津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■最後の御奉公

2021-03-27 06:45:17 | 徒然

 今日は熊本史談会の例会、長く事務局を務めた私の担当する回の最後の一日である。
熊本日日新聞に例会の案内を掲載していただいているが、今回は参加者が一番多くなりそうで嬉しい悲鳴である。
昨日はお昼過ぎまで、資料を一度ならず二・三度コピーをする有様であった。
今回は「近世熊本の交通・街道と往還」の二回目、「豊前街道+薩摩街道、日向往還」を取り上げる。
講師は公開の会員で「放牛石仏を守る会」の会長さんN氏、放牛石仏100数重体の所在地を訪ねて歩き回って居られ、街道・往還にもお詳しい。
今回一般参加者が一番多いということは、このような身近だけれどよく知らないことを勉強したいという想いが在られるみたいで、参加を希望する御一人が申込み電話の中で話されていた。
今後の史談会運営の中で、大いに生かさなければならないと思ったが、私の御奉公は今日が最後である。
天気も良し、会場の熊本市民会館は熊本城の入り口にあたる場所だが、コロナ禍の中とはいえ、桜見物の人が多いことだろう。
さて、PCやら資料やらをリックに詰め込んでお出かけすることにいたしましょう。8年間の最後の御奉公です。

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■細川小倉藩(528)寛永七年・日帳(十ニ月朔日~ニ日)

2021-03-26 08:42:03 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十二月)朔日~三日

         |                                       
         |   朔日  奥村少兵衛 
         |
規矩郡奉行へ長谷 |一、小崎與次兵衛・神足三郎左衛門方へ、長谷部文左衛門被申分書物以下、能々被見届、其上を以、
部文左申分ノ書物 |  文左衛門方へも返答候て可然通、申渡候也、神足同心也、
厩ノ障子張    |一、はり付仕御奉行ニ、御馬屋之障子はり可被申通、申渡候、はり付仕ニ付而、通りかね候儀有之由
         |  申候間、不通儀ハ此方へ申候ハヽ、らち明可申通、申渡候事、
小台所虎ノ間番士 |一、林隠岐被申候ハ、御小台所とらの間ノ御番被仕候衆、御在国之時ゟ、鉄御門通付申候衆理被申候
鉄門通行ノ便   |  ハ、風雨之時、けやき御門之通り申候ヘハ、雨道具置可申所も無御座、又ハ雨風之時ハ、めしを
         |            ( 面 桶 )
         |  も取寄、たへ申候処、めんつうの仕合ニ御座候、御広間通り申儀、めいわくの由、被申候間、治
         |  ア・小村平右衛門・おき惣談仕、鉄御門を通し申由、被申候事、
         |                    (半左衛門)
三斎返書忠利へ  |一、三斎様ゟ、 殿様へ之御返書御文箱参候、貴田返事も有之候事、

         |                                       
         |   二日  河本瀬兵衛 
         |
         |   (田中氏次)(横山重嘉)
         |一、当番兵庫・助進也、
         |     (国東郡)
高田町町人広嶋ノ |一、昨晩、高田町勘左衛門と申者、広嶋之あき人久兵衛と申もの之銀三百六十目取にけ仕由、御郡奉
商人ヨリ銀取逃  |            (松井興長)             (国東郡)
         |  行衆ゟ注進状参候、則、佐渡殿へ三人参り、談合仕り、宇佐町ニ居申候勘左衛門弟ノ左衛門と申
         |                                    下  
宇佐郡奉行国東郡 |  ものをからめ、国東郡奉行衆へ渡、糾明仕り、せんさく被仕候へと、今日辰刻ニ、次飛脚にて、
奉行へ捕縛糾明ヲ |  宗像・近藤所へ
命ズ       |  〇申遣候、幷久兵衛・宿主弥二郎、又勘左衛門妻子をもしめ置れ候へと、申遣候小林半左衛門・
         |  蒲田次左衛門方へ申遣候事、                    〃〃〃
         |                                        (規矩郡)
買ヒシ田ノ年貢米 |一、国遠道倫・小崎與次兵衛・神足三郎左衛門三人登城候而、御中間頭加介与之御中間・篠崎村ニ而
差次ノ切手ノ処置 |  田をかい、御年貢米さし次之切手、加介ハ慥ニ取置申候、さし次奉行之藤十郎ハさし次不申、切
         |  手ハ書申候へ共、其切手ハ加介方ヘハ渡し不申、主居申候所ニ置申候而、脇之御蔵へ参候跡にて、
         |  失申切手ニ候間、加介ニ不渡候由申候、不指次証拠、御蔵奉行溝口理兵衛と申候へ共、皆口上迄
         |  にて候、加介方ニハ藤十郎切手有之候間、切手有之方之申分つよく候と、道倫三人へ申候、此以
         |  後とても、証文ならてハ立申ましき通、申候事、
         |    (河井)
鷹師へ書状    |一、御鷹師権丞所へ、歩之御小性田辺七郎兵衛方申付、状を相添、遣候事、
鷹師捉飼     |一、山本三蔵御鷹遣ニ被参ニ付、益永太兵衛申付、大橋へ遣候事、

         |                                       
         |   三日  岩男嘉入軒 
         |
         | (横山重嘉)(浅山)
         |一、助進・修理当番也、
         |一、皆川治ア・林隠岐ゟ、清半入老へ、便宜次第上せ候へとて、状壱つ・ちいさきかミ包の袋壱つ、
         |  中におくかたゟ状有之由候て、持せ被越候事、                〃
         |
投網打大坂ヨリ下 |一、西田吉内被申候ハ、唐あミ打、大坂ゟ罷下候、左候ヘハ、おく御たい所御肴之儀、黒瀬九郎右衛
着        |                                        (鱧)(魳)
奥台所ノ肴    |  門ニ相尋申候ハ、下々の肴ハ吉介ゟ吉内手前ゟ上肴にて調申候へ共、上々のハ、鮑・はも・か
         |               〃〃〃
         |  ますなとの類参り候之間、吉介吉内手前ゟ上り申候肴にて、遣かへ申事不罷成候間、如此之御肴
         |              〃〃
         |  ハかい申由、九郎右衛門申候間、大嶋喜右衛門申候由、吉介吉内申候間、両人申通可然由、申候
         |             〃〃            〃〃
         |  事、
         |            (是友)     明石
         |一、町市丞・伊藤十丞・米田甚左衛門尉・熊谷権太夫・冨嶋弥兵衛、今日被罷下候事、
         |                   〃〃
         |  (篠崎)
検地奉行     |一、しのさき御門之外、今まて御鉄炮衆居申候跡之やしき、御検地奉行ニ、弓削與次右衛門ニ申付候、
         |  相奉行ニ、荒瀬左太右衛門申付候也、

