二、ガラシャの菩提
ガラシャの霊的指導者であったグレゴリオ・デ・セスペデス神父が没する1611
年を最後に忠興はその姿勢を一変させる。江戸幕府の禁教令に従い、領内のキ
リシタンに棄教・転宗を迫ることになる。
「予の国には伴天連もキリシタンもいらない。伴天連グレゴリオ・デ・セスペ
デスが生きている間は我慢もしよう。彼への愛があるから、すべてを破壊せず
にいるのだ」(「1611年度日本年報」ジョアン・ロドリゲス・ジランのイエズ
ス会総長宛、1612年3月10日付、長崎発信)
慶長十四年(1614)の『御国中伴天連門徒御改之一紙目録』(松井家文書)によれ
ば、転宗者は藩内全体で2047人(奉公人105人、農民・町人1942人) である。(『
大分県史近世篇II』)
これは、「小倉の市(まち)」だけでも三千人以上いたとされるから(「1605年日
本の諸事」『イエズス会日本報告集』)、多くのキリシタンが転宗しなかったと
みられる。
1612年に教会も破却され、ガラシャの御霊への祈りの場が無くなったのである。
細川家記『綿考輯録』に「伽羅舎様」(がらしゃさま)に関する記述がある。
「豊前小倉の切支丹寺にて(ガラシャの)絵像に御書かせなされけるに、切支丹
は死を潔くする事をたっとぶにより、火煙の内に焼させ給う半身を書きたりけ
れば、この様にむさとしたる像を書くものがとて、宗門を改め浄土宗になされ
、極楽寺へ御位牌を遣わされ候、」(巻十三)
忠興が宣教師にガラシャの肖像画の作成依頼したが、火煙の中に描かれた姿に
激怒したのである。結果、キリスト教の教会で祈っていたガラシャの位牌を浄
土宗極楽寺(米町)へ移したという。ここで重要なことは玉子の洗礼名と小倉に
教会が存在していたことが、日本側の史料に記録されていることである。
現在の極楽寺は富野地区へ移転し、廃寺となり墓地を残すのみとなっている。
残念ながら、玉子の法要の記録は皆無である。
元和年間(1615~1624)に菩提寺秀林院が建立される。現在の北九州市立医療セ
ンター辺りである。
「豊前に秀林院御建立は元和年中と相見え、同十年の正月寺社御建立札の書付
に秀林院も見え申す候、」(『綿考輯録』)とあり、元和七年(1621)より九年
(1623)としている。
つまり、忠利が忠興隠居後に中津から小倉に入った元和七年(1621)以降となる。
それでは、教会破却後の1612年から1620年までの9年間は、どこで弔ってい
たのだろうか。
1611年末に忠興により小倉から追放された伊東マンショは、忠利のいる中津に
向かった。そして、クリスマスの様子を伝えている。
「当地の城には領主の長子(三男だが嫡子)で国の世継ぎである内記殿が居住し
ていた。このことについてはこれまでなんども、どれほどの恩寵を被り、信仰
を擁護してくださったか記した。その父君のように心変わりは決してせず、そ
ればかりか、あのような酷い仕打ちは好まないと公然と言い、司祭及びキリシ
タン達に、主(キリスト)の降誕を、内も外も凡ゆる装飾で荘厳に祝うことを許
した。」(「1611年度日本年報」)
忠利はマンショが長崎へ去る時に「自らの判断で、来たい時にはいつでもキリ
シタンを訪ねられるよう許可し、将来についても大きな希望を与える」と伝え
た。(同上) しかし、マンショは翌年、長崎で病没する。
忠興の重臣であり豊前国のキリシタンの柱石加賀山隼人の妹(姉)ルイザがイエ
