津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■完全敗退す

2020-09-25 07:04:58 | オークション

    

 昨晩9時半前ヤフオクで、注目していた「豊後大友氏・松野系図」なるものの入札が行われた。
1,000円代からスタートして4・5人が競って3,700円くらいになった。それぞれの入札者の入札実績を見ると好事者という感じ。
締め切り前になり急にこれが一桁UP して35,000円ほどになった。
時間ギリギリに突然参加の二人が競ってのことだが、やり方といい、入札実績数といいどうやら商売人のようだ。
金欠病の爺様としては、一回も応札することもなく指をくわえて見守り、引き下がるしかない。
結果を確認しないままであるが、まだ高額になったのではないかと思われる。

 これは、熊本藩士・松野氏の系図である。「假稱松野」とか「大友義統長男」とか書入れが見えている。
各代の兄弟姉妹の名前や没年・戒名、養子先や嫁ぎ先などが書き込まれていて、史料価値が高いものである。
数葉の写真があったが、出品者も意図があってか、すべてこの写真のような状態では表示してくれていないから、残念ながらその内容すべてを確認することは出来ない。
オークションの勝者は、その情報のすべてを一人占めにし快感の極みであろう。

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■今日の一気読書

2020-09-24 19:49:45 | 書籍・読書

                 

 今日は午前中から雨がパラ/\していたので、雨模様を見ながら散歩に出ようと思っていたが、本棚から内田百閒の「贋作・吾輩は猫である」を読みだしたら乗ってしまって、散歩をさぼってしまった。
もっとも午後は午前よりも強い雨になっていたが・・・
1906年に水がめに落ちた猫が、かめから這い上がると1943年にタイムスリップしていた。私が生まれた翌年のことである。
相変わらずの変な名前の登場人物がい並び、漱石先生同様なんとも愉快な進行ぶりである。
どうも読んでいると、百閒先生やら漱石先生の区別がつかないまま三時間余で読了した。

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■細川小倉藩(356)寛永六年・日帳(一月十一日~十五日)

2020-09-24 10:45:46 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年一月)十一日~十五日 

         |       
         |     十一日  安東九兵衛 
         |
松平直政忠昌ヘノ |一、高田角左衛門・山田加左衛門、両人上方ゟ御下り被成候とて、今朝登城被仕候、山田加左衛門尉
使者帰着ス    |      (直政)                                   (忠昌)
小袖ヲ給与サル  |  ハ越前松平出羽様へ御使ニ被遣候而、出羽様ゟ御小袖弐つ被下候、同伊予様ゟ御小袖弐つ被為拝
         |  領候由、被申候事、
         |  (志摩答志郡)
九鬼守隆へ飛脚  |一、伊勢ノ鳥羽へ参御鉄炮衆両人、寺本八左衛門与下野甚七・千手新左衛門与城津喜左衛門、両人登     
         |  城仕候間、岡田茂兵衛・中村太兵衛・重田吉左衛門へ参、箱取可申由申候て、遣申候事、
江戸へ石舟廿三艘 |一、今日江戸へ御石舟廿三艘出船、〆而七艘ハ舟作事出来次第出船被仰付由、御年寄衆ゟ被仰上候、
出帆ス  七艘ハ |                   一人ハ
作事出来次第   |  飛脚弐人、内壱人ハ井関久馬与森角丞、山川惣右衛門与大富久太夫也、
         |一、江戸へ御飛脚両人のせ上り申御小早ノ御船頭中津留弥吉、大坂ヘノ状渡申候、修理ゟ寺嶋へ言伝
         |  候銀子も、右之弥吉ニ渡候事、

         |       
         |     十二日  加来二郎兵衛 
         |
江戸ヘノ石舟三十 |一、江戸へ之御石舟三十艘ノ内、御手舟廿三艘ハ昨日出船之筈ニ候へ共、日和悪敷ニ付、今朝出船仕
艘内御手舟廿三艘 |  候、御年寄衆・我々両人も川口へ罷出、見届、出シ申候事、
今朝出帆スルヲ川 |
口ニ未届ク    |
知行所行ノ願   |一、神西長五郎親知行所へ参度申候、可有御越由申候事、

         |       
         |     十三日  石本三介 
         |
         |一、横田権佐方ゟ、使者候て被申候ハ、先日からす五つ六つ打せ、坂井忠三郎ニ渡可申通、被仰付候
烏打六羽     |  間、からす六つ打せ、忠三郎ニ渡申候、昨日忠三郎ゟ被申候ハ、弐つ三つ打せ被渡候へと被申
土用明ク     |  候、如何可有哉と被申候、返事ニ、もはや土用も明申候、右ニ六つ御渡候ヘハ能候間、御打せ有
         |  間敷由申、返候事、
彦山座主ヨリ年賀 |一、彦山座主殿ゟ年頭ノ御使僧御札目録持参被申候、御本丸へ持参候て、御番衆へ御渡候へと、申渡
ノ使僧御札目録ヲ |  候事、 
持参ス      |  
彦山政所坊年賀  |一、彦山政所坊年頭之御札御持来候、則御本丸へ御持参候而、当御番之衆に可有御渡之由、申渡候
         |  事、
町舟出来     |一、白井兵助・吉田縫殿助登城にて被申候は、七艘ノ町舟今日限ニ出来可申由、被申候事、 