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■再考小倉藩葡萄酒 (六)御薬酒

2021-03-26 06:59:31 | 小川研次氏論考

         六、御薬酒


        明の李時珍著『本草綱目』(1578年)は慶長十二年(1607)に長崎にいた林羅山の
        手に渡り、徳川家康に献上された。家康が御薬造りの名人となるきっかけとな
        る。
        そこに葡萄酒の造り方があるのだが、「二様あり、醸したものは味が良く、焼
        酎にしたものは大毒がある」という。醸造は麹と共に醸すのであるが、汁(ジュ
        ース)が無い場合は干しぶどうの粉を用いるとあり、葡萄粉末ジュースの様相で
        ある。
        「葡桃は、皮の薄いものは味が美く、皮の厚いものは味が苦い。」
        「葡萄を久しく貯えて置くとやはり自然に酒が出来て、芳香と甘味の酷烈であ
        る。それが真の葡萄酒だともいふ。」
        完全無欠の「ワイン」である。シルクロードから、また自生した多種の葡萄が
        ある中国ならでは可能だったのである。
        しかし、日本ではどうだろう。
        そもそも、江戸初期に日本人が葡萄酒を造るという発想があったのだろうか。
        1549年8月15日、キリスト教宣教師として初来日したフランシスコ・ザビエル
        は日本人の「酒」に関して報告している。
        「この国の人たちの食事は少量ですが、飲酒の節度はいくぶん緩やかです。こ
        の地方にはぶどう畑が有りませんので、米から取る酒を飲んでいます。」(『聖
        フランシスコ・ザビエル神父全書簡2』)
        また、徳川家康の通辞を務めたジョアン・ロドリゲスは1620〜22年に『日本教
        会史』を編集している。
        「果物の多くは、ヨーロッパにある我々の果物と同じである。様々の種類の梨
        や小さな林檎、上の地方(かみ=五畿内、豊後国を除く九州全域は下)における桃
        や杏がそれである。李と葡萄は少ない。それは葡萄の栽培に力を注いでないか
        らであって、あるのは葡萄酒に向かないものである。叢林には野生の葡萄の一
        種があるが、日本人はそれを食べていなかった。もし、それから葡萄酒を造る
        ならば、味にしても発酵の具合にしても、やはり真の野生の葡萄である。また
        、ローマにおいてこの地に関して認められた情報によれば、ヨーロッパから来
        る葡萄酒の不足から(これはすでに起こったことだが) 野生のものから造った葡
        萄酒でミサをあげてよいとの判断が下されたのである。」(「日本教会史」上
        、『大航海時代叢書』第一期、岩波書店)
        日本人は葡萄酒どころか、食してもいなかったのだ。その「野生の葡萄」から
        染料や籠などを作っていたが、ロドリゲスは「真の野生の葡萄」として葡萄酒
        に言及している。
        では、家康(1619年没)は葡萄酒を造ったのだろうか。
        『駿府御分物御道具帳』に家康の遺品の中に「葡萄酒二壺」とある。(『大日本
        資料』第十二編之二十四)
        慶長十年(1605)に家康がフィリピン諸島長官(スペイン領)に送った書簡の中に
        「予は閣下の書簡二通併びに覚書の通り贈物を領収せり。中に葡萄にて作りた
        る酒あり、之れを受取りて大いに喜べり。」(『異国往復書簡集、改訂復刻版』
        雄松堂書店) とあり、家康はスペイン王国からの葡萄酒を大いに気に入ったの
        であった。
        さらに慶長十八年(1613)にイギリス国王使節のジョン・セーリスから五壺の葡
        萄酒を贈られたが、セーリスは日記に「甘き葡萄酒」と記している。(『異国往
        復書簡集』「増訂異国日記抄」雄松堂書店)
        このことから、家康は甘口が好みであったことが理解できる。
        当時のイギリスはスペインから輸入しており、ともにヘレスのワインと考えら
        れ、ペドロ・ヒメネスの可能性がある。家康は三年間で三壺を消費して二壺を
        遺していたのではなかろうか。
        幕府薬園で葡萄酒を造ろうとしたのかも知れないが、全く記録がない。
        徳川家で国産葡萄酒の初見は正保元年(1644)まで待たなければならない。
        『事跡録』に「殿様御道中ニテ酒井讃岐守殿ヨリ日本制之葡萄酒被指上之」と
        あり、大老の酒井忠勝が尾張藩主徳川義直に参勤交代で名古屋に帰る途中に日
        本製葡萄酒を献上したのである。(『権力者と江戸のくすり』岩下哲典)
        将軍家光からなのか、忠勝なのか不明であるが、あえて国産としたのは日本の
        どこかで造られていたことになる。
        ただし、これがワイン(醸造酒)である確証はない。
        もし、家康が葡萄酒を造るとなると『本草綱目』のように「薬効」を意識した
        「御薬酒」としたであろう。しかし、日本の在来種は先述の通り弱いものであ
        った。「薬効」どころか酸敗、腐敗した葡萄酒は身体に悪い。そこで必然的に
        日本人は日本酒や焼酎を加えることにした。つまり、「醸造酒」ではなく「混
        成酒」なのである。「日本制之葡萄酒」は「混成酒」の可能性が高い。

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■細川小倉藩(527)寛永七年・日帳(十月廿六日~廿九日)

2021-03-25 12:36:24 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十月)廿六~廿九日

