   卒合弐千六百餘人被召達天草表江御越被成候処早速引拂申候彼地は相納り申候二
   付御引取被成候事
一、上使として松平伊豆守殿 信綱 戸田左門殿 氏綱 を被差下九州の兵を以鎮征すべき旨
   被命同十五年正月元願(ママ)ニ城を攻て利なし此時上使板倉内膳正殿 正重 鉄炮ニ中
   り被卒候同二日光利公川尻より御出船ニ而嶋原江押渡り給ふ同廿六日忠利公も嶋原
   江御着被成候ニ付佐渡殿英貴君其外隊下を被卒御迎ニ御出被成候ニ付直ニ御陳営江
   御入被成候事
一、同年二月廿八日惣攻ニ相極居候処同廿七日英貴君御時分仕寄場江有合者共拾四人
   被召三ノ丸よりニノ丸江御乗入被成候小屋江居申候士卒追々聞付て馳付申候英貴君
   御家士三ノ丸江早々乗入候者ニは戸田十之丞・菅五太夫・原田三大夫・荻野兵助・石
   田櫓右衛門 御鉄炮頭ニハ岡部上田形右衛門組之鉄炮弐拾挺真先ニ進ミ押並三ノ丸よ
   り打出申候敵方之鉄炮ニ指向ひ能矢板を打せ二ノ丸之堀二着城中絵乗入らんとする時
   城中より鉄炮ニ而股を打ぬかれ申候ニ付き引取申候様御弓頭篠原角左衛門申候ニ付
   組を角左衛門江渡し其場引取申候形右衛門嫡子岡部多門一同ニ居申候処敵之横矢の
   鉄炮ニ中り即座に死申候鉄炮頭斎木 菅沼 半左衛門組之鉄炮弐拾挺を左右に備へ三
   ノ丸江乗込二ノ丸ニ向て鉄炮を散々に打合二ノ丸ニ乗込申候此時嫡子斎木三左衛門を
   以添頭として一所ニ有りて相働しが三左衛門鉄炮手を負引取申候御鉄炮頭長坂五郎
   兵衛仕寄場ニ手鉄炮手を負組支配不叶故に嫡子長坂右兵衛ニ直ニ組を渡し申候ニ付き
   右兵衛組之者共を立並て三ノ丸よりニノ丸江乗込本丸の大手口へ着申候処大手口より
   秱敷鉄炮を打出申候ニ付指向ひ組を働しめ鉄炮を打せ勢り合申候内ニ敵突て出る故ニ
   鑓鑓付て首を壱ツ従者ニ取せ申候御鉄炮頭名は善左衛門も組之者を卒て■りへて敵之
   城門を打志■ます御弓頭木部清大夫組之弓之者を卒三之丸より二ノ丸江乗入申候時
   須戸口ニ而敵防けるを得物之鉄炮ニ而敵壱人打倒し申候此時英貴君ニノ丸江御乗入被
   成候御馬験奉行井上 内藤 左門其外仕寄場江有合申候者共乗込申候御小屋ニ而聞付
   馳付る御馬乗ニハ山田五左衛門ニノ丸江乗込一揆壱人討取英貴君江追付申候渡邊傳
   左衛門もニノ丸江乗込須戸口ニ而戸こしニ鑓を突申候得而一揆壱人突伏申候武藤十左
   衛門御持鑓奉行して本丸下ニ付御側長柄を持て突入れ二ノ丸ニ而一揆壱人討取申候
   中松傳助も二ノ丸江乗込敵壱人討取本丸下ニ着申候御家司葛西惣右衛門嫡子同伊織
   岡沢岡崎兵左衛門一同ニ二ノ丸江乗込本丸下ニ着申候本間縫傳殿二ノ丸江乗入須戸口
   せり合之時分鑓を合敵突伏申候大山三十郎・斎木喜太郎御持筒頭中山半左衛門組之
   鉄炮を卒ニノ丸江乗入申候処城中より鉄炮ニ而服を打れ組支配不叶して井上左門ニ組
   を渡し引取申候岡田作左衛門も中山半左衛門一同ニ馳付本丸大手之升形ニ而一揆壱
   人突伏申候御長柄頭生地貞右衛門立川四郎兵衛組之御長柄を押来申候松田赤尾嘉右
   衛門御旛を引廻して英貴君御脇ニ備へ申候御家司有吉次太夫嫡子菅弾助御馬乗ニ
   者吉田五左衛門・西尾吉左衛門・戸田吉十郎・門司喜左衛門追々二ノ丸江乗込本丸下
   二着申候佐渡殿英貴君ニノ丸江御入二手火を放焼拂給ふ其後忠利公より上使の旨に
   任せ■引二軍可揚と被命故に英貴君より御家司井上左門・中山羽右衛門組之持弓之
   者共を卒先手ニ進て本丸堀の手に付居候者共を引取しむ葛西惣右衛門・同伊織・中松
   傳助・團六左衛門・荻野兵助・本間縫殿・斎木喜太郎・木部清大夫・生地貞右衛門抔は
   最初より先手ニ進て堀岸ニ月居候を引揚候得と井上左門・中山羽右衛門より示遣候得
   共其時松井式部殿 寄之 手より本丸江乗込候様子を見請申候ニ付如何すべきと仕候処
   に本丸内ニ火之手見へ申候ニ付取て返し本丸に乗込申候御家司葛西惣右衛門・同伊
   織御家士團六左衛門一所に而鑓を入れ惣右衛門一騎弐人討取鑓而を負ひ申候伊織も
   弐人討取申候六左衛門壱人討取本丸江一同ニ乗込申候其外御鉄炮頭斎木半右衛門・
   篠原角左衛門・長坂右兵衛・木部清太夫御長柄頭生地貞右衛門・立川四郎兵衛御家司
   有吉次大夫・嫡子菅弾助其外御馬乗前後左右ニ乗入り一騎討取申候 上使松平伊豆守
   殿 忠利公・光利公も本丸江入給ひ大将四郎がいえ燃残たるを火矢を付かけさせ是を焼
   立給ふ大将四郎が首を陳佐左衛門討取申候 上使松平伊豆守殿・戸田左門殿より有馬
   原之城落去致候ニ付諸将御帰陳可有旨被仰渡候ニ付三月朔日光利公御帰陳被成候同
   二日ニ忠利公御帰陳被成候ニ付佐渡殿 英貴君は被残置陳拂之上御帰陳可被成との
   旨ニ御座候事
  