ズス会日本副管区長に宛てた書簡に「忠興殿が私どもが我が家に匿っている伴
天連様を長崎に送り返す様にお求めになりました。」(「1615,1616年度日本年
報」)とあり、司祭が潜伏していたのである。
また、天正遣欧少年使節の中浦ジュリアン神父も豊前に入っていた。(1620年
『日本切支丹宗門史』) ジュリアンは小倉で捕縛される1632年まで豊前国に潜
伏していたのである。
この様な状況下で、神父らは潜伏し、キリシタンへの奉仕を継続していたのだ。
忠利は中津にて、母ガラシャへのミサを挙行していたと推考できる。
日帳(寛永七年十月)十日~十二日
|
| 十日 加来二郎兵衛
| (町)
江戸へ音信 |一、江戸へ、今朝御鉄炮衆弐人、山川惣右衛門与小林市丞・井関久馬助与宗村九兵衛被遣候二、三
| (松野親英) (自徳院、松井康之室)
| 右衛門尉・織ア所へ 御書箱弐つ、しとくゐん殿へ、式ア殿ゟ状壱包、江戸御留守居衆へ、我等
| 共ゟノ状壱つ、右之分相渡、夘刻ニ出船申付候事、
御蔵納ノ米雑穀ノ |一、御蔵入之御米・さこくこしらへ悪敷仕、御蔵入仕候時、冣前如被仰付、納主ニ判形をさせ置候而
検収 | ハかきり御座候、こめ・ゑこ・なたね・ひへ、上米・上籾なとの類、員数究候物之分ハ、悪敷を
| 請取候てハ、御用つかへ申候間、いかゝ可仕哉と、御蔵奉行衆被申候、松の御丸衆中へも、其段
| 段合被仕候へと申候処、彼衆被申候ハ、左様ノ員数究たる物ハ、湯治直させ、御蔵入させ可然由、
| 被申候、其分ニ被仕候へと申渡候事、
| (春木)
呼野南口屋番病死 |一、呼野南ノ御口屋御番原吉右衛門、十月三日ニ病死仕候由、金大夫被申候事、せかれ十二、三ニ成
| 申むすこ一人御座候、其外ほそきせかれ三人御座候由也、
| 〃〃
宇佐茶屋修繕奉行 |一、うさ御茶屋繕御作事之御奉行ニ、山田久丞・菅村藤吉、此両人申付候、則、其段書状ニ申遣候事、
| (池田忠雄)
池田忠雄ヨリ音信 |一、備前之宮内様ゟ、御飛脚一人参候由、吉田縫殿被申候事、
届 |
|
| 十一日 奥村少兵衛
|
忠利本丸ニ数寄ノ |一、今朝は、御本丸ニて御すき御座候、左候而、御膳通候而、御鷹野ニ被成御座候事、
後鷹狩ス |
| (一通)
稲葉一通ヨリ音信 |一、稲葉民ア様ゟ御使者被参候、吉田縫殿所ゟ人をそへ、御文箱・御音信物持せ被上候事、
御菓子請取人へ差 |一、九月十六日御納之時、御くハし請取人、かちノ御小性真玉半右衛門・林作左衛門ニ、さしかミを
紙 | させ可申候、左無之候ヘハ、御くハし代米請取申儀不相成由、椋梨半兵衛被申候事、
| (規矩郡) (同郡) (中村)
百性御印無キ鷹匠 |一、徳光村之源次郎と申御百性申来候ハ、今朝横川へ御鷹師横山九介・太左衛門と申由ニ而、御鷹つ
ヲ報告 | かひ被申候、 御印を合可申由、申候へ共、 御印無之由、被申候間、此段御郡奉行衆へ申上候
| ヘハ、御奉行衆へ申候へと、被仰候由、申来候、 御意ニ而被参候間、可得其意候、能申来候通、
| 申渡候事、
|一、稲葉民ア様ゟノ御返書出申候、則、御使ニ渡申候事、但、御使ニ渡させ申候ハ、守田少兵衛ニ持
| せ遣候也、
|
| 十二日 加来二郎兵衛
| (松井興長)
筑前ヨリ走女 |一、筑前ゟ、女三人走来申候、人留之御番尾藤新介召連参候ニ付、御家老衆へつれさせ候処、式ア殿
| (通柏、之房)
| にて、かの女ノ口を御きかせ被成候処、かの女申分ハ、筑前にてハ、井上道伯内大野久太夫と申