         |       
         |     十四日  安東九兵衛 
         |
町舟一艘ハ十端帆 |一、町舟七艘之内壱艘十端帆ニかへ申候ニ付、人数壱人増候、又右ニ六十一人と江戸へ書遣申候、六
七艘六十三人ノ扶 |  十二人ニ而候を書遣候ニ付、以上人数弐人増候ゆへ、都合六十三人之御ふちかた可被相渡と、申
持        |  遣候事、

         |       
         |     十五日  加来次郎兵衛 
         |
町舟ノ出帆ヲ川口 |一、式ア殿ゟ、使者を以被仰越候ハ、町舟七艘、今日七つ時ニ出船仕申候、
ニ見届ケム    |

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■細川小倉藩(356)寛永六年・日帳(一月十一日~十五日)

2020-09-24 08:28:53 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年一月)十一日~十五日 

         |       
         |     十一日  安東九兵衛 
         |
松平直政忠昌ヘノ |一、高田角左衛門・山田加左衛門、両人上方ゟ御下り被成候とて、今朝登城被仕候、山田加左衛門尉
使者帰着ス    |      (直政)                                   (忠昌)
小袖ヲ給与サル  |  ハ越前松平出羽様へ御使ニ被遣候而、出羽様ゟ御小袖弐つ被下候、同伊予様ゟ御小袖弐つ被為拝
         |  領候由、被申候事、
         |  (志摩答志郡)
九鬼守隆へ飛脚  |一、伊勢ノ鳥羽へ参御鉄炮衆両人、寺本八左衛門与下野甚七・千手新左衛門与城津喜左衛門、両人登     
         |  城仕候間、岡田茂兵衛・中村太兵衛・重田吉左衛門へ参、箱取可申由申候て、遣申候事、
江戸へ石舟廿三艘 |一、今日江戸へ御石舟廿三艘出船、〆而七艘ハ舟作事出来次第出船被仰付由、御年寄衆ゟ被仰上候、
出帆ス  七艘ハ |                   一人ハ
作事出来次第   |  飛脚弐人、内壱人ハ井関久馬与森角丞、山川惣右衛門与大富久太夫也、
         |一、江戸へ御飛脚両人のせ上り申御小早ノ御船頭中津留弥吉、大坂ヘノ状渡申候、修理ゟ寺嶋へ言伝
         |  候銀子も、右之弥吉ニ渡候事、

         |       
         |     十二日  加来二郎兵衛 
         |
江戸ヘノ石舟三十 |一、江戸へ之御石舟三十艘ノ内、御手舟廿三艘ハ昨日出船之筈ニ候へ共、日和悪敷ニ付、今朝出船仕
艘内御手舟廿三艘 |  候、御年寄衆・我々両人も川口へ罷出、見届、出シ申候事、
今朝出帆スルヲ川 |
口ニ未届ク    |
知行所行ノ願   |一、神西長五郎親知行所へ参度申候、可有御越由申候事、

         |       
         |     十三日  石本三介 
         |
         |一、横田権佐方ゟ、使者候て被申候ハ、先日からす五つ六つ打せ、坂井忠三郎ニ渡可申通、被仰付候
烏打六羽     |  間、からす六つ打せ、忠三郎ニ渡申候、昨日忠三郎ゟ被申候ハ、弐つ三つ打せ被渡候へと被申
土用明ク     |  候、如何可有哉と被申候、返事ニ、もはや土用も明申候、右ニ六つ御渡候ヘハ能候間、御打せ有
         |  間敷由申、返候事、
彦山座主ヨリ年賀 |一、彦山座主殿ゟ年頭ノ御使僧御札目録持参被申候、御本丸へ持参候て、御番衆へ御渡候へと、申渡
ノ使僧御札目録ヲ |  候事、 
持参ス      |  
彦山政所坊年賀  |一、彦山政所坊年頭之御札御持来候、則御本丸へ御持参候而、当御番之衆に可有御渡之由、申渡候
         |  事、
町舟出来     |一、白井兵助・吉田縫殿助登城にて被申候は、七艘ノ町舟今日限ニ出来可申由、被申候事、 

         |       
         |     十四日  安東九兵衛 
         |
町舟一艘ハ十端帆 |一、町舟七艘之内壱艘十端帆ニかへ申候ニ付、人数壱人増候、又右ニ六十一人と江戸へ書遣申候、六
七艘六十三人ノ扶 |  十二人ニ而候を書遣候ニ付、以上人数弐人増候ゆへ、都合六十三人之御ふちかた可被相渡と、申
持        |  遣候事、

         |       
         |     十五日  加来次郎兵衛 
         |
町舟ノ出帆ヲ川口 |一、式ア殿ゟ、使者を以被仰越候ハ、町舟七艘、今日七つ時ニ出船仕申候、又川口迄罷出可見届候間、
ニ見届ケム    |  我々両人も参候様ニと被仰候、畏存由御返事申候事、
         |                                        (規矩郡)
貫山ニテ犬ヲ猪ニ |一、門司源兵衛登城にて被申候は、御犬とりかひニ貫山へ参候而、猪弐つ取申候、壱つは母原村百生
取飼ウ      |  中、心宛ニ罷出候者ニ遣候、今壱つ如何可仕やと被申候間、今程御台所ニも不入物ニ候間、何獲物猪二頭ノ処分 |  も同道候而参候衆寄相候て、御わけあるへく候由、申渡候事、

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■栗田か粟田か・・?