         |                                       
         |   廿六日  奥村少兵衛 
         |
鷹狩       |一、今朝、御鷹野ニ被成御出候事、
大手門番交替   |一、大手ノ御門番、村田六兵衛替ニ、財津惣左衛門元組塚本理右衛門、
質部屋番人跡替  |一、しちへや御番、伊藤十介替ニ、西沢与児玉又左衛門、
         |        (浅山)
口屋番人跡替   |一、口や御番ニ、修理与白木牛介、但、山本理兵衛かわり也、
         |                山川与
町籠番人跡替   |一、町籠御番、堀江甚右衛門替ニ、〇坂口仁兵衛、
籤取       |  右四人上り人ニ申付、くし取候て、如此相定者也、
         |  (三淵宗由)
三淵宗由障泥四懸 |一、長岡藤十郎殿、江戸ニ而、御あをり四かけ御かり候て御遣候、かわりノあをり四かけ、此度口御
ヲ借出      |  納戸御物同前ニ□つて御下候、江戸にて、御留守居衆へ相渡、証文取下候へと、森作兵衛ニ申渡
         |  候事、
上方ヨリノ物数  |一、風斗五兵衛罷下候ニ、持下候物数ノ事、
         |  一、京衆ゟ文箱一つ、我々へ、
         |                      (松井友好)(皆川)
         |  一、野尻杢ゟ、かつほ一箱被上候、又、状ハ宇右衛門・治アニ当、文箱下ル、
石清水八万松ノ坊 |  一、八幡松ノ坊・宮本坊ゟ進上、かわ・扇子ノ入たるかミ包弐つ、
宮本坊ヨリ音信  |
護符       |  一、御札も、右両坊ゟ被上ル、
伽羅用ノ鋸    |  一、伽羅御ひかせ候のこきり三つ下ル、
芳長老      |  一、芳長老ゟ、 殿様へ之御状一つ、
椿ノ継木     |  一、椿ノつき木も下ル、
         |  一、右之外、京・大坂ゟ之書状共数多下ル也、
         |         (秀成)    せ
生嶋秀成上京随行 |一、右ノ御船頭、生嶋玄番殿の上候ニ、舟中ニて、かこ弐十人幷御長柄衆二人ニ壱歩判壱枚、御船頭
者等ニ賞与    |                              (村松)
         |  ニ銭五百、かち取ニ銭弐百、御鉄砲衆ニ、二人ニ五百三百宛、村長右衛門ニ五百被下候由申候也、
         |                        〃〃

         |                                       
         |   廿七日  奥村少兵衛 
         |
         |                御座、
忠利鷹野ヨリ晩藪 |一、今日は未明ゟ、御鷹野ニ被成 〇晩ハ藪市正所へ、すくニ被為成候事、
正直邸ニ臨ム   |


         |                                       
         |   廿八日  加来二郎兵衛 
         |
         |  (吉兵衛)
田川郡代官松岡某 |一、黒部与西村十兵衛
ニ付ケシ番人   |一、同与高倉久太夫
         |  (重元)
         |一、井門与池尻新介
         |一、同与井口仁右衛門
         |一、同与河内何右衛門
         |  右之分、御代官松岡七左衛門ニ、番ニ付申候事、
         |                          (抱)
船頭新規召抱   |一、御船頭ニ、万代久右衛門と申もの、今日新参ニ被召拘候事、
         | (ママ)
         |一

         |
         |        (ママ)                                       
         |   廿九日  
         |
         |一、井門与大畠作右衛門、中津郡へ遣候処、花熊之村ニ、真鴨ノ女鳥壱つ、たちかね居候由にて、持
         |  来候、御台所へ払候へと、申付候事、
         |   (炮脱)
         |一、御鉄衆大畠作右衛門、中津郡へ御飛脚ニ遣候、然ニ、花熊村にて、生鴨ノ女鳥壱つひろい申由ニ
         |  而、持来候間、御台所之勘十郎ニ渡申候也、
         |           (国遠)
唐人明寰ノ借状  |一、唐人明寰借状壱枚、道倫所へ持せ遣候、但、銅代銀、家作事入目、長崎ニ而御取替被成候銀ヲ、
長崎銅代銀    |  一つニ究たる借状也、
家作入目     |
         |              (規矩郡)
領内ノ鮭ヲ上グ  |一、矢嶋平三郎組加来少右衛門、横川ニ而、鮭壱つとらへ申由ニ而、持参仕候事、
         |一、林二郎兵衛下代、村廻仕候とて、川ノ瀬にて鮭を取候由にて、二郎兵衛所ゟ持せ上げ候、弥五左衛
         |  門上ヶ被申候也、

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■再考小倉藩葡萄酒 (五)藩主と葡萄酒

2021-03-25 06:30:20 | 小川研次氏論考

        五、藩主と葡萄酒

        元和六年(1620)、忠興から家督を譲られた忠利は翌年の元和七年(1621)、小倉
        城に入る。早速、母ガラシャの菩提寺秀林院の建立に着手する。
        さらに奇妙な行動を起こすことになる。
        元和八年(1622)五月五日、長崎の西坂で日本キリシタン迫害史最大の殉教事件
        があった。総数五十五人が火刑と斬首による「元和の大殉教」である。
        また五日後、小倉でセスペデスと働いていた司祭カミロ・コンスタンツィオは
        平戸の田平にて火炙りの刑にあった。
        このような連日迫害の嵐の状況下にあるにもかかわらず、忠利は家臣を平戸へ
        向かわせる。
        元和九年(1623)四月、忠利は宇佐郡の郡奉行上田忠左衛門の息子忠蔵を平戸へ
        向かわせ、石などを引く万力の購入を指示する。その技術を平戸にいる忠蔵の
        叔父から極秘に習うこと。そして他に奇特なものがあれば、それも習う事も命
        じていた。(「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」『永青文庫研究』)
        「万力」はこの頃、忠利が力を入れようとした鉱山開発に使用するためのもの
        か。また、葡萄圧搾のためか。
        『永青文庫研究』では「忠蔵の叔父」は上田忠左衛門の実弟太郎右衛門とした。
        三年後の寛永三年(1626)、小倉藩に召抱えられ、葡萄酒を造ることになる上田
        太郎右衛門である。平戸で葡萄酒造りなどの南蛮技術を習得していたのか。