| 仁所ニ奉公仕居候へ共、かの主人きつき仁にて御座候ニ付、かんにん不罷成、走来申候、少も別
| 之子細務御座候由申候、幸、奉公を式ア所ニ可仕由申候間、則、三人共ニ、式ア殿ニ被 召抱候
| 由、被仰聞候、かの女一人ハ歳五十、其むすめ十、又、一人ハ十九ニ罷成申由、申候事、
| ・頼母殿・監物殿 (友好)
松井友好ノ人足中 |一、式ア殿〇ゟ、御使者を以、被仰聞候ハ、松井宇右衛門尉、今度御加増之知行ノ内ノ百性ノ名子、
間口論ス | 宇右衛門所ニ人足ニ参居候処、夜前、宇右衛門中間ともとからかい仕、かの人足も中間ともたゝ
| 候へと
| き申候処、かの人足申候ハ、かやうニたゝかれ候て、此分ニ而ハかんにん不仕候間、覚■■申ニ
| (植木、鞍手郡)
| 付、又、いかやう中間塘可仕哉と、気遣ニ存、たちのき申候、かの人足ノおや、筑前之内うへ木
惣別筑前へノ走者 | と申所ニ居申候ニ付、かの所へ可参と、心さし申由申候、然上ハ、惣別筑前へ走候物ハ御誅伐被
ハ誅伐 | 仰付候、則、宇右衛門も此段被承届、上可申由被申候間、御誅伐被 仰付候様ニ可被申上通、
| 右三使ニて被仰聞候事、
|一、右、宇右衛門人足、筑前へ走参候を、山知ノ御百性仁左衛門と申ものとらへ申候処ニ、吉右衛門・
| 平次郎と申もの両人参、手伝仕候由申候也、
| (三淵重政)
三淵重政賄目録 |一、右馬助殿御賄目録ニ加判仕、松之御丸衆へ、目録前可被相渡通、申渡候事、
中間小頭遺物ニ脇 |一、御中間小頭與九郎、異物ニ上申候わきさし、子ニもとし可申通、被 仰出ニ付而、もとし申候、
| (助脱)
差ヲ上グ | 但、井関久馬与小頭也、
ご厚誼をいただいている小倉藩葡萄酒研究会の小川研次氏から、論考「再考小倉藩葡萄酒」をお贈りいただいた。
私は葡萄酒そのものについては美味しくはたしなむものの、知識はなく門外漢である。
ただ、高祖母の実家・上田家の先祖の一族が日本で初めてといわれる「葡萄酒作り」に携わっていたということを知り、いろいろ調べてきた。
小川氏との出会いはこのことによってである。
過去の関係ブログ
・細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォー 2007-11-08
・黄飯・鳥めし・ナンハン料理 2013-09-03
・大分合同新聞から 2013-10-23
・すでに知られていましたよ・・「忠利ワイン」 2016-11-02
今回の論考「再考小倉藩葡萄酒」は「再考」とあるように、以前「小倉藩葡萄酒」という小冊子が刊行されご恵贈いただいた。
新聞やメディアで騒がれ始め、熊本大学永青文庫研究センターが2018年4月創刊した「永青文庫研究」にに、後藤典子氏により『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』が発表されるに及んで、「小倉藩葡萄酒」は大いに知られることになった。
地元では原料のがらみの栽培が始まり、葡萄酒の復元なども始まって地域おこしの一助にもなっている。
今回の論考についても、後藤氏の論考とは論点を異にするが、ガラシャ夫人をはじめとする切支丹細川氏に対する、小川氏の熱い思いがあふれている。
8回ほどにわたりご紹介申し上げる。
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再考小倉藩葡萄酒 小倉藩葡萄酒研究会 小川研次