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八昼八夜

2010-01-09 08:42:23 | 歴史
12/28「血脈断絶の危機」を書いたら、久しぶりに悪友がメールを寄越した。
「お前、熊本から江戸まで 八昼八夜 は無いだろう・・嘘はいかんぞ」という。
メールが酔っ払っているように・・・くどい。「これこれこうした文書に書いてある」と説明しても通用しない。我が奥方と同様で、私は「講釈師見てきたような嘘をいい」扱いである。「ものの本に書いてあるからと言って信用できるか・・」とうるさい。

事は肥後細川家の血脈が継承されるかどうかの話だから、嘘じゃーあるまいと思うのだが・・
(実は私とて ほんまかいな と、思ってはいるのだ)

 その人は杉浦仁一郎である。大役を自ら買って出て不眠不休八泊八日で江戸へ着いたというのである。白文であるが「杉浦仁一郎行状略」と云うものがあるのでご紹介する。

          諦観公薨于江戸邸、不有適嗣、當路之臣、有養幕府庶子為嗣而營
          利者、中川唯之允、時為留守居、相通謀議居多、唯之允欲聞事于
          諦了公、急發江戸而歸藩、當是時、満城之士、一心憤激、皆洞視唯
          之進之姦慝、有狙撃之機、唯之允疾赴ニ丸之臺而請旨、利口便侫、
          公允焉、又直退、遵白河至大江碩而津浦、始達城北之本道、於是政
          府議論紛紜、君時為奉行、亦大概之曰、宇土公族可為嗣也、議家老
          而自赴江戸、然唯之允行太急、至小倉不及焉、君命船人曰、今急奉
          公命而赴江戸、行遅則事不可成、乃晝夜兼行、手出所貯之金、以四
          十両爲一堆、又以三十両爲一堆、又以二十五両爲一堆、曰、某日某
          時而達、則餘四十両、某日某時、三十両、某日棒時二十五両、且曰、
          若怠惰爲遅潦、則有吾刀而已、是以船人相競且畏、不少休輟、四晝
          夜達大阪、時唯之允亦已達焉、是夕舟遡淀、而載夢行、君警機、即
          不僦舟、直命與丁行堤上、與速而舟太後、君四鼓至于伏見、於是始
          先焉、至箱根、山路太憸、夕稍至關、佯報曰、肥之行人中川某、急
          奉命而赴江戸、吏直開門、唯之允後至、通名刺、吏詰曰、■者有肥
          之中川某而過、豈有同人而再過乎、唯之允辨前人之詐名、然事不
          易名、以故滞留二日、是以太後焉、君至龍邸、與同志津田某等相談
          ■宇土侯在焉、幕府之子不可養之議、乗志忠正、成論剴切、拝姦黨
          之儀、唯之允至、志氣沮喪、請幕府以先公爲嗣、故五十五萬石之提
          封、忝得戴勝公以来正統之明公、眞君之力爲大矣、境野藕船之赴大
          阪、問船人曰、汝業舟楫、當數嬰風魚之難、船人曰、僕業航海、犯
          風■其常也、未足以爲懽矣、奉行杉浦君之赴江戸也、僕御其船、杉
          浦君公事之急、嚴期日時、晝夜屹然手刀、如僕輩不戒、則将身首異
          所、威容之可懽、今思之不寒而粟矣、君平日善讀平準書、終身以之
          爲學、松崎慊堂以思國之切、欲一謁公、君周旋竭力、與詰大夫議、
          始得成禮、君免職之後、構小室於水前寺、終身不濟白川、憤慨之節
          可想而已                 田中司撰