        さて、太郎右衛門が葡萄酒造りに着手する以前の日本の葡萄酒事情を見てみよ
        う。
        17世紀初頭、ポルトガルはオランダ・イギリスによるアジアでの海賊行為によ
        る略奪に苦しんでいた。やがて、ゴアからマカオまでの航路が遮断されるに至
        り、資金供給と物流が困難になった。
        「葡萄酒がないためにあの司教区(日本)の司祭たちは主日と聖人の祝日にしか
        ミサを挙行しない旨を朕に述べ、(中略) 葡萄酒とオリーブ油を給付して頂きた
        いと要請してきた。」(「1618年4月3日付リスボン発、ポルトガル国王のイン
        ディア副王宛書簡」『モンスーン文書と日本』高瀬弘一郎)
        「オランダ人は、依然として(ポルトガルの)船を追撃していた。1618年に、マ
        カオに帰った(ポルトガルの)舟は、往復とも彼らを避けていた。同年、ポルト
        ガル人は、大船の代わりに6隻の小船を遣わした。」(『日本切支丹宗門史』)
        ポルトガルがリスクを軽減するために船荷を小船に分散したのである。
        元和三年(1617)、マカオから長崎へ向けての積荷目録がある。荷受人はイエズ
        ス会の財務責任者である司祭カルロ・スピラノである。(『投銀に関する特殊の
        資料』)
        キリスト教に関する物品だけをみると「ミサ用葡萄酒4瓶」「数珠、祈祷書そ
        の他のキリスト教用品1箱」とある。
        本国ポルトガルからインドのゴア経由でマカオまで樽を運ばれていた葡萄酒の
        ストックが少なくなり、マカオで小分けして瓶詰めされたのであろう。
        「ミサ用葡萄酒4瓶」が逼迫した状況を物語っている。
        瓶の容量は不明だが、ビードロ製であろう。「数珠」はロザリオで「コンタツ
        」と呼ばれていた。スピノラは信徒らの資金により危険を冒してまでも輸入し
        たのである。しかし、1618年12月13日に捕縛され、1622年に火刑となった。
        元和の大殉教である。その後任の財務責任者となったのが、クリスヴァン・フ
        ェレイラである。遠藤周作の『沈黙』の転伴天連(ころびばてれん)のモデルで
        ある。1633年、奇しくも長崎の西坂で中浦ジュリアンと共に穴吊りの刑に処さ
        れ棄教したが、ジュリアンは「私はローマへ行った中浦神父です」と叫び、殉
        教したのである。(『天正少年使節の中浦ジュリアン』結城了悟)
        フェレイラは財務だけでなく、日本中に散らばっている宣教師らの要求に応え
        なければならなかった。
        特に重要なことは、ミサ用葡萄酒であった。ところが2年後の1620年11月30日
        、長崎で大火があり、イエズス会の倉庫が焼け落ちた。長崎にいた巡察使マテ
        ウス・コーロスは「我々は多くのものを失った。薬、ミサ用葡萄酒、その他沢
        山のものだ。」(『キリシタン人物の研究』フーベルト・チースリク)と嘆いた。
        このような状況下で、1623年に将軍になった徳川家光は訴人報償制度を敷き、
        ポルトガル人やスペイン人の追放し、宣教師らを火炙りにした。また、船荷の
        徹底した検査によりキリシタン教関連用品があれば、船長や士官まで死罪とし
        た。(『日本切支丹宗門史』) ミサ用葡萄酒の調達は絶望的になったのである。
        「朕は、日本司教が望む葡萄酒とオリーブ油の給付に関する1618年4月3日付け
        朕の書簡への返信として、昨年(1619年)2月13日付けの貴下の書簡で朕に書き
        送ってきたことを披見した。その(インディア)領国の副王であったドン・ジェ
        ロニモ・デ・アゼヴェドが(日本)司教に与えた葡萄酒二樽の給付を、毎年、彼
        に与えるように命じること。そして日本に修道士たちが居る限り、彼にそれが
        欠乏することのないようにすること。しかし、彼らが日本に居なくなったら、
        前述の葡萄酒の給付は停止すること。」(「1620年3月28日付リスボン発、ポル
        トガル国王のインディア福岡宛書簡」『モンスーン文書と日本』)
        「葡萄酒の給付停止」はやがて現実化することになる。

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■細川小倉藩(526)寛永七年・日帳(十月廿三日~廿五日)

2021-03-24 15:03:01 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十月)廿三~廿五日

         |                                       
         |   廿三日  奥村少兵衛 
         |
町奉行元屋敷出火 |一、夜前、吉田縫殿元屋敷ニ火事出来申候、神原長兵衛抱置申荒仕子、火事出申候、かのものハ走申
火元ノ荒仕子ハ走 |  由、平二郎申来候事
ル        |
遠坂與右初見   |一、遠坂與右衛門、京御礼被申候事、
         |一、安井長左衛門子、右同前、
安井長左死跡ノ処 |一、安井長左衛門尉相果候ニ付、せかれニ御知行五拾石被下、親ノ■家を抱申儀難成御座候、先上申
置        |  度候、重而相当之屋敷拝領仕度由、被申候服部左太右衛門被申候、書物御家奉行日差上候、家や
         |          申渡候事、
         |  しき可被請取由、書付仕、相渡候事、
         |          〃〃〃 〃〃〃〃

         |                                       
         |   廿四日  加来二郎兵衛 
         |
大手門番人病死ノ |一、大手御門番、村田六兵衛病死仕候跡替ニ、西沢与児玉孫左衛門上り人ニ仕、御切米を半分ニ仕、
跡替       |  入申候事、
質部屋番人病死ノ |一、しちへや御番、伊藤十介病死仕候跡替ニ、山川惣右衛門与坂口仁兵衛上り人ニ仕、御切米を半分
跡替       |  ニして入申候事、
口屋ノ番人病死ノ |一、口屋の御番、山本理兵衛病死仕候跡替ニ、財津惣左衛門与塚本理左衛門上り人ニ仕、御切米半分
跡替       |  ニして入申候事、
町籠ノ番人病死ノ |一、町籠之御番、堀口甚右衛門尉病死仕跡替ニ、浅山修理与白木牛介上り人ニ仕、御切米半分ニして、
跡替       |  入申候事、
         |          浜 名 納 豆
浜名納豆     |一、うさの西院所へ、はまななとう取ニ被遣、来候間、高見猪介ニ渡、御前ニ上申候事、
         |  (規矩郡)                         ( 幟 )
天ノ網      |一、篠崎之御百生源右衛門と申もの、参候而申候ハ、てんのあミを、御のほり衆ニ御ゑさし衆かり参、
         |  ひき申候ニ付、御印を合せ可申と申候ヘハ、 御意にて参候、 御印ハ無之由、被申候、如何と
         |  申候、よく申来候と申聞、戻候事、
松山源丞邸ニ臨  |一、今日、松山源丞所へ被成御成候事、左候而、銀子十枚、其外御小袖色々被為拝領候事、
作事奉行ニ米賞与 |一、林弥五左衛門ニ米弐拾石被下候事、
         |                        (辰珍)
入江仁兵衛跡式甥 |一、入江仁兵衛知行、兄子平八ニ不残被遣候旨、津川四郎右衛門殿ニ而被 仰出候、平八ハ忌中にて
         |          (松井興長)    (米田是季)
平八ニ賜与    |  不罷出候ニ付而、佐渡守殿御礼被仰上候、監物殿も忝通、御礼被 仰上候也、

         |                                       
         |   廿五日  奥村少兵衛 
         |                           (正成)
忠利鷹狩晩藪正成 |一、今朝未明ゟ、御鷹野ニ被成 御座候、左候而、今晩は、藪図書所へ被為成筈にて候事、
邸ニ臨ム筈    |
         |                                       (皆川)
         |一、国遠道倫ゟ、 御前へ上り申書物、但、高本千久浦ニ当申候を、被差上候間、則、治アに渡、上
         |  候へと、申渡候事、
         |   (幸長)
茶道永谷道也召出 |一、野田小左衛門被申候ハ、永谷道やと申茶道、今日 御前相済、御礼被申上候、御奉行所へも罷出
二百石      |                       (奥村)
         |  御礼可申旨、被申候間、召連、参上仕候へ共、少兵衛ニ申置候由、被申候、但、知行ハ弐百石也、