2020-09-24 06:46:44 | 徒然

「細川小倉藩」をご紹介する中で、記事の中に「栗田」氏が登場する機会が度々あった。
刊本を見ながら、「栗田」とタイピングしてきたが、ある時栗田の栗の字の上に間違いを示す「粟」の字が乗せられていた。
私が栗田とタイピングしたもののほとんどは粟田氏であったようだ。(訂正しなければならないがこれは大変??)
最近わざわざ読書やPC専用のメガねをあつらえたが、栗と粟の見分けが効かなかった。
もっとも細川の侍帳には「栗田氏」も「粟田氏」も存在しないのだが・・・

 ところで宇喜多秀家の赤子を家臣が守って宇佐に逃げ込み、後に細川家に仕えたという話がある。
「浮田氏」を名乗られたというが、これではバレバレだから徳川三百年「栗田氏」を名乗られたという。
明治に至り「浮田氏」に戻された。
「宇喜多家史談会」というものがあり、会報が発行されているが、その熊本の浮田氏についての情報が有って会報を入手したのだが、地震以来行方知れずの状態である。

 磯田道史氏が、偶然どこかの飲み屋で「浮田氏」に出会い驚かれたということを、何かに書いておられた。
これが何にかかれていたのか、脳細胞が音を立てて破壊されていく爺様は思い出すことが出来ないでいる。

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■細川小倉藩(355)寛永六年・日帳(一月八日~十日)

2020-09-23 15:06:32 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年一月)八日~十日 

         |       
         |     八日  安東九兵衛 
         |
         |   (吉重)            (伊方村ヵ)(慈ヵ)
慈光寺使僧年賀ニ |一、沢村大学殿ゟ御使、田川いげたの寺光院御礼ノため罷出候由、御使にて候、則御本丸へ登城被仕
登城ス      |  候而、当御番之衆二相■被申、引付ニ付被申候へ之由返事候事、
         |            〃
松井興長知行所ノ |一、式ア少殿ゟ御使、式ア少殿御知行之内ニ居申候出家衆、今朝御礼ニ参候由ニ而、礼銭銘々持参
僧等年賀ニ礼銭ヲ |  候、則御本丸へ被参候而、引付ニ被付候へ之由、申渡候事、
上グ       |
         | (長岡孝之)
長岡孝之忠利ヘノ |一、休斎様ゟ、片岡加左衛門御使ニ登城被仕候、江戸便御座候ハヽ御知せ候へ、 忠利様へ御状被進
書状ヲ託サントス |  度之由ニ付、則明日御飛脚参申候間、御状ことつて可被成之由、御返事申上候事、
         |                                  
宇佐ノ上蔵坊年貢 |一、宇佐の上蔵坊、御嘉例之御札幷弐〇疋持参、則後本丸御番衆へ被相渡候へと、申渡候也、
宇佐ノ宮成縫殿年 |一、宇佐宮成縫殿、御礼ニ罷出、後本丸へ罷上り、御帳ニ付申たる由被申、松ノ御丸へ被参、被申候
賀ニ登城シ嘉例ノ |  ハ、御嘉例のことく心経会の御馬可被遣通、被申候事、
心経会料ノ馬ヲ乞 |
ウ        |
         |           (宇佐郡、祐専)
光尚ノ祈祷札ヲ永 |一、御六様御祈祷之御札、永勝院ゟ使僧にて被差上候、便次第江戸へ可上者也、後本丸へ参、御引付
勝院ヨリ上グ   |  ニも付申由被申候事、
宇佐ノ江嶋宮内家 |一、宇佐江嶋宮内、御家老中へ御礼ニ参候由にて、松ノ御丸へ登城被仕事、
老等へ年賀ニ松丸 |
ニ登城ス     |
         |一、神西長五郎・竹内八兵衛、両人登城ニ而被申候ハ、今迄之御役儀、不破平大夫ニ引渡相済申由、
         |  被申候事、

         |       
         |     九日  加来次郎兵衛 
         |
宇佐心経会ニ料馬 |一、頼母殿ゟ、使者ニ而被仰聞候ハ、うさ心経会御神叓ニ馬を遣候様ニと被仰触候、併、旧冬繁昌仕
ヲ上グベシ    |  候、此以上ハ有間敷哉と、真乗坊ニ御尋被成候ヘハ、如此真乗坊ゟ書付給候由にて御上候、則写
         |  置候、
宇佐ノ真乗坊書状 |   宇佐宮心経会就 御神叓、御馬被進候由被仰下候、御手前御繁昌之けかれ■無之候、年内御や
案有吉英貴宛   |   しきにて廿七八日之比、ふミ合ノけかれ卅日にて御座候間、御馬出候儀ハ罷成間敷候と存候、
         |   以上
         |     正月九日                         真乗坊
         |     頼母様
         |        
         |   (元五)
薬師坊病ニツキ年 |一、志水伯耆守殿ゟ御使にて被仰聞候ハ、中津広津村薬師坊主長悦相煩候而、年頭之御礼ニ不罷出候
賀欠礼届  礼銭 |  間、右之趣可然様ニ、御奉行所へ被仰達候而可被下之由にて、礼銭持せ、使指越候由にて、伯耆
         |  殿使礼銭持参仕候、則御本丸へ参候而、引付ニ被付候由申渡、遣候事、
木忠年賀欠礼届  |一、金津助二郎登城にて被申候ハ、鯛瀬九郎太母十二月廿七日ニ病死仕ニ付、年頭之御礼ニ不罷上
         |  由、被申候事