             (文中の境野以降は杉浦の行動には直接は関係ない。)

 すっかり悪者扱いニされている中川唯之允は、江戸留守居である。幕府の意向を伝える為に帰国して報告を終えると、すぐさま取って返している。宇土公を藩主に推すことを藩の意向と決すると、奉行・杉浦仁一郎が江戸へと出立する。大金を費やして早舟を雇い、四昼夜で大坂に着き、其の後は陸路を早駕籠で走る。馬であったのかも知れない。箱根までくると先に出た中川唯之允を追い抜き、関所では虚言をもってすり抜け八日目にして江戸龍口邸に駆け込んでいる。以下先のブログで書いた通りだが、これが八昼八夜の詳細である。藩主の死は一ヶ月ほど秘匿され、その間関係者が江戸-熊本間を上下し、重要な決定や難しい幕府とのやり取りを経て、無事九代藩主齊護の誕生を見たのである。
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うらやまし猫の恋 越人と芭蕉

2010-01-08 09:17:22 | 書籍・読書

うらやまし猫の恋―越人と芭蕉

 
著者:吉田美和子
価格:2,940円(税込)
出版社名:木犀社


あやしい猫の句に誘われ、越人のあとを追い、俳諧の深みにはまる。うちつどい興じるさんざめきのまにまに、尾張・伊良湖・更科・江戸深川…夢のような旅路の果てに芭蕉に捨てられた男の歯軋りが聞こえる-げに恐ろしい風雅の魔神の物語。

                 佐分利越人さんの為にも 「絶対読まにゃーいかん」 と早速注文しました。

【目次】
越人-北越からの流れ者
二人見し雪-『笈の小文』伊良湖への旅
道化を愛す-雪見にころぶもの
『更科紀行』への随行
深川の夜-江戸蕉門との交流
芭蕉の大垣帰還
『ひさご』-元禄三年の越人
『猿蓑』に潜む亀裂
「心に俗情あるもの」-越人伝説の生成
「離反」の真相-路通注進事件〔ほか〕

【著者情報】
吉田 美和子
1945年、岩手県に生まれる。東北大学文学部国文科卒業。主として大正・昭和初期の現代詩人論を試み、詩人尾形亀之助とその周辺を積年の課題とする。また江戸俳諧に親しみ、俳句・連句・俳画を楽しむ。1993年、市立小樽文学館「海の聖母-詩人吉田一穂展」を監修。主著に『宮沢賢治-天上のジョバンニ・地上のゴーシュ』(小沢書店1997年、第13回岩手日報文学賞賢治賞受賞)などがある。個人誌「木槿通信」を発行し、同名のホームページをもつ
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有吉家御家傳略 - 7

2010-01-08 08:50:39 | 歴史
 芦九大夫様之傳
一、立行君御舎弟有吉太郎助重吉様後芦九太夫様と奉申忠興公江御仕へ被成千石を給る
   所々ニおいて御戦功なり後ニ御暇御願被成其後加藤清正公江御仕候成禄千石給る
   其後又加藤家を御退被成豊前ニ御出被成候処内膳様御使立川小左衛門を被遣立行君
   御遺言として先年御拝領之谷頬を被遣候処御請被成立川小左衛門を御饗応被成又其
   後黒田長政公より千石之領知を可授と被申候得共奉公を不重とて御請不被成候ニ付客
   臣として千石被授然ども程なく御立退被成候其後数年を経て葛西惣右衛門京都江罷越
   候節御尋申上御見逢申上候処甚御歓被成りされば今生之暇乞じやと被仰武蔵守様より
   御形見ニ被遣候谷頬を拙者形見遣なりと被仰頬當被遣候事

 有吉舎人勝之様之傳
一、貞之君御舎弟有吉都練勝之様と奉申御知行千石ニ而御番頭御働被成候肥後國御拝領
   ニ相成候へ而熊本御見分として御先へ御出被成に而御郭御城廻等之絵圖を被入御覧候
   又忠利公寛永十一年正月於江戸難仕之御礼大國を御拝領ニ付而御行列も古へに異なり
   扨又今年家光公御上洛ニ付て忠利公も御上京之旨ニよつて舎人様も御警固之御人数御
   出被成候此時番所ニ大提灯を多くとぶしたるに三ツまたの作ニ而御座候ゆへ往来之障ニ
   成申候ゆへ舎人様御工夫ニ而竿ニ横手を御付被成提灯を御あげ被成高く御立被成候ニ
   付明りもよく往来之障ニも成不申候へ而第一見分よろしかりとなり夫より後も提灯之