はじめに
小倉藩主細川忠利の命令による葡萄酒製造が行われていた。
細川家古文書により寛永四年(1627)から肥後国転封の年寛永九年(1632)までの
六年間の製造が確認された。(熊本大学永青文庫研究センター)
さて、本稿の目的は「なぜ忠利は葡萄酒を造ったのか」を再考することである。
熊本大学は葡萄酒を虚弱体質忠利の「御薬酒」と結論付けた。
(『小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景』後藤典子)
著者はこの発表のおよそ一年前に拙稿『小倉藩葡萄酒事情』においてキリスト
教の「ミサ用」とした。この相違についても考察してみよう。
一、 ミサ用葡萄酒
天正二十年(1592)、イエズス会の巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは布
教拡大に伴うミサ用葡萄酒の不足を解消するために、ローマに質問書を送る。
「ミサ」とは、イエス・キリストの「最後の晩餐」に由来するカトリック教会
の「聖体の秘跡」の典礼である。「聖体」はキリストの肉と血を象徴するパン
と葡萄酒である。
「日本に於いて野性の葡萄蔓(エビカズラ)からできる葡萄酒でミサを捧げてよ
いでしょうか。この野生の葡萄蔓は粒はもっているが葉は小さくて、取れる葡
萄酒もやや弱いものです。それ故ポルトガルの葡萄酒を足さないと長期の保存
に耐えません。とはいえ、色、味、蔓はヨーロッパ産のと較べて遜色がある訳
ではありません。この葡萄酒でミサをすることが許されるでしょうか。あるい
はそうするのは少なくとも、船の到着が危ぶまれる時だけにした方がよいでし
ょうか。その際、野生の蔓の葡萄酒とポルトガル産の葡萄酒を分量を少なめに
して、混ぜ合わせてよいでしょうか。」
(「日本の倫理上の諸問題について」『中世思想原典集成』)
この質問書はイエズス会総長とローマ教皇に回答を求めたものだが、返書は六
年後の1598年に日本に届いた。
「ヨーロッパの葡萄酒がない間は、それを用いてミサをすることができます
。」(同上)
このことにより、日本製葡萄酒をミサ聖祭に使用が可能になったが、日本の在
来種による葡萄酒はアルコール度数が低いために、ポルトガル産を混ぜること
により長期保存に耐えることにした。
「野生の葡萄蔓」は当時、キリスト教布教活動の拠点であった九州の「蘡薁・
エビヅル」であり、東北地方の「ヤマブドウ」と異種である。
慶長五年(1600)、豊前国へ入封した細川忠興はキリシタンとして死んだ妻玉子
(洗礼名ガラシャ)のために毎年、命日に記念ミサを挙行した。
ガラシャを洗礼に導いたスペイン人司祭グレゴリオ・デ・セスペデスは没する
までの十一年間、小倉教会と中津教会の上長として献身的に尽くした。
また、慶長十三年(1608)にマカオで司祭に叙階された天正遣欧少年使節の伊東
マンショは小倉教会に勤め、セスペデスを支えた。
実は、マンショとワインに関する貴重な記録が残されている。これは当時、日
本に輸入されていたワインの姿を示唆し、小倉藩葡萄酒にも影響を与えたと考
えられる。
スペイン王(兼ポルトガル王)フェリペ二世のお抱え料理人フランシスコ・マル
ティネス・モンチーノの著書『Gastronomi ia Alicante Conduchos de
Navidad』(1585年)である。