         |       
         |     十日  安東九兵衛 
         |
         |  (塩飽屋)
小倉町水夫ノ賃飯 |一、しわくや伝次・大こくや長左衛門登城仕候而、当町水夫之儀申候ハ、請人も無御座、賃飯米も不
米ニツキ申分   |  究候間、色々水夫共申由申候間、此方ゟ申候ハ、当町ニ居申、何かと色々申候ヲ、右両人取上ヶ
ソノ対策     |  何角申候ハヽ、壱人も不出置候へ、浦々ゟやとい上せ可申候由申候処ニ、又両人申候ハ、賃飯    
         |  米も追而定可申候、人数も御座候間、御事かけ不申様ニ仕置可申由候て、請相罷下り候事、

 

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■熊本の茶道事情

2020-09-23 07:19:05 | 徒然

 「西遊日記・肥後見聞録」の著者・桃節山は松江の人である。藩命を受けて熊本城下に入っている。
松江候が「親藩並外様」ともいうべき細川家に対し、特別の親しみを以て節山を派遣し、藩政や学校、武備などに大いなる興味を以て見聞せしめている。
又、熊本をベースとして、阿蘇や長崎に足を延ばしている。
節山のこの見聞録から、、地元ではうかがい知れない当時の熊本の事情が見て取れることは貴重である。


 松江は松平不昧公によって育まれた茶道の文化が現在も受け継がれている。
流派を超え、所作などにとらわれず、御茶に親しむ風習が町中に色濃く残されている。

そんな松江人・桃節山がみた熊本の茶道事情は、「肥後古流」という茶道が熊本の地に活着しないどころか、衰退の状況にある現状を知らせているように思える。

「細川家は三齋公御流儀之茶法も有之ニ付、茶事ハ盛ニ行ハれ候事と奉存罷在候處、更ニ左ハ見へ不申、茶を點する法を知候者無之、勿論御家中ニ茶室之ある處ハ一度も見當り不申、又薄茶ニ出合候事も無之。依而藩士共ハ相尋候處、相答候ハ、成程家流之茶法と申もの有之趣ニ承り候得共、家中ニ心得居候者先ハ無之、茶道方ニハ承知仕候容子ニ御座候。兼て承り居候ニ三齋公之御小性或時茶事を學ひ度包含候得ハ、公之仰ニ、其方之如き婦女子之様なる手ニ而茶を立るものニハ無之と御教訓有之由、右ハ武士たる者ハ手之見苦敷なる迄ニ武事相勵ミ、餘り剛毅氣ニ早り粗暴ニなる位之處を茶事ニ而聊氣を柔け、又坐作進退之法をも少しハ心得候様との御主意ニ而、此意ハ毎々御側之者へお物語も有之候趣申傳居候。左候得は今之大平ニなまけ切たる者茶事を學候ハ、三齋公之御主意ニもとり候儀故、茶法ハ只茶道方ニ存し候のみにて、家中には心得候もの無之候(以下略)」

 私も10数年「肥後古流」の茶道を稽古した。
利休流そのままの点前だと茶道研究家の磯野風船子氏が指摘されたように、茶道草創期の形が、何ら変えられることなく今日にタイムスリップしている。

私は細川家中のサムライたちが、茶道を通じて歓談する様などを想像してきたが、まったくそれは否定されてしまった。
まさに熊本の茶道は、一部特権階級の優越感の中でのみ存在していた。

明治の御一新以降細川家のしばりから離れて、三家家元(古市・古田・小堀)の努力と、有志の方々により伝えられてきた。
古田家は門を閉じられた。古市流を継承した武田家と小堀家二家が遺されている。

茶道に限らず将来が案じられる熊本古来の文化芸術が多く見受けられる。
松江のように古い文化を当たり前のように感じ存在する、そんな熊本になってほしいと熱望する。

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■細川小倉藩(354)寛永六年・日帳(一月六日~七日)