佐々木有吉------有吉立言 ---+
                     |
 +-----------------------+
 |
 +---有吉立行---+--興道----+---貞之・・・・・・・・・・・・・・・→ 有吉本家
 |           |       |
 +---芦九太夫  |       +---勝之 絶家
             |
             +--英貴---+---英安・・・・・・・・・・・・・・・→ 有吉分家・英貴流
             |       |
             |       +==市郎兵衛(雅楽)・・・・・・・→ 有吉分家・市郎兵衛流
             +---●
                 ∥
          冨田与兵衛重冬
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上野中務太輔秀政という人

2010-01-07 20:21:43 | 歴史
 今迄全く気が付かなかったが、細川家家臣・上野案十郎家を「細川家家臣略歴」で見ると、家祖五大夫の前三代に「半四郎--中務太輔秀政--五大夫」とあった。
中務太輔は定かではないが、上野秀政ならば頭をよぎる人物がある。果たして同一人物だろうか。先祖附をまだ見ていないのではっきりしないが、足利義昭の寵臣といわれた上野清信の養嗣子に同名の人がいる。元の名を堀孫四郎といい填島昭光(云庵)の娘婿で在ったが義昭の命で、義父填島昭光により命を絶たれた。その子を昭光が育て、後「郡」の姓が与えられて細川家家臣となった。その上野秀政だろうか・・・・。

            足利義昭
                ∥
 +---上野清信---+--●
 |           |   堀孫四郎  
 +------●     +==上野秀政
       ∥            ∥------郡五左衛門・・・・・・・・・・→細川家家臣・郡家
   槙嶋玄蕃頭昭光(云庵)----●

 先祖附を早速手に入れて検証しなければならない。中務太輔というのが引っかかるが?
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猫の恋

2010-01-07 15:49:36 | 歴史
            猫の恋やむとき閨の朧月  芭蕉

 細川家家臣佐分利氏は織田信長の幕下に在ったが、加藤清正の宇土出陣の時、作左衛門・兵大夫父子共に罷越し、帰陣後共に八百石で召し出された。其の後加藤家を立ち退き上方に居住したが、慶長十三年父子共に夫々八百石で召し出された。兵大夫の孫に当る七兵衛(越人)は島又左衛門の三男で佐分利家の養子となった。
「好古類纂」に曰く
       越知越人、通称平次郎、眉山子と号す、肥後熊本の士にして、佐分利流槍術家
       なり。禄五百石を食せし、細川侯の近習たりしが、好色の癖ありて、吉原遊女を
       家に迎へ、之が為に改易せられ、徒弟の知行諸尾州知多に移住す。やゝありて、
       名古屋桑名町に染工の業を創め、菱屋重蔵と称す。御赦されて國に帰り、其主
       越中守の名を憚り越人を改めて蕗碩と号し、芭蕉に従ひ俳句を能くす。芭蕉其女
       色に溺るゝを見て、終らざるを憐み、曾て行脚の句ありしも、疎んして其家に寄食
       せず、越人之を後悔し、羨まし思い切る時猫の恋 の句あり。芭蕉其慙愧を嘉し、 
       後の選集に此句を加えしと云う。元禄十五年三月十四日歿す。
       著す所 不猫蛇蕉門正風仰説録 あり

 私は「無い所ねだり」で、「いいなー、豪傑だなー」とこういう人は大好きである。
その俳句も洒脱で楽しいし、著したものの表題も又センスに溢れていて嬉しくなる。
ちなみに「猫の恋」という季語は、「さかりのついた猫」のことを云う。
改めて越人の句を読み直すと、思わず笑いたくなるではないか。(無念さが・・・?)
そして芭蕉の句はさすがだなーと感心しきりである。

 佐分利家は三家が明治に至った。   
   
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有吉家御家傳略 - 6

2010-01-07 08:45:36 | 歴史
  頼母佐英貴君之傳 始平吉様
一、慶長五年七月田邊御籠城立行君ハ木附表江被成御座候興道君ハ忠興公江御従被成
   関東江御越被成候此時丹後宮津ニ而立行君二御次男御出生頼母佐様ニ而御座候御
   母君ハ御万様と奉申候宮津を御出被成京都江兼而御知音之寺あり天龍寺の塔頭良安
   寺と云此寺を御志被成御家司葛西左衛門入道行善ニ御臺所人壱人御茶頭壱人其外下
   々少々被召連御越被成候事
一、元和五年八月平吉様御家督被仰出候頼母佐英貴君と奉申候事
一、忠利公御備立を定置給ふニ付而英貴君御馬乗中御知行附を被差出候其節之御馬乗中
   左之通ニ御座候事