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■散歩がてらの御買物

2021-03-24 12:01:38 | 徒然

                               

 27日の史談会例会を前にして、講師をお願いしたN氏から、レザーポインターを準備してほしい旨の連絡があった。
会場に問い合わせたところ、備え付けはないという。
今後も使うものだから会の備品として購入しようと思い、Amazonに注文しようと思ったがどうも間に合いそうもない。
熊本駅前にビッグカメラが進出したというから、整備を終えた駅前広場を見学がてら出かけようと思ったが、奥方が別の用で出かけるというので断念。
朝の散歩がてら30分ほどの距離にあるベスト電器に出かけてCanonのPR500-RCを購入する。
この品一つしかなくメーカーの選択の余地はない。そして気に食わぬのはAmazonより500円ほど高いことだ。
熊本史談会15年の歴史での備品第一号である。今後いろいろ活躍してくれることだろう。

 

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■再考小倉藩葡萄酒 (四)忠興の仕打ち

2021-03-24 06:43:53 | 小川研次氏論考

        四、忠興の仕打ち

        元和四年(1618)、忠興は領内のキリシタンを処刑する。
        「豊前の大名越中殿(細川忠興)は長い間、好意を示してきたが、今度、政治的
        利害と傲慢から、宗教とその宣教師の敵として名乗を上げた。この年の記録に
        は、六箇国(六郡)に三十七人の殉教者を数え、その中ある者は斬首され、他は
        逆さ吊るしにされた。」(『日本切支丹宗門史』)
        1618年2月25日、小倉で処刑されたヨハネ久芳又左衛門(くばまたざえもん)は
        、中津城にいた忠利の家老であった。
        1614年に忠興の命により棄教していたが、翌年、ドミニコ会のハシント・オル
        ファネル神父を自宅に泊めたところ、説得されキリシタンに立ち返ったのであ
        る。(同上)
        神父自身による報告集によると「又左衛門は(私)が豊前国を通過したときに(私
        を)中津の市(まち)の邸に泊めた人物であった。」(オルファネル『日本キリシタ
        ン教会史』) とあり、当時の状況を詳細に記している。
        「特に豊前国では殿(細川忠興)が悪魔、キリスト教に対する心底からの敵、怒
        りっぽい狂人じみた人物であったので、キリシタンたちは怯え慄いていた。し
        たがって、キリシタンはパードレ(神父)に会いに行くのが至難の業だと感じ
        ていた。
        しかし、それにもかかわらず、ごく密かに、時ならぬ頃であったが、会いに行
        った。このような障害があったにせよ、同パードレは多数のキリシタンがいる
        ことを知ったので、殿の居住地・小倉Coduraの市へ辿り着きたいと思った。
        このためにパードレは小倉の地にいる旨をキリシタンに知らせるため一人の男
        を派遣したが、小倉の情勢は極めて厳しかった。とくに前述したドン・ディエ
        ゴ隼人(加賀山隼人)は、今は来るべき時期ではないと知らせてきたので、パー
        ドレは他の地を通って同豊前国の中津の市へ行った。しかし、市のキリシタン
        は物凄い恐怖を感じていたので、敢えて泊めてくれる者は居ないのではないか
        と懸念したが、市に住んでいた殿の長男(三男忠利だが、嫡男の意味)の代理者(
        家老)たる一人の武士が、喜んで大胆にも宿を提供した。彼はパードレが既に到
        着し、市の外れで待っていることを知ると、「ようこそお越し下された。夜に
        なったらパードレ様をご案内するこの者と共に市にお入り下さい」と告げる使
        者を送った。
        この武士の名はユアン(ジョアン)又左衛門といい、パードレが彼の屋敷に数日
        滞在した時、告解のためにごく密かに何人かのキリシタンを招くと共に、彼自
        身も妻も告解をし、パードレとの別れに際しては一日の旅程に伴をつけた。」(
        同)
        1615年の初夏と思われ、昨年から続いた大阪の陣が終局を向かえた直後であろ
        う。
        元和三年(1617)の『コーロス徴収文書』に豊前国中津の代表者の一人に「久芳
        寿庵」の名がある。寿庵はジョアンで、ヨハネである。キリシタンに立ち返っ
        た又左衛門はコンフラリア(信徒組織)の組頭として、イエズス会への文書に署
        名していたのだ。
        しかし、忠興は狙い撃ちしたように又左衛門を処刑したのである。
        「殺害の理由を告げずに謀殺される者もいた。」(同)
        忠利の怒りが伝わる。親子の確執はここから始まったのか。
        あくまで「家」を守る父と「母の魂の救済」とともにキリシタンを守る息子と
        の対立である。

        又左衛門の処刑の翌日、中津で息子のトマスも斬首された。(『日本切支丹宗門
        史』)
        中津関連の処刑されたキリシタンは13名に上る。忠利の家臣もいることから、
        忠興への情報提供者がいたと考える。 
        細川家『切支丹類族帳』に「故越中守召仕古切支丹久芳又左衛門系」とあり、
        子孫四代までも監視体制の対象となっていた。(『肥後切支丹史』)
        翌年の1619年、豊前国キリシタンの柱石である重臣加賀山隼人は小倉で処刑さ
        れるが、この年の処刑は棄教に応じない隼人への見せしめともいえる。
        中津は下毛郡にあり、慶長五年(1600)に入封後、隼人は郡奉行であった。
        隼人の布教活動により中津を中心に宇佐郡、速水郡と並び多くのキリシタンが
        いた。

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■細川小倉藩(525)寛永七年・日帳(十月廿日~廿ニ日)