2020-09-22 17:37:47 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年一月)六日~七日 

         |       
         |     六日  加来二郎兵衛 
         |
鉄行燈修繕    |一、黒瀬九郎右衛門尉・大嶋喜右衛門尉手前ゟ、鉄あんどん壱つ直させ候へと申出し候を、上林与ノ
         |   (鍛冶)
         |  かちニ直させ、上ヶ候へと申付、御そうぢの又右衛門尉ニ持せ遣候事、
御拝山講堂正月二 |一、御拝山講堂、今月二日ノ夜やけ申由座主罷出、被申候、如何様之子細ニ而やけ候やと被申候処ニ、
         |             (ママ)
日ニ焼ク     |  二日ノ夜四つ過迄法事を仕候罷下候由被申候、此方ゟ申候ハ、下々たはこ共をのミ、火をぶたさ
煙草ノ失火    |  ニ仕、やけ候ものと申候事、
         |                              (少ヵ)
到津口門番ノ下人 |一、到津口御門番村田久助登城にて申候ハ、主召遣候もの今月三日□取にけを仕候を、当町ニて見
取逃ゲ      |                                  御  
金山ニテモ盗ミ  |  付、吉田縫殿助殿ニ届申候処ニ、走申下人久助ニ被渡候、請取申候、又金山ニても少ぬすみを
         |  仕、しちニ置申由承候、右之走り人ハ私請取申候、如何可仕哉と申候間、吉田縫殿ゟ其方へ被渡
処分ハ主次第   |  候上ハ、如何様ニも其方次第ニ仕候へと、返事申、返し候事、
惣銀大坂へ運送ス |一、中津海三右衛門・川匂藤右衛門、大坂ゟ被罷下候事、但、惣銀持上り、大坂衆ニ相渡候て、下り
         |  被申候也、
         |一、佐分利兵大夫与森作右衛門・御長柄ノ六蔵、京江戸ゟ罷下候事、
         |     (多聞)
足立山多聞坊御供 |一、安立山タ門坊、年頭之御くう三寸持参申候、御本丸へ持上り、林隠岐ニ被渡候へと申渡事、

         |       
         |     七日  石本三介
         | 

         |               ヵ)大友宗麟室、奈多夫人の出自の神社
奈多宮御供ヲ上グ |一、式ア殿ゟ西村太兵衛を以、桑多之宮ノ御供之由ニ而御上被成候、右社人式ア殿迄、昨日持参申候
         |  へ共、中津へ何も御礼ニ、今日罷出候ニ付、昨夜早々中津へ遣、右御供をうけ取置申由ニて、御
         |  上候、則林隠岐へ相渡候事、
         |          (元五)                                             虎徹
         |一、志水伯耆殿ゟ、使者ニ而被申越候ハ、志水新九郎百生宇佐郡麻生村之徳丸〇牛、去年十一月四日
牛玉ヲ吐ク    |    五つ時ニ
         |  ノ夜、口ゟ玉出申由にて、被持上候、様子ハ牛煩申ニ付、のどをさすり居候処ニ、口ゟ出申候、ふ
         |  しんニ存、横山谷中村ノ神主久右衛門ニ、■右牛主徳丸と申もの相尋候処ニ、一大事之物ニ候間、
         |                       (ママ)
         |  人ニ見せ不申、其上さた仕間敷由申ニ付、隠置候申候処ニ、右之神主、中津高橋兵左衛門尉ニ右
三斎玉ヲ見ル   |  之通申候処、兵左衛門 三斎様へ被申上候ヘハ、可被成御覧候間、持参可仕旨、十二月廿八日ニ
中津領ノ物ナラバ |  被仰遣ニ付、則中津へ持参仕、 三斎様懸御目申候ヘハ、中津御領ニ出来ノ物ニ候ハヽ、可被
召上ゲム     |  召上候へ共、小倉御領ニ出キ候ものニ候間、小倉へ上候へと被 仰出ニ付、同十二月廿九日に在
小倉奉行所へ差出 |  所へ罷帰、下代小田辺四郎右衛門ニ、具ニ段々を申聞候ニ付、右ノ徳丸ニ、下代四郎右衛門持せ
ス  牛ハ三才地 |  罷出候、則うけ取置申候也、但、牛ハ三歳地あめノ由、但、男牛、徳丸虎徹ト申百生也、
あめ牡      |

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■野菜サラダから野菜スープへ

2020-09-22 09:19:52 | 徒然

 半年ほど前に奥歯を保護していた冠がとれた。特に痛いわけでもなく放っておいたが、物が詰まるようになり、爪楊枝が必需品となってきた。
最近冷たいものを飲んだり食べたりすると、しみる様になってきた。四連休の前ころからである。
処が昨晩床についてしばらくすると、強烈な歯痛に襲われた。
耐え切れず、夜中に起きだして「トンプク」があったはずだと思い薬箱をさがしてみるが・・・ない。
しばらく痛みに耐えていたが、眠り込んでしまった。

私の朝食はずっと野菜サラダ+トースト1/2枚+ヨーグルトである。血圧と高血糖対策である。
処が今朝は野菜サラダに代わって暖かい野菜スープが並んだ。歯痛のことは奥方は知らないからグッドタイミングであった。
是には一両日前私が話したことが伏線になっている。

熊本大学にノーベル賞候補ともいわれる前田浩名誉教授がおられる。
最近幻冬舎が出版した「ウイルスにもガンにも野菜スープの力」が注目を得ているらしい。

             ウイルスにもガンにも野菜スープの力   最強の野菜スープ 活用レシピ (抗がん剤の世界的権威が伝授!) 