一、八百石 葛西惣右衛門         一、六百石 八坂又助
一、弐百石 葛西九兵衛           一、弐百石 斎木菅沼と改半右衛門
一、弐百石 徳永一兵衛           一、弐百石 沢太郎兵衛
一、弐百三拾石 生地久兵衛        一、弐百石 長坂五郎兵衛
一、弐百石 立川四郎兵衛         一、弐百石 門司喜左衛門
一、弐百石 上林長右衛門         一、弐百石 武藤十右衛門  
一、弐百石 中山半右衛門         一、百八拾石 岡部(本 上田)形右衛門
一、百五拾石 斎木半助           一、百五拾石 木部清大夫
一、百五拾石 松田善大夫         一、百五拾石 舟木次右衛門
一、百五拾石 中山羽右衛門        一、百五拾石 名玉善右衛門
一、百五拾石 松田(赤尾ト改)嘉右衛門   一、百三拾石 奥田杢右衛門
一、百弐拾石 原田庄右衛門        一、百石 豊■十兵衛
一、百石  西尾吉右衛門          一、百石 岡田作左衛門
一、百石  菅 五大夫            一、百石 山田作右衛門
     〆弐拾八人

一、寛永九年十月四日忠利公御途上不及御献上物家光公台命其方父三齋ハ度々當家ニ忠
   節を謁し且又其方多年吾西丸已来親切之奉公他ニ勝事祝着せり仍而今度父子之勤労
   を常ニ忘ざる験ニ肥後國十ニ郡五拾壱万九千餘石并ニ豊後國三郡弐万餘国都合五拾四
   万国を遣すとの上意有又三齋様を召て右之上意有其方ハ八代之城二居られよ然時は細
   國ニ於て何事有る共心安しとの上意にて御座候事
一、同年十ニ月肥後國へ御入國被成其後忠利公熊本二おゐて大身小身之面々江屋舗を被
   下候英貴君ニ三ノ丸御屋敷並河志广居住之屋敷御拝領京町村坪井竹部ニ而下屋敷御
   拝領御約束通御城主之御格ニ而御府中ニ御蔵屋敷被成御免竹部下屋敷ニ而御拝領坪
   井蔵と唱申候事
一、忠利公京町口之要害御巡見被成候へ而英貴君を召て京町御下屋敷割等御覧被成此所
   ニ外郭を御築せ給ふべし然ハ此所は薩州より豊前海(ママ)道之物口なり西ニ大身之屋敷
   を取置べし東ハ其方下屋敷なる間人の知たる者ゆへ此所ニ葛西惣右衛門を可置旨御意
   御座候ニ付奉畏候段御請被仰上候惣左衛門儀ハ 三齋様御代より御懇意被成毎度御前
   ニ被召出其後忠利公も惣左衛門前御通之節羽毎度御目見被仰付遠方迄抔被召連御事
   も度々御座候事
一、忠利公御意ニよつて京町御下屋敷浦出居外堀東方崖上迄堀通シ申筈之御縄張ニ而
   御座候此所御普請英貴君御時分之御人数ニ而御動被成候其節御鉄炮頭斎木菅沼と改
   右衛門御普請相勤候処右之外堀東之方崖上ニ而堀はじ通り畑三枚堀残し置候ニ付半右
   衛門江様子御尋被成候処半右衛門申上候ハ堀通し申候得而者崖上ニ而大雨之節水落
   候て崖抜可申候間只今残居候分者先堀残置可然段申上候ニ付御見聞被成候処尤成儀
   ニ被思召上候ニ付其通ニ被仰付置候其御成就仕忠利公御巡見被成候節右之所之儀御
   尋被成候ニ付英貴君右之通ニ被●上候若御用之節ハ御縄張之通何時ニ而も堀切を可申
   段被●上候処忠利公尤ニ被思召上候御用之時ハ堀切土手を築キ可申間夫迄ハ英貴君
   へ御預被成候段御意御座候ニ付英貴君半右衛門江其所直ニ御預被成候ニ付今以半右
   衛門子孫支配仕来申候又後年四郎右衛門貞親君 実相院様と奉申候 御代綱利公 妙應院様 
   京町御茶屋ニ被為入候節御茶屋詠次口より野得御慰ニ御出被成候節も右之被堀残置候
   訳合委ク被仰上候其後重而被為入候節之ために右三枚之内壱枚ハ道ニ被仰付其所ニ須
   戸口を御明被成飾之様ニ出入不支候様被仰付候事
一、寛永十年正月元旦年頭之御規式御座候英貴君豊前已来御禮申上来候面々を被差出候
   御家司葛西惣右衛門御鉄炮頭以下斎木菅沼半右衛門・生地久兵衛・長坂五郎兵衛・立川
   四郎兵衛・岡部上田形右衛門・武藤十左衛門・中山半右衛門・斎木半助・木部清太夫・門
   司喜左衛門 右之面々年始五節句御禮申上候事
一、忠利公御大國御拝領被成候ニ付而英貴君江三千五百石之御加禄を給る都合壱万八千
   石又忠利公御意被成候ハ其方家ハ武蔵守已来長岡之称号を授来候へ共於當家ニ有吉
   之名字者無隠旧臣なり将軍様ニもよく御存知なり先年内膳を大樹公御尋之節も長岡内膳
   と申上候得ハ有吉たるかと上意ニ付有吉なる由を申上候ケ様之事も有之候ニ付時代押移
   當家重代之名字なきが如くなるべし同ハ有吉の苗字相續可然候夫共ニ称号致度候ハゝ
   いつとても勝手次第ニ可改儀心次第と御意致成候ニ付家筋之名字相續可仕旨御請被仰
   上候事
一、寛永十四年八月藤崎八旛宮江忠利公・光利公 後光尚公真源院様と奉申候 御武運御長久の
   ため英貴君松井佐渡殿被仰談ニ而神前ニ鉄之燈籠を御寄進被成り永ク神籠を被献依之
   御代ニ御懈怠なく被献候又御祭礼ニ社僧等之乗馬かざり馬を被差出又後年鋒三本を御
   寄進被成候事
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有吉家御家傳略 - 5