2021-03-23 08:26:52 | 細川小倉藩

    日帳(寛永七年十月)廿日~廿二日

         |                                       
         |   廿日  加来二郎兵衛 
         |                                 (坂)
馬舟出船     |一、今日、御馬舟出船仕候、御馬拾弐疋、永井安太夫・大塩藤右衛門・酒井忠三郎上ル、但、三艘
         |  にて上ル、
         |                                (規矩郡)
雄鴨持参     |一、小崎與次右衛門所ゟ、真鴨ノおんとり壱つ持せ被差上、被申聞候ハ、徳光ノ庄や、右ノかも持来、
         |                                          御台所之
         |  申候ハ、もちニかゝり申候哉、犬くわへ候て参候由申候而、上申候間、差上申由也、則、熊野半
         |  御さかな奉行歳近五兵衛ニ渡、                             〃〃〃
         |  左衛門ニ渡させ申候也、
         |  〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃

         |                                       
         |   廿一日  奥村少兵衛 
         |
         |一、北村伝兵衛・御鉄炮衆城野五郎介・福嶋五兵衛、江戸ゟ罷下候事、
         | (横山重嘉)
         |一、助進与ノ小頭田代藤右衛門、上り衆ノ内ニ可被召加哉事、
         |                (直正)
         |一、今日、江戸へ被遣御鉄炮衆、寺本八左衛門与須山作右衛門・佐分利兵大夫与かい九兵衛、松野
         |   (親英)                                                                                                                   (松井興長) (主水)
         |  織ア・町三右衛門ニ、被遣大キ 御書箱壱つ相渡ス、又、長岡佐渡殿ゟ寺嶋所へ被遣文箱壱つ渡
         |  遣、
         |    (直政)           (亀右衛門)   (文右衛門)      
松平直政ヘノ状  |一、越前松平出羽様へ之、今日被遣御飛脚、井門与尾崎長兵衛・西沢与大石七兵衛也、 御書箱壱つ
         |  相渡候、長岡佐渡殿ゟ、江戸織ア・三右衛門へ被遣御状一つ渡ス、是ハ出羽様御国ニ無御座、江
         |      (衍)                   (ママ)
         |  戸へニ于今御御座候ハヽ、江戸へ持下候へと相渡候、越前ゟ戻り候ハヽ、佐渡殿御状ハ持かへり
         |   〃
         |  候へと、申付候也、

         |                                       
         |   廿二日  加来二郎兵衛 
         |
         |一、服部左太右衛門孫ニ、御知行被 仰付、忝奉存由にて、御礼ニ被罷出候事、
知行所行ノ届   |一、高田久三郎申候ハ、親角左衛門、御留守ニ成候ヘハ、知行所へ引越申候、左候ヘハ、私も親同
         |  前ニ参候間、其心得可仕旨、被申候事、
忠利帰城ス    |一、今日、 殿様被成 御帰城候事、
         |                 (筑紫重門室、細川幸隆女)
         |一、小林三介も、御上洛被成候ハヽ、御かね様御知行大内田村へ引越申由、被申候事、
         |                        (田川郡)                      
         |
         |一、今度中津へ、口ノ御納戸ゟ、新敷もうせん壱枚、御中間加介請取参、持かへり申候、殊外損申
         |  候由にて、御納戸ノ御番衆持来候、加介ニ相尋候へと申候事、
鉄炮紛失ス    |一、吉田縫殿助登城にて、被申候ハ、神西與三右衛門鉄炮壱丁失せ申候、自然、町ニしちなとニ置申
入質セルヲ返サシ |  儀も可有之候、改くれ候へと被申候ニ、町中申触候処、田町ニ預置申候、則、與三右衛門へ返し
ム        |                         (昭知)  
預主三淵昭知小性 |  申候、預り主ニ、たれ人預ヶ置候やと申候ヘハ、三淵内匠殿小性預置候由申候、御触之時、預ヶ
走ル       |  申主へ、此御改有之由申候ヘハ走候由申候、外ニ、鉄炮壱丁預置候由にて出申候、未主ム御座候
         |  事、             〃〃  

         

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■川瀬巴水の熊本連作

2021-03-23 06:54:20 | オークション

                  

 ヤフオクの検索欄に熊本と打ち込んでみたら、川瀬巴水の「熊本城御幸橋」という作品(コピー版)が出品されていた。
巴水の「熊本城宇土櫓」はコピー版を持っているが、こんな作品があるとは知らずにいた。
御幸橋は大正12年の作品である。ふと巴水には熊本に関するほかの作品があるのではないかと思った。
そこで、「川瀬巴水 熊本」と打ち込んでみたら、案の定ほかに二点の作品が出品されていた。
「熊本春日町」「熊本繪圖湖」である。

明治天皇の熊本行幸は明治5年と35年の二回行われている。行幸橋は二度目の行幸を前にして新たにかけられたものであり、その行幸橋を主題として描かれている。夕焼けが映える川面に、金峯山の頂や熊本城の長塀や楠木が影をおとす様は、橋がコンクリート橋に架け替えられた今日でも変わらぬ風情が見て取れる。

          

左・「熊本春日町」は灯ともし頃の風景だが、さて何処なのだろうか。川は坪井川、遠景の丸い山は万日山か?
川を挟んだ二本木あたりから望む夕景だろうか?

右・「熊本繪圖湖」も夕景であろうか? 下画図の中之島あたりの道路(画図塘)あたりから見る東南東面というような気がする。
右手の丸い山を見付けにそのうちに画図湖の塘までチャリンコを走らせてみようかと考えた。

ひょっとすると他にも巴水の熊本シリーズが存在するのかもしれない。図書館で画集をチェックする必要がありそうだ。

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■再考小倉藩葡萄酒 (三)キリシタン忠利

2021-03-22 16:50:46 | 小川研次氏論考

        三、キリシタン忠利

        何故、忠利はキリシタンを擁護するのだろうか。
        母ガラシャは生前、大阪教会にてセスペデス神父と会っている。生涯唯一の宣
        教師との出会いだった。
        天正15年(1587)、神父の指導により洗礼を授かったガラシャは、同年に豊臣秀
        吉の伴天連追放令により平戸に追放されたセスペデスへ手紙を送っている。
        その一部を抜粋する。
        「私の三歳になる第二子が危篤状態に瀕し、すでに治癒の見込みがなく、アニ
        マ(魂)を失うことに深く悲しんでおりました。マリア(侍女清原マリア)と相談し
        、創造主であるデウス(神)に委ねることを最良の道とし、マリアは密かに洗礼
        を授けてジョアンと名付けました。子供の病はその日から癒え始め、今では殆
        ど健康です。」(『イエズス会日本年報(下)』)
        この時は夫忠興は玉子が洗礼を受けたことも知らなかった。
        さて、「三歳になる第二子」は誰を指しているのだろうか。
        第二子は興秋だが、五歳であり、第三子の忠利は二歳である。原文の手紙を読
        むことは不可能だが、ルイス・フロイスによる編集、また各国へ訳されている
        ことから誤訳もあり得る。年齢から判断すれば、忠利に近い。
        この洗礼は愛息子の死を覚悟した母ガラシャがその魂をデウス(神)に委ねるこ
        とにしたのである。洗礼は信徒も行うこともでき、ガラシャに洗礼を授けた清
        原マリアが再び、その子にも施したのである。この時、使用したのは「ばうち
        いすもの水」(洗礼の水)であり、「ぜすきりしとくるすよりながしたまへる血
        」(イエス・キリストが十字架より流す血)とされていた。(『伴天連記』)
        そして、奇跡的に助かったのである。忠利はこのことを母から当然聞かされて
        いたことだろう。
        1595年にガラシャは大胆な行動を起こす。
        「1595年10月21日付、長崎発信、ルイス・フロイスの1595年度、年報」より
        一部を紹介する。
        「彼女はキリシタンの諸徳の道においては、いつも驚くばかりの進歩を見せて
        おり、己が邸にはキリシタンの婦人以外の婦人はほとんどおいていない。彼女
        はまた、夫の越中(忠興)殿に隠して二人の小さな息子に洗礼を授け、」(『十六
        ・七世紀イエズス会日本報告集』)