野菜スープはコロナにも聞くかもしれないというのである。そんな話を奥方にしたのだ。

「野菜に含まれるベータカロテンやポリフェノールなど、植物性の化学物質には活性酸素を中和する働きがあり、症状が悪化するのを防ぐ。野菜を生で食べても成分が細胞内に閉じ込められたままですが、スープなどにして熱を加えると細胞壁が壊れて溶け出し、吸収されやすくなる」というのである。
先生唯今81歳、お元気で朗報が届くのを期待したい。

何はともあれ、朝夕冷え込んでくると暖かい食べ物はありがたい。ましてや暖かいスープは耐え難い歯痛のも優しくてよい。
明日はなんとか予約を取り付けて、行きつけのデンタルクリニックに行かねばならない。

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■匁銭勘定「銭弐分」

2020-09-22 07:37:09 | オークション

 昨日「■匁銭勘定の「預札」をご紹介した後、オークションで「藩札」と検索してみたら、「銭弐分」の「預」が出品されていた。
            肥後 熊本藩 錢二分 藩札 古紙幣 古文書

まだ応札は一人だが、この世界はマニアが多いから、あと五日高値を呼ぶことになるだろう。
御覧の通り大変状態も良い。ちょっと心が動くが眺めるだけにしておこう。

                  

分(ふん)は銀貨の単位で、銀一分は十分の一匁(目)である。 
これも銭に「分」という単位はないから、昨日の「匁銭」と同様のものであろう。
つまり銀弐分と同様の銭の相当額を「預」たというものであろう。
熊本藩では、このような少額(140文相当)でも「匁銭」決裁が行われていたことが伺える。

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■匁銭勘定の「預札」

2020-09-21 17:24:10 | 歴史

                  
 古くから御商売をなさっていたF家に残されている「匁銭勘定」の「預」である。
カラー写真8枚(預7種、藩札3種)の提供をうけたが、大変状態が良く鮮明である。
ご承引いただき、写真の一部をご紹介する。

中央に「一銭百目也」と書かれている。「銭百目」とはいったいいくらなのかということは長い間謎であった。
通常銭は「文」で表される。「目(匁)」とは銀である。
これが解明されたのが藤本隆士氏であり「近世匁銭の研究」に詳しい。(あまりのも高額な本で手元に置くことは不可能である。

96文を紐を通したものを100文として通用させる「銭100文さし」があるが、これはあくまで「銭」である。
4文は紐を通す手間賃だとされるが、紐を切らない限り100文で通用する。これをばらしてしまうと4文の損になる。

匁銭とは銀の熊本流通の相場「銀1匁=70文」から70文を以て「銭一目」と呼称し決裁や計算などに使用している。
上の写真は銀10目(匁)にあたる銭7,000文の証文である。御銀所に出向き、7,000枚の銅銭を数えるのは大変だから、「銭100文さし」同様、70文を結んだものを100束準備し決裁した訳であろう。

蓑田勝彦氏の「熊本藩の社会と文化」にある「熊本藩の通貨制度‐「銭匁勘定」と藩札」(上)(下)に詳しい。

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■細川小倉藩(353)寛永六年・日帳(一月朔日~五日)

2020-09-21 06:29:49 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年一月)朔日~五日 

         |       (ママ) 
         |     朔日 
         |
         |    (宗由)
年賀登城ノ家臣等 |一、三淵藤十郎殿■■御当番ニ而、御礼衆之分不残着到被成御付候ニ付、御物書衆八人申付、さし上
ノ着到ヲ付ク   |  候、但、御惣庄屋・町人之分ハ、御番衆ノ内衆ニ御付させ候也、

         |
         |       (ママ) 
         |     二日 
         |
         |一、山村三丞、在郷ゟ罷出候事、

         | 
         |     三日 加来次郎兵衛
         |
江戸へ廻漕ノ白黒 |一、今度江戸へ積廻候白黒之石、古庄次左衛門尉ニ奉行申付、ゑらせ申候事、
ノ石ヲ選ラシム  |
         |一、其外江戸へ之御物積渡奉行、右同人也、
         |                   (深野)
国東郡借米取立ノ |一、国東郡御借米奉行衆取立ノ目録持参、則二郎右衛門被請取候、不残上納相済候由也、但、今少懸
目録  懸銀懸米 |  銀・懸米ノ内不納在之由候也、
不納アリ     |
         |一、寺本八左衛門、大坂ゟ被罷下候事、

         | 
         |     四日 石本三介
         |
江戸廻漕ノ船ノ荷 |一、御船頭河村弥右衛門登城にて被申候ハ、今度江戸へ廻候御荷舟にしり木ハ何方ゟ請取可申由被申
尻木       |       (破)
         |  候間、不波平大夫へ被参、御請取被申候へと申渡事、
         |  (大橋村、京都郡)  (高来村、同郡)
庄屋年賀ニ登城ス |一、大橋の惣右衛門・高木村ノ新八、両人年賀之御礼ニ罷出候由申候、御本丸へ上り、引付ニ付被申
引付ニ記ス    |  候へと申事、
江戸ヨリ早打来ル |一、江戸ゟ早打ニ而、十二月十九日・同廿日両通之 御書、井門亀右衛門与横田三郎兵衛・寺本八左
         |  衛門与河上加右衛門両人ニて持下也、