2010-01-06 08:45:51 | 歴史
 長岡内膳正興道君之傳
一、天正十一年立行君二御嫡子御出生忠興君より与太郎と名付可然旨御意被成候ニ付
   与太郎様と御附被成候御母君ハ森和泉と申人之御娵ニ而御万様と奉申後ニ緑樹院
   様と奉申候事
一、慶長ニ年興道君 此時者与太郎康政君と奉申候 江弐千石之御擬作にて御側詰被仰蒙候事
一、同五年九月濃州岐阜之城主岐阜中納言秀信卿居城城責之時興道君御十八歳ニ而御
   初陳御家司葛西九兵衛正重を初田井助八・上田六右衛門・中村小八郎・馬場甚四郎・
   吉出甚助騎馬歩卒を相従へて瑞勝寺山より本丸江押懸る此時葛西九兵衛正重簀戸
   口ニ而羽柴越中守忠興内有吉与太郎康政と度々名乗けるが■より寄手の他国衆四五
   人見へ申候程なく城中より矢石を■したるが簀戸口を突て出るを興道君 此時康政君と奉
   申候 
一番ニ鑓を御合被成突懸る敵少引入けるを讀て簀戸口江御馳入被成候ニ付鑓を
   合突合ける処を興道君鑓を御■被成づと御引組被成小坂之上ニ而敵を御組伏被成候
   処一間斗り御ころひ被成候ニ付敵上ニ成候処を興道君下より敵之胸板ニ御自身之御
   甲之向立一ノ谷を以御者●かへし被成候と被成候時御家司葛西九兵衛正重興道君へ
   鑓を渡し九兵衛太刀打して敵を打拂簀戸口之内坂下ニ興道君敵と御組合被成候処御
   ころび落被成候ニ付敵上ニ成りたるを見て九兵衛取たる首をなげ捨上なる敵を一太刀
   打て引除んとしけるを興道君御者●返し被成押伏て首を御取被成候事
一、関ヶ原二手興道君大谷刑部少輔吉隆之幌武者古川太兵衛と互ニ御名乗合被成御馬
   上ニ而鑓を御合被成太兵衛を御馬上より御突落被成御飛下り被成り候得て直ニ首を
   御取被成候事
一、興道君福嶋左衛門太夫正則卿之備之前を御通り被成候時正則被申候ハ何連之手之
   衆と被尋候ニ付羽柴越中守内有吉与太郎康政と御名乗被成候處正則卿被申候ハ有
   吉と候得ハ四郎右衛門子息ニ而候哉手を被負候と見へ候殊ニ高名之験も見へ候若輩
   之躰ニ見事なる殊越中殿へ参會之節噺し可申と被申候事
一、丹波福知山城主小野木縫殿助田邊御籠城之節小野木大将たる故関ヶ原御陳之後忠
   興公御責被成興道君 与太郎康政君 御出陳被成候此時御家士田井助八福知山ニ而討
   死仕候事
一、慶長十三年正月興道君武蔵守様御跡目無御相違諸御格式共ニ武蔵守様節之通被仰
   出此時長岡之御称号并興之字御拝領長岡内膳正興道君と奉申豊前言田之御城主ニ
   而被成御座候
一、同十九年諸大名ニ命して江戸御城内之石垣を被為築忠興公江も此御役を被仰蒙依之
   惣奉行として内膳正興道君御人数を御指揮被成御精勤被成候秀忠公 台徳院様 御普
   請場を御櫓より御覧被成り忠興丁場之奉行ハ誰かと御尋被成候ニ付長岡内膳と申者
   ニ而御座候段被仰上候へハ有吉与太郎事かと被仰候ニ付き与太郎ニ而御座候段被仰