        この「二人の小さな息子」は興秋(12)と忠利(10)と考えられる。長男忠隆はす
        でに15歳である。さて、二人の息子はキリシタンとしての自覚はある年齢であ
        るが、父忠興には隠しているために、母との約束で一切封印したのであろう。
        さらに、1597年に2人の娘が洗礼を受けたことが判明してる。
        「本年、またデウス(神)の慈悲に気にいることとなったことは、国主越中殿(忠
        興)夫人ガラシアの二人の娘がキリシタンとなって喜んだことである
        。」(「1597年ゴーメス書簡」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)
        「二人の娘」は長女お長と多羅(たら)である。多羅が先に受洗していたが、こ
        の年にお長が「二人(ガラシャと多羅)のこの上ない喜びのうちに洗礼を授かっ
        た。」
        お長の夫は前野景定であったが、文禄四年(1595)の秀次事件に連座し、秀吉か
        ら切腹させられていた。また、多羅は臼杵藩主稲葉一通に嫁ぐことになる。現
        在の天皇家に繋がる。
        しかし、三年後にガラシャは大阪玉造の屋敷で生涯を閉じた。子供らは最後ま
        でキリシタンとしての母の姿を思い浮かべたことであろう。そして、彼らは「
        キリシタン」であることを生涯、口にすることはなかった。
        「私の魂は聖なる信仰の同じ流れの中にあり、それが報いられないのは遺憾で
        ある。」(「1611年度日本年報」)
        忠利の言葉である。

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■細川小倉藩(524)寛永七年・日帳(十月十六日~十九日)

2021-03-22 10:00:36 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年十月)十六日~十九日

         |   十五日記事ナシ・脱カ?
         |
         |                                       
         |   十六日  加来二郎兵衛 
         |
         |      (佐分利)    (惣左衛門)
江戸ヨリノ書状ノ |一、江戸ゟ、兵太夫与森作右衛門・財津与岡久右衛門罷下候、江戸を九月廿五日に立、大坂ニ十月六
覚        |  日ニ着、持下状数覚 
         |  一、大文箱壱つ、 御留守居衆ゟ上ル、
         |             (浅山)(田中氏次)         
         |  一、文箱壱つ、同人ゟ修理・兵庫へ、
         |  一、文箱壱つ、三斎様御留守居衆ゟ、貴田半左衛門へ之壱つ、
         |         (松井興長)
         |  一、状壱からけ、式ア殿へ、
         |               (宗像)
江戸ノ掃除坊主交 |一、江戸ゟ御さうち坊主宗閑・宗古・了元・玄徳かわり候て、罷下候事、
替        |
         |  (細川光尚)(三淵宗由)
         |一、御六様ゟ、長岡藤十郎殿へ 御書被遣候也、
江戸ヨリ飛脚ノ行 |一、江戸ゟ、又、御飛脚罷下候、江戸を今月五日ノ晩ノ六つ時ニ出、大坂ニ十一日之朝たつノ上刻ニ
程        |                                   (佐分利)
         |  着仕由、申候事、持下候もの覚、下ル御鉄炮衆ハ 丞太夫与大富一兵衛・兵大夫与後藤勘介
         |  一、御内書一包、
         |  一、文箱壱つ、御留守居衆ゟ、
         |  一、壱包、同人ゟ我々へ之状、
         |
         |  一、稲葉民ア様御内衆へ、江戸稲葉様御留守居衆ゟノ状壱通、
         |  一、清田與三右衛門・神戸喜左衛門・町源右衛門ゟ、貴田半左衛門方へ之状壱通、
大坂借小早    |一、大坂かり小早之船頭茂左衛門、今日罷下候、則、返事遣候也、
         |    ( 便 )
         |一、右ノたゟニ、佐野嶋平兵衛所ゟ、糸川長左衛門方へ、切手ノ由にて、一包下候を、御船頭乃美十
         |  左衛門ニ言伝遣也、
休閑       |一、休閑様御乗上候御船頭三木清太夫、休閑様ゟ、金壱歩判壱つ拝領仕由、申候事、

         |                                       
         |   十七日  奥村少兵衛 
         |
船頭加増ノ書物  |一、御船頭衆御扶持ノ御加増被下候、御船頭衆ゟ被書上書物、白井兵介ニかし申候、写候而可差上由
         |  ニ付、右ノ分也、但、 御書判有之書物也、うつしともニ、追付上被申筈也、

         |                                       
         |   十八日  加来二郎兵衛
         |
江戸扶持方奉行  |一、横田権佐与栗田與兵衛、江戸ニ而之御ふちかた奉行ニ申付候、有田次兵衛と被申合候へと、申渡
         |  候事
         |
         |一、休閑様ゟ、御船頭三木清太夫ニ被下候者ノ書付、幷浅野但馬様へ被遣候御飛脚ニ、但馬様ゟ被下
         |  候者ノ書付、飯田才兵衛ニ渡申候也、

         |                                       
         |   十九日  奥村少郎兵衛 
         |
         | (ママ)
         |一

 

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■山本周五郎の作品に現れた「槇嶋玄蕃」

2021-03-22 06:33:41 | 書籍・読書

 最近は朝6時過ぎに起き、朝食を取りストックのブログの記事をUP、天気が良ければ朝散歩に出る。
帰ってきてから、ブログの記事のタイピング、これも二時間ほどあれば完了してしまう。
それ以外は全く閑で、身の置き所がないという感じである。
どうやら史談会の雑事をほとんどしなくなったことが原因しているようだ。
そこで勢い読書ということになる。さて何を読もうかと本棚をあさって、過日は新潮文庫の山本周五郎の「町奉行日記」を取り出したことであった。
                  町奉行日記 新潮文庫/山本周五郎(著者)