1584年12月末、マドリードでフェリペ二世との謁見を終えた天正遣欧少年使節
の一行は、バレンシア州最南端の地アリカンテにいた。
『フォンディリョン:アリカンテのブドウ園から造られる年代ものの甘いワイン
は至福の喜びを与えてくれる。そして今、王子(使節)が試飲した時に「これが
様々な国でとても有名なアリカンテのワインですね!」と言った。』
「王子」は単数形で書かれているが、使節正使の伊東マンショと思われる。
さらにモンチーノは貴重な情報を伝えている。
「フォンディリョンの起源はヘレスの有名なワインのペドロ・ヒメネスと同じ
であり、カルロス一世(1500~1588)の兵士が造ったことに始まる。」
つまり、この時代にアリカンテとヘレスのワインが長い航海に耐えうる高品質
であったことを意味する。
現在のフォンディリョンは黒ブドウ「モナストレル=ムールヴェードル(仏)マタ
ロ(豪)」を遅摘し、糖分を凝縮させるために天日干しをした後に発酵させるの
だが、ソレラ・システムの大樽で八年以上熟成させる。酒精強化せずに酸化熟
成させたアリカンテの伝統的なビノ・ランシオ(酸化熟成ワイン)である。
「ペドロ・ヒメネスと同じ」とは、その独特な製法で、現在でも白ブドウ「ペ
ドロ・ヒメネス」を天日干しているヘレスの超甘口シェリーは有名だ。
現在、シェリーにも導入されているソレラ・システムの出現は十九世紀半ばと
される。(『シェリー、ポート、マデイラの本』明比淑子著)
当時のワインは酒精強化せずに、藁の上で干したり(ストローワイン)、吊るし
たりして干し葡萄の糖度を上げた高アルコール度数の甘口ワインだった。この
独特な製法はギリシア、イタリア、フランス、ポルトガルにも存在し、現在も
伝わる。
日帳(寛永七年十月)五日~九日
|
| 五日 奥村少兵衛
| (規矩郡)
三斎へ音信占地茸 |一、三斎様へ、しめちたけ壱籠・御文箱被成御添、次飛脚にて被進候を、黒原迄御小人ノ少八ニ持せ
| 遣也、
| (重義)豊後府内二代藩主
竹中重義へ栄螺 |一、竹中采女様へ被進之さゝい悪敷成可申由ニ而、新敷を弐籠相調、御船頭宮崎孫右衛門ニ持せ、式
| (長門豊浦郡)
| ア殿ゟ御状御添候而、下ノ関へ、関内・長兵衛被居候ニ、被遣候事、
ビロードノ屏風 |一、ひろうとの御屏風ノ御奉行真玉半右衛門、御横目ハ守田少兵衛也、
| (規矩郡)
三斎ヘノ鯉 |一、三斎様へ、来ル九日ニ被進せ候五つのこいの儀、寸尺金子喜左衛門ゟ書付出候を、則、合馬御惣
| 庄屋清六ニ相渡、来ル八日ニ持来候へと、かたく申渡候也、
| ふたへ付也、
竹中重義下ノ関通 |一、竹中采女殿下ノ関御通り候ニ付而、遠坂關内被遣候へ共、采女おそく被通候間、弐珀のさゝへく
行 | さり可申候間、新敷さゝへを遣、取替可申由、奉り式ア少殿、則、申付、遣候也、
熊皮ノ障泥 |一、熊の皮の御あおり一かけ出来申候を、小林久介持被参候、被懸 御目候へと、申渡候也、
有吉英貴邸へ晩ノ |一、頼母殿へ、晩の御数寄ニ被成 御座候也、
数寄ニ臨ム |
高罠ノ奉行 |一、高わな奉行ニ、歩之御小性奥村市左衛門申付候也、
|一、中津ゟ、 三斎様御買物之儀ニ付而、飯銅上右衛門所ヘノ状・我等共之状・佐藤将監所へ之状
| 参候事、
|
| 〇六日・七日分 記載ナシ、
|
|
| 八日 加来二郎兵衛
|
| (沼田延之)
草履取ノ親座頭屋 |一、御さうり取竹蔵と申ものゝ親座頭、かけゆ殿下やしきノわき、山田少兵衛上候内を被下候へと、