   上候処此方江召せとの御上意ニ付長井大炊頭様より只今登営可仕旨御普請場へ被仰
   下故早速御登城被成候大炊頭様御同道ニ而御前江被召出岐阜関ヶ原二而之様子ども
   被遊御尋候依之忠興公御働之次第被仰上候処其方働之様子申上候様ニとの御意ニ付
   御慎之被成荒増被仰上候へハ若輩手柄者じやと御側衆へも御意被成候左候へ而御普
   請場を御櫓より御覧被成候時大勢ニ而其方居候処不知ゆへ鑓を立置可申との御意ニ付
   奉畏候段仰上御側衆へ被仰候ハ上意ニ而者御座候へ共御城内之儀ハ御大名衆鑓遠
   慮之御格式ニ而御座候得ハ上意とは乍申恐多由を被仰上候へハ其旨達上聞至極所存
   尤なり然らハ為御目験持せ可申との御意ニ而其比御間中ニ千本鑓とて御飾有之候白熊
   茶筌之御鑓之内を被下旨ニ而無遠慮持せ可申すとの上意ニ而御座候ニ付き即日より丁
   場江御立被成候此段忠利公 妙解院様 被聞召殊外御賞美被成候事
一、興道君へ本田佐渡守様長井大炊頭様より猶又御登城可被旨被仰附下候ニ付御登城被
   成候処早速御前江被召出難有上意御座候へ而御両侯より此間之精功秡君羊(群)なり
   折々被為召御機嫌ニ被思召上候依之御秘蔵之御馬東本願寺より被差上候虵栗毛と申
   御馬長ヶ八尺也被為拝領随分秘蔵仕自然之儀も候ハゝ御用相勤候様との御意の趣両
   侯より被仰渡難有仕合ニ奉存候段御請仰上候事
一、興道君御登城之節御料理等折々御頂戴被成毎度之御懇意ニ付御持傳被成候芦屋釜
   御献上被成候事
一、元和年中ニ一國一城端城の外御制禁之旨被仰出有之候節被仰付候ハ言田之城二武
   蔵守以来在城被仰付置候得共今度被仰出候ニ付而者小倉中津の御城之外ハ御解被
   成候間小倉御城下ニ屋敷居住被仰付此節も丹後宮津之御城下ニ屋敷御住居被仰付候
   節之通直ニ御家柄ニ被為對御城主の各二被仰付置候屋敷江七段の門松を立諸事城下
   之格ニ可被相心得旨被仰出候依之小倉御城下ニ御引出候成御屋敷御住居被成候御家
   ニ七段の門松を御立被成候子細ハ丹後ニ而御城主之御約束之節安良之御城二被成御
   座候時分武蔵守様四郎右衛門様と奉申候時分天正六年正月三日攝州伊丹之城主荒木
   攝津守村重謀反ニ付而藤孝公忠興公御出陳有之候へ而正月三日荒木が端城二押寄給
   ふ時立行君城門を壱番ニ御乗り破被成■兵搦手より落去しけるゆへ御働之験ニ城門ノ
   七段之枩を御自身御抜取被成候得て御帰被成候藤孝公御父子御覧被成高名の験なり
   汝が陳やの門二可立置よ御意被成候其節松赤松なりしゆへ二其後御門松を片々ハ御
   城之松と云而黒松を御立被成片々ハ御武功之松といふて赤松を御立被成候を吉例とし
   て御約束の御城主之格ニ御座候ニ付七段之門松被成候依之御家中ニも五段松立て申
   候事
一、興道君元和四年九月二日御卒去被成候昌傳院様と奉申し候事
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舊漢字