それぞれ面白く読んだが、その中の「土佐の国柱」に「槇嶋玄蕃」の名前を見つけて、少々驚いてしまった。

 ーあらすじー
 長曾我部氏に代り、土佐に入封した山内一豊は、領国の統治がうまく進まないまま死の病に伏せってしまった。
一豊は戦場を共に経めぐった老臣・高閑斧兵衛ただ一人に追腹を許した。しかしその追腹は三年後だとされ、土産を持ってこいという条件があった。
それは一豊が腐心して成しえなかった、土佐一国の平定がその条件だったのだ。

高閑斧兵衛は、家中をあざむき、山内家に反抗する地侍や槇嶋玄蕃などを巻き込み結託する形で、自らも討たれる武装蜂起を企てるという荒療治で、
一豊の積年の課題を解決した。

 以前も読んでいるから、読み進めていると筋書きは段々思い出していく。しかし「槇嶋玄蕃」の名前は憶えていなかった。
この事件については創作だろうが、槇嶋玄蕃を反山内で登場させたところを見ると、長曾我部氏と緊密な関係にあった事実があったのだろうか。
一豊の没年は慶長10年だが、事件は13年以前の事となる。事は以前に露見したが、槇嶋玄蕃はこの時この場にはいなかったという話になる。
槇嶋玄蕃(昭光・云庵)はその後西側について出陣したりしている。細川家に召出されるのは、慶長19年以降のことである。
私の槇嶋氏に対するこだわりは、わが家の初代が槇嶋氏等の肝煎によって細川家に仕官したからである。

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■夕方散歩

2021-03-21 17:21:57 | オークション

 今日は午前午後と雨模様、夕方4時ころから太陽も顔を出したので遅まきながらの散歩に出る。
桜はまだ8分先くらいだろうか。それでも雨に打たれて、随分花を散らしていた。
水たまりでは花筏状態である。雨のせいで花見で散策する人もまったくいない。
健軍自衛隊の正面の遊歩道沿いが桜の植樹1.2キロ、裏手はクスノキやとうかえでの植栽がなされているが、夫々風と雨のせいでこのような塩梅である。

  

   地面はすべて「桜散らし」模様です。

         

          裏手はクスノキの落ち葉で「絨毯」状態でした。

              

               毎年一番に咲く桜はもう葉桜になりかけです。

                   

                        蜜をすう小鳥

                        

                          道向こうの水路の上の桜

 

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■細川小倉藩(523)寛永七年・日帳(十月十三日~十四日)

2021-03-21 12:59:28 | 細川小倉藩

     日帳(寛永七年十月)十三日~十四日

         |        (ママ)                               
         |   十三日   
         |                          (ママ)
忠利書状幕府将棊 |一、今日、明石権太夫・町市丞被罷上候ニ、大坂にて、道各へ成被遣 御書相渡、遣申候、其外之状
指宛       |  共相渡申候事、
         |                  (矢野吉重)
矢野吉重ヘノ絵具 |一、京都衆へ、江戸へ被差下絵書三郎兵衛ニ渡被申絵具之差帋、上せ申候事、
ノ差紙      |
         |                                     被
筑前ヨリ走女   |一、昨日、筑前ゟ走来申女三人、式ア殿へ可被召置通、被仰候へ共、式ア殿ニハ不召置候、町ノかめ
         |  や所ニ召置候由、被仰聞候事、
         | (湘雲守沅)
         |一、沅西堂、中津へ御供にて被成御越候付、御鉄炮衆壱人・のり物かき六人・人足五人被仰付候様ニ
         |  と、宇右衛門被申候事、
         |一、吉田彦右衛門、今朝病死仕候、浦上瀬兵衛へ被申候也、
         |一、福西喜太郎、今日罷下由にて登城、則、 御目見へ仕由、申候事、

         |                               
         |   十四日  加来二郎兵衛  
         |
牽馬ノ造作銀   |一、蒲田半十郎、乗馬壱疋、江戸御供ニひかせ被申候間、造佐銀可渡旨、朝山斎切帋ニ而承候也、
         |         (可政)
         |一、中折帋三帖、加々山主馬殿ニかし申候、使ハ卜うん也、
         |              (田中氏次)        (惣右衛門)
         |一、明日、江戸へ被遣候ものハ、兵庫与藤原少兵衛・山川与和田久左衛門と申者也、
         |                             (浅山)
借米ノ切手ニ一人 |一、南喜右衛門・青木三郎右衛門、かり米之切手持参仕候間、修理一判にて遣申候、兵庫ハ御用ニ御
ノ判       |  広間へ被罷出ニ付而、右之仕合候、此段前かと兵庫とも談合仕置候ニ付而、判にて遣候也、
笠持草履取    |一、中津御供ノ御笠持弐人・御さうり取弐人不足仕候間、別人を被仰付可被下由、喜蔵申候事、
         |                                      (精)
宗像景延江戸ニテ |一、宗像清兵衛、江戸にて不届儀有之付、知行ノ内、被為押置候へ共、御郡之儀を情を出し候由、立
不届ノ儀アリ   |                                                                    (立政)
知行差押ヲ免ズ  |   御耳候ニ付、被返遣之旨、奉道家左近右衛門、
         |                                          (ママ) 
上田忠左衛門モ免 |一、上田忠左衛門も、前かと知行ノ内、被為押置候へ共、御馬やニよく詰、御奉公仕候通、被通 聞
サル       |  召候間、被返遣旨、左近右衛門を以、被 仰出候也、
         |一、治ア・おき所ゟ
         |  〃〃 〃〃〃〃            (元次)
小々性細引綯イノ |一、御小々性衆ノほそひきなわせ申奉行、芦田與兵衛与大川新左衛門申付候也、
奉行       |
江戸ヘノ物数覚  |一、明日、江戸へ被遣御鉄炮衆兵庫与藤原少兵衛・山川与和田久左衛門ニ渡ス物数ノ覚
         |   (松野親英)(町)
         |  一、織ア・三右衛門へ被遣 御文箱一つ、
         |    (松井興長)(松井康之室)
         |  一、佐渡殿ゟ、自徳院殿へ被遣御状一包、
         |    (主水)
         |  一、寺嶋へ、我々ゟノ状一つ、
         |              (宕)
愛宕ノ茶壷ヲ下ス |  一、京衆へ、御つほを愛岩ゟ取下置候へとノ状、大坂ゟ届候へと申付、遣、
         |
                〇コノ間、落丁アルカ
         |
         | 同日  (重嘉)
         |一、横山助進与久留市兵衛、御家中ゟ御やとい被成御小人、御郡にての賄奉行ニ遣、
         |   (長晟)
浅野長晟飛脚へ賞 |一、浅野但馬様へ被遣御飛脚罷下候、但馬様ゟ御返書持■下ル、御飛脚ニ、金壱歩弐つ被下候由申
与        |  候、但、御飛脚ハ御小人也、


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