敷ヲ乞ウ | (吉谷)
| 平太夫を以申候、せかれ竹蔵御奉公仕居儀候間、遣可被申由、申渡候事、
| (規矩郡)
氏家元高邸ニ臨ム |一、今晩ハ氏家志摩殿へ、曽根ゟ直ニ被成御座候也、
|
| 九日 奥村少兵衛
|
彦山政所坊親死ス |一、政所坊親、今朝卯刻ニ御果候由、財津惣兵衛被申候事、
| (長晟)
浅野長晟へ音信 |一、浅野但馬様へ御飛脚、御小人ノ市介ニ、御文箱相渡、遣候也、
八喜木工困窮ス |一、八木木工手前不罷成ニ付、京都御借銀ノ内を被成御借シ、自然/\ニ知行物成之内を以、可取立
京都借銀ノ御印 | との 御印、寛五ノ十一月ニ被成御出ニ付、今度も弐貫め余かり被申候、上方利足なミと、尺状
上方ノ利子 | (豊岡)
| ニ書付させ候、上方ノ利ハ弐年ごし、参年こしにならてハ不極由、甚丞被申候、此前ノ利ノなら
| (ま脱)
| し、年中一わり弐歩ニ当候ニ付、大かたたゝい迄究置候事、
江戸ヨリノ飛脚下 |一、江戸ゟ、黒部吉右衛門与帆足十左衛門・伊藤佐左衛門尉参候、江戸を九月十日ニ立、大坂ニ同廿二
ル | 日ニ着、御舟無之付、廿八日ノ夜出船仕由申候、田辺七郎兵衛も同前ニ被罷下候也、
江戸ヨリノ音信 | 右ノ持下候御状数
| 一、御留守居衆ゟ壱つ、
| (本多政朝)
| 一、本田甲斐様ゟ壱つ、
| (忠真)
| 一、小笠原右近様ゟ一壱つ、
| 一、御留守居衆ゟ壱つ、
| 右之前、飯田才兵衛を以上ル、
|一、江戸へ、明日被遣わ御鉄炮衆、山川惣右衛門与小林市丞・井関久馬助与宗村九兵衛両人也、但、横
| 山作兵衛同船ニ而上ス、但、御物ニ付遣衆にてハ無之候、直ニ江戸へ遣二人也、
|一、貴田半左衛門尉所へ」、被遣 御書箱、持せ遣可申旨にて、被成御出候也、
| (細川光尚)
光尚へ小刀 薬 |一、御六様へ被進せ御小刀、幷御薬入申候小箱壱つ、
|
|一、松野織ア・町三右衛門へ被遣大文箱一つ、山川惣右衛門与小林市丞■・井関久馬助与宗村九兵衛
| ニ、右弐つの箱相渡、江戸へ被遣候也、
|一、江戸へ西沢与樋田少兵衛、
| 〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
| 為早便
江戸ヨリ早便 |一、江戸ゟ〇桑原与石原角左衛門・国友半右衛門ヨ岩男権右衛門罷下候、江戸九月廿七日に立、大坂
| (外)
| ニ十月三日ニ着、続二右衛門舟ニ而下ル、言上ノ文箱壱つ持下、其状書状数多持下ル、
京ヨリ太刀 |一、西沢与樋田少兵衛ハ、御太刀取二、京へ被遣、御太刀持下ル、則、上申候、
大坂ヨリ赤貝 |一、大坂より赤かい廿下ル、則、上ル、
十八、終焉の地
平太夫が亡くなる一年前の慶長十一年(一六〇六)に黒田藩に事件が起きる。
大隈城(益富城)の後藤又兵衛が突然出奔したのである。
「時枝中興の祖重記は黒田如水の招きにより一族郎党を引具し慶長五年黒田藩に列し同七年三千石領地被下同十一年嘉穂郡益富城主後藤又兵衛出奔後毛利但馬守(母利太兵衛)の居城たりし鞍手郡鷹取城を、その平太夫に賜はる其後長政公の御意に違ひ御勘気を蒙り閉門仰付黒崎に蟄居井上周防守に御預けとなり妻と下女刀持二人下僕三人召連れ候様仰付慶長十二年十月九日閉門のまゝ黒崎に病没現在の所に葬られたり。」(『八幡市舊蹟史』)
「長政公の御意に違ひ御勘気を蒙り」とあるが、具体的にその理由が明らかになる。福田千鶴著『後藤又兵衛』から一部引用させていただく。