2010-01-05 20:38:11 | 書籍・読書

舊漢字―書いて、覺えて、樂しめて (文春新書)


古文書を読む上で舊漢字の勉強は必定ですね・・・目からうろこがバラバラです。

文春新書
著者:萩野貞樹
出版社:文芸春秋
販売価格:924円(税込)



戰後の國語改革で一掃されたはずの舊漢字は、どっこい生きている。人の姓名や神社佛閣、はては暴走族にまで。その舊漢字を讀み、そして書く。これでこそ、よくぞ日本人に生まれけり。 アク 惡(悪)アツ 壓(圧)イ 醫(医)イ 圍(囲)イチ 壹(壱)エイ 榮(栄)エン 圓(円)エン 鹽(塩)オウ 歐(欧)オウ 櫻(桜)〔ほか〕

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有吉家御家傳略 - 4

2010-01-05 08:36:02 | 歴史
一、慶長四年十二月忠興公丹後國似被成御座候内家康公より豊後國之國之内国崎(ママ)郡
   速見郡にて六万石御拝領木付之御城御預被成立行君御當家御再興之御長臣ニ付以来
   城主たるべきと御家柄ニ付立言君安良御城主たりといへ共當時は宮津へ御屋敷御住居
   ニ而御城主之御格ニ被仰付置候ニ付立行君木付ニ御居城可被成旨依御意ニ木付御城
   御請取として御越被成候此時松井佐渡殿 康之 江検地被仰付候事
一、木付之御城二大友方より蜂起致し夜討之節立行君 此時も四郎右衛門様と奉申候 大友義統
   之士大将柴田小六統生■木二懸り軍卒を指揮する様子はるかに見へたるを小筒ニ而成
   がたきゆへ御船筒を御取寄被成御鉄炮之者岸助之丞が肩臺ニ而統生を御打留被成候
   右御鉄炮玉目六尺此御筒を柴田筒と唱申候事
一、石垣原ニ而立行君大友者頭源沢主水を鑓を御合御突伏被成る候へ者首を御取被成候
   此時御家士葛西彦四郎も鑓を可参候て言葉を懸突懸候大友方より甲ハ不着して胴斗着
   て鑓ニハ赤き印をつけ進ミ懸て彦四郎と鑓を合■突合けるが彦四郎突伏て首を取彦四郎
   立上る処ニ敵壱人馳付て彦四郎が真甲を一太刀切る彦四郎刀を取直し切懸る敵之腕を
   かけ刀當りけると覚けれハ敵其侭引取申候彦四郎面之疵深手ニ而候故其侭其所へ居申
   候谷長二郎も大勢之中ニ而鑓を合相働申候八坂又助も鑓を合突伏て首を取岸助之丞力
   戦して首を取申候其外木付勢粉骨を盡し相戦各々首を取申候大友勢大ニ乱て引退申候
   事
一、慶長五年十ニ月関東方忠戦の諸大名ニ恩賞之國郡を給ふ豊前国并豊後國之内国東郡
   速見郡を忠興公御拝領凡御知行高三拾九万石ニ而御座候
一、同六年四月立行君 此時も四郎右衛門様と奉申候 江豊前国言田(ユフダ)之御城御預被成候ニ付
   言田之御城主ニ而被成御座候木付之御城は松井佐渡守殿 康之 御預被成候事
一、豊前ニ引移以後御加禄を給ふ立行君江三千石之御加禄都合壱万五千石御拝領松井佐
   渡守殿 康之 五千石御加禄都合弐万五千石 忠興公 立行君へ長岡武蔵守と改可申旨
   御意御座候而御召縫延之御具足御拝領右具足ハ忠興公御自作ニ而西村与左衛門へ御
   手傳被仰付候御秘蔵之御召料ニ而其比御家様御具足と申候其節忠興公御意被成候ハ
   後藤又兵衛抔随分之者なれ共城井谷ニ而猩々緋の羽織ぬぎさりし様子の事あり四郎右
   は戦場ニ而壱度も不覚なき者なり古へ之武蔵坊ニも劣まし勝ら者今武蔵ニなしても災ふ
   もの有ルましと御意被成右之御意ニ而武蔵守様と御附被成候事
一、忠興公より立行君御拝領之御頬當ハ谷出羽守面躰を被成御写候像ゆへ谷頬と被成御
   付候右之御品御拝領之時分大■験を立行君へ被成御免白大四半絹五幅ニ而御定紋御
   附被成候此以前は御旗迄ニ而御座候事
一、忠興公御舎弟長岡玄蕃頭興元公御出奔ニ付て左備の大将を松井佐渡守殿 康之 被仰附
   右備之大将を長岡武蔵守立行君江被仰付候而両年寄ニ御定被成候事
一、長岡内膳正興道君 此時四郎右衛門康以君と奉申候 御家司葛西惣右衛門 始惣兵衛 立行君江
   申上候者元有様已来将監様御両代武蔵守様御大ニ至迄於御當家ニ数度之御忠勤御戦
   功之子細を為御後代之御家譜を御記被成る候へかしと申上候處立行君被仰候ハ功を立
   候事は新参衆の致事ニ而我等ハ御譜代長臣之家柄ニ而飾事ハ少も無之細川之御家立て
   有吉之名字さへ不絶之候て功之失事有間敷細川之御家ニ有吉と云名字不知者ハ無之後
   代迄も左あらんと思ふなり不入事をせすとも家之不絶分別肝要なりと御意被成候事

       (附箋有り・・別途紹介)

一、慶長十ニ年十二月十四日立行君御卒去御遺骸を御菩提所万歳山天聖寺ニ奉葬峯雲院様
   と奉申候御歳五十一ニ而御座候事
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