         | 
         |     五日 安東九兵衛
         |
安国寺祈祷札持参 |一、安国寺祈祷札之御礼持参被仕候、従 三斎様、何も小倉ノ出家衆、来八日ニ御礼可被成御請旨、
三斎八日ニ小倉ノ |  被 仰下候間、明日何も中津へ参上仕由、被仰候事、
僧等ノ年賀ヲ受ク |
釘本半左衛門七年 |一、釘本半左衛門尉被申候ハ、七年已来知行所へ不参候間、当月中ニ参候而、見廻申度由被申候、五
已来知行所ニ行カ |  (河喜多正直)
ズ 見廻ニ行クヲ |  郎左衛門ニ被仰候て、御越可然由申候事、
願ウ       |
清水社少納言年頭 |一、清水少納言年頭之御札持参候、御本丸へ御持参候て、林隠岐ニ御渡候へと、玄徳ヲ相そへ遣わ候事、
ノ祈祷札持参   |  安国寺ノ札も右同前也、右少納言も中津へ御礼ニ明日御出候由也、
安国寺同前    |
江戸へ早打    |一、明日江戸へ早打ニ被遣御鉄炮衆山川惣右衛門与大畠久太夫・井関久米久馬助与森角丞、右両人明
         |  日江戸へ参也、
         |                                         (有吉英貴)(三淵重政)
松林院住持等中津 |一、松林院・春光院・永正寺登城ニ而被申候ハ、中津へ御礼ニ可出由にて、中津御奉行衆、頼母殿・右馬
         |    (牧興相)                                            (参ヵ)
奉行ノ参賀ノ差図 |  殿・左馬殿へ之状拝見見申候処、参わけ共、不参儀共、文躰私共合点ニ乗不申候間、御尋申度由被
ニ疑義ヲ申ス   |  申候、式ア殿へ御出候而、御談合可然由申渡候事、但、此方存候ハ、何も中津へ御越候て、御奉
         |  行衆ニ御尋候而、いか様共、中津御奉行衆次第ニ可被成由申候事、
安岐浦継舟ノ番ノ |一、服部新太郎被申候ハ、原田伝三郎・服部武右衛門、三人迄ニ而あき浦次舟ノ御番相戁申候、右ハ
交替人数     |  湯浅三太夫四人にて弐人宛廿日かわりに相詰候へ共、三太夫儀江戸御供ニ被 召連候間、かわり
         |  を一人御加候而可被下由被申候、国東郡ニ別ニ加可申衆無之候間、御年寄衆と相談仕見可申す由、
         |  申渡候、先其内ハ壱人宛可被相詰由、申渡候事、
         |      (財津)
         |一、銀子五枚惣兵衛を以、惣左衛門尉方へ相渡申候、式ア少殿御指図也、  

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■「世減の規矩」慶安三年を区切りとしたこと

2020-09-20 17:34:58 | 歴史

 細川重賢と堀平太左衛門主従による宝暦の改革の目玉の一つに「世減の規矩」が上げられる。
慶安三年以降の新知の知行が対象になり、大幅な減知が実行され、その高は12万石に及んだ。
この慶安三年という年は、細川綱利が弱冠六歳で家督をした年である。なぜ綱利が家督した年を基準としたのだろうか。
その理由を「慶安年間を以て治乱の境界」であることを、明記している。
これはどういう意味を持つのだろうか。つまりこれは、綱利代の側近に対する過剰な加増や、私生活による過大な支出から来る経済の悪化が原因であることは一目瞭然である。
蓑田勝彦氏の著「熊本藩の社会と文化」における「元禄の殿様=細川綱利について」で具体的な数字を挙げて実証されている。
筆頭家老松井興長の必死の諫言にも関わらず、綱利及び生母・清高院の浪費ぶりが数字でよく理解できる。
側近家臣の新知・加増が急増するとともに、いわゆる出頭人が政治に介入してくる。
蓑田氏は「寵臣」として、岩間・片山・木村の三氏を特に示している。
父・光尚代と比較すると、米で21,000石余、銀1,351貫余、銀換算で合計2,130貫に及んだとされる。

つまり「世減の規矩」はこのような不合理を是正しようとしたことが見て取れる。
改めてその数字を示しておこう。

            慶安三年以降新知の家(旧知の家は対象外)
                 5,500石~4,500石  500石減
                 4,400石~3,400石  400石減
                 3,300石~2,200石  300石減
                 2,200石~1,200石  200石減
                 1,100石~  600石  100石減
                  500石~ 150石   50石減
                  100石新知       御擬作 (地方知行なし)

旧知の家が対象外とされたのは「元亀天正以来矢石を冒し、干戈を踏み、死生の間を馳突して君主を擁護し、或いは武勲抜群の誉ありしものゝ子孫」であり、細川家草創のころの家臣であり、歴然と新知の家臣と峻別している。

宝暦改革は大きな成果を上げている。これが綱利や父・宣紀時代の乱脈経済の否定の結果となっていりことが皮肉である。

重賢の若いころの貧乏ぶりは嘘だろうという位に有名だが、私は綱利、宣紀の子沢山も大きな影響を与えているように思っている。
女子の嫁入りの入用は、化粧料などもふくめ膨大であり、大きな負担を強いられた。