「慶長十一年に後藤又兵衛が大隈城を出奔すると、長政はその跡に鷹取城を預けていた母利友信(太兵衛)を移し、鷹取城には時枝鎮継(重起とも)を置き、五千石を加増して一万石を与えようとした。(中略) 筑前入国にも従い、入国後は菅正利組に属して三千石を領した。鎮継はキリシタンであったため、長政は鎮継を鷹取城に移すにあたり棄教を命じたが、鎮継はこれを拒否した。そこで、知行召し上げとなり、黒田家家老の井上之房に預けられ、その知行黒崎に寓居し、数年して同地に没した。」
典拠は先述の貞享元年(一六八四)に完成した「庄野先祖之覚 貞享元年記」である。
時枝氏の麾下にあった宇佐宮社人庄野半大夫正直は平太夫鎮継とともに筑前国へ入った。
「御國ニても半大夫殿ハ平大夫どの家来ニて御座候、平大夫殿御知行五千石ニて候、其節後藤又兵衛殿大熊之城御明、他国之時、鷹取城代毛利但馬どの大隈ニ被遣、其跡ニ平大夫殿五千石之加増壱万石ニて、永満寺鷹取之城御預可被成と長政公被仰渡、其頃何も切支丹之宗門はやり、平大夫殿も切支丹ニて候間、彼宗門ころひ候へと被仰付候へ共、達て御理り被申候、左候ハゝ加勢も候や、此方知行不入ものとの御意ニて御取上、井上道柏ニ御預、黒崎ニ居申、無念ニ被存候か、気之病ニて果被申候、」(『福岡藩庄野家の由緒』)
ここにきて、「時枝平太夫鎮継」はキリシタンであったというルイス・フロイスの報告と整合性を見るのである。
平太夫の知行は三千石(「慶長分限帳」)だが、ここでは五千石と表示している。
さて、当時、長政は先述の通りキリシタンに理解を示していたが、家老級にキリシタンが居ることが許せなかったのか。
実は長政は父如水の葬儀をキリスト教式だけでなく、仏式の葬儀も挙げている。
「然し不思議な振舞いがあったというのは自らキリシタンの名乗りをあげて、その家来たちには改宗を勧めておきながら、同時に彼は仏僧を招いて父のために供養させたことであった。(中略) この確固たる信念の欠如が致命的な結果を生むことになった。彼はいつしかキリシタンに対して冷淡になり、同時に仏教徒を庇護するようになった。」(『キリシタン大名』ミカエル・シュタインシェン)
この仏式による葬儀は「マトス神父の回想録」によると「その後(教会での葬儀)、二十日ばかり後、筑前殿(長政)は父のために異教徒の方式の葬儀を行なった。とういうのは、彼が背教者であり、それを天下(幕府)に対して表したく、一方、彼はかほど主要なら国の領主であって、その葬儀を極めて盛大におこなわなければならなかったからである。」
稀代の英雄如水の葬儀にどれだけ弔問客が来るか、想像できるだろう。それはキリシタンだけでなく、多くは仏教徒である。長政は父の遺言に従い、先ずキリスト教式で葬儀を挙行したのである。「背教者」の顔を見せるのは、禁教令以降である。
さて、鎮継は棄教をしなかった理由により、黒崎城の井上周防守(道柏)に預けられ、鳴水村に蟄居したという。
しかし、この城代話は美談ではあるが、又兵衛出奔からの翌年、鎮継は静かに息を引き取った。失意の中「気之病」で亡くなったとあるが、棄教しなかった信念のある人物の姿ではない。
慶長十二年(一六〇七)三月に亡くなった妻を追いかけるように十月に鎮継は逝った。この年に流行した麻疹の罹患による死も疑う必要がある。(『日本疾病史』)
著者は鎮継は高齢と病を理由に黒崎の地に隠居したと考え、キリシタン故の蟄居は後年に書かれたものとし、禁教令以前の長政のキリシタンへの理解を信じたい。