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■非科学的隠居趣味

2020-09-20 11:41:31 | 徒然

 元・熊本大学法学部教授の森田誠一氏著「歴史滴録」に「歴史的興味と興味的歴史」という文章がある。この対語的表現については、先生の造語らしいが、
 (一)                                                                   (ニ)
「好事家的歴史知識の羅列を歴史と考える立場と、現在の認識に立って過去に問いかける歴史への興味」を対照的に表したものだ。
                 (ニ)                                 (一)
歴史を科学として捉えるためには、「個別的事象を通して普遍的法則を見出すこと」であり、クイズ番組の物知り的知識の羅列であってはいけないとされる。
「郷土を対象とする地域史研究の場合、日本歴史研究の中に位置づけられたその主体性の追求を怠れば、それは「お国自慢」の隠居趣味といわれても仕方ない」と誠に辛辣ではあるが当を得たものである。
渡辺京二氏はある著のなかに、「いわゆる郷土史家たちのみみっちい党派心がつねづね不愉快でならない」と書いておられるが、まさに科学的とは言えない自己主張にうんざりすることは大いにある。
しかしながら、これも一つの郷土愛であり、教えられることが有ることも事実である。
痛烈なご指摘だが、私は「隠居趣味」として謙虚に勉強して行こうと思う。

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■細川小倉藩(352)寛永五年・日帳(十二月廿七~晦日)

2020-09-20 07:56:02 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永五年十二月)廿七~晦日

         | 
         |     廿七日 加来次郎兵衛
         |
忠利船中ヨリ見シ |一、御上洛候時、船中ニ而被成御覧候路地之石弐つ、御路地之善吉ニ渡候也
路地ノ石     |

         | 
         |     廿八日 石本三介
         |                     
求菩提山中坊登城 |一、求菩提山中坊登城、毎年 御六様上り申候札之由にて、持参被申候事、
光尚へノ祈祷札ヲ |
上グ       |
釜屋ノ手間料一倍 |一、釜屋長兵衛手間料之儀、津川四郎右衛門殿福山源次ニ被仰渡候ハ、何も御家中一倍ニ被成遣候
ナルヲ五割トス  |  間、可被得其意通被仰渡候、御書付ニハ、五色直段上ヶ被遣候、鋳つぎノ直段ハ、如何仕共不被
鋳継ハ新釜ノ一倍 |  仰出候、惣別鋳つき物ハ、京もいなかもあらかま一はいノ由、被仰渡候、■■併、御為の儀候
ナルヲ五割トス  |  間、あらかまニ五わり入候て遣可然由、御申候由候、さ候ハヽ、其分ニ仕、被渡候へと、源次ニ
         |  申渡候事、

         | 
         |     廿九日 安東九兵衛
         |
三斎へ歳暮ノ使者 |一、松井宇右衛門、中津へ御歳暮之御使者ニ被遣、京被罷帰候、御小袖、其外御樽肴上申候処、宇
         |  右衛門 御前ニ被召出、一番ニ御さかつきを被下、御小袖一つ拝領、幷 御前ニ而御食被下、仕
         |  合残所も無御座候由被申候、さ候て此方ゟノ御進上之目録ニ 御印被成下候を、請取置申候事、
三斎正月演能ニ巧 |一、宇右衛門ニ、中津御奉行衆ゟ言伝之由にて、被申候ハ、来春、中津ニて御能被成候ニ付、山崎加
者ヲ雇ウ     |  平次・吉竹兵右衛門両人を御やとい可被成と、被成 御意候由申候事、
         |一、宇右衛門、今月廿七日ニ小倉を出、廿八日之朝、御歳暮之御祝儀上ヶ被申候由事、
         |   (教隆)      (幸信)
大久保忠隣子息等 |一、大久保右京様・同主膳様 公儀御前被 召直為御祝、御鉄炮衆ニ而御書被進之処、右御両人ゟ、
召直サレシ祝儀ノ |  御飛脚ニ一歩判壱つ被遣候、併、右之金子御やしきへ不被遣已前ニ、御飛脚ハこゝもと罷下候
状ヲ送ル     |       (松野親英)(小篠) (町)
         |  ニ付、あとゟ織ア・次太夫・三右衛門ゟ被差下候を、今日我々送状ニて、浅井五左衛門・宗田伝
         |  左衛門両人ニ渡候事、

         | 
         |     晦日 加来二郎兵衛
         |
         |         (ママ)               (伊与、長沢顕長室、沼田清延女)
京ヨリノ音信物  |一、京ゟくたり候しふミ帋つゝミ、大小共ニ三つ、いよとのへまいり候状を、大嶋喜右衛門ニ渡候也、
         |                       (織)
         |一、上方ゟくたり候こもつゝミの箱壱つ、菊野伊折殿へ参候を、大嶋喜右衛門へ渡候、御本丸の内ニ
         |  而御座候故ニ、喜右衛門ゟ可届之由ニ而、渡し候也、
         |     (米田是季)
         |一、上方ゟ、監物殿へ参候こも包壱つ、右之内おくぜき十左衛門取ニ御越候故、則渡申候事、


           今回をもって寛永五年分は完了しました。次回からは寛永六年分に入ります。

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