鎮継の終の住処は先述の「殿屋敷」であり、蟄居とは考えにくい。
イエズス会の「一六〇六、一六〇七年日本の諸事」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)に鎮継と思われる人物の記述がある。
「(筑前国の)領主の代官のようなある古いキリシタンを主要な道具となされた。彼は、しばらくの間デウス(神)の諸事にはひどく冷淡であったが、天から病に襲われて、己についてよく認識し、大いに改心し、自分が世話しているそれらのすべての領民に対するキリストの説教者となることによって、過去の悪しき模範の償いをすることに決めた。」
かつて僧官家だった鎮継が、信仰から離れていたが、如水の死により敬虔なるキリシタンに立ち返ったとも思える。
病身になった鎮継は少ない余生を如水との回想記憶とともに静かに信仰の中に生きようとしたのではなかろうか。
二〇〇五年、北九州市芸術振興財団埋蔵文化財調査室により黒崎城跡(田町二丁目)にてメダイ一点が発見された。
「これは黒崎の地にキリスト教が浸透していたことを示す初の資料である。」(『黒崎城跡3』北九州市埋蔵文化財調査報告書第375集)
長さ2.80cm、最大幅2.16cmのメダイの片面にはイエス・キリストの半身像、もう片面には聖母マリアの半身像が鋳だされている。
鎮継は終焉の地に黒崎を自ら望んだのであろうか。郷里宇佐の土を二度と踏むことのなかった鎮継は妻とともに北九州市の地に静かに眠っている。
「時枝平太夫」の供養塔に手をあわせると寂寥たる思いが胸に溢れてきた。
(了)
参考資料
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「小山田文書」『大分縣史料』第一部(7)、宇佐八幡宮文書ニ諸家文書、大分県史料刊行会、大分県教育部研究所、一九五三年
「宮成文書」『宇佐神宮史』
「到津文書」『大分縣史料』第一部(24)、一九五三年
『大分県史料』33 第二部補遣五、大分県教委員会編、大分県中世文書研究会、一九八〇年
『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社、一九九六年
『戦国期の豊前国における宇佐郡衆在地領主について』
小野精一『大宇佐郡史論』宇佐郡史談会、一九三一年
『大分郷土史料集成戦記篇』垣本言雄校訂、大分県郷土史料刊行会、一九三六年
『宇佐神宮史史料篇十四』宇佐神宮庁、二〇〇二年
ルイス・フロイス『日本史』松田毅一、川崎桃太訳、中央公論社、一九八九年
ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史1』中央公論新社、二〇〇〇年
吉永正春『九州のキリシタン大名』海鳥社、二〇〇四年
上妻博之編著『肥後切支丹史』エルピス、一九八九年
長野悠『豊前長野氏史話』今井書店、二〇一〇年
貝原益軒『改訂黒田家譜』第一巻、文献出版、一九八三年
貝原益軒『筑前国続風土記』第三巻、一七〇九年
渡辺重春『豊前志』二豊文献刊行会、一九三一年
苅田町ホームページ
『萩藩閥閲録』第一巻、山口県文書館、一九六七年
小和田哲男『黒田如水』ミネルヴァ書房、二〇一二年
朴哲著、谷口智子訳『グレゴリオ・デ・セスペデス』春風社、二〇一三年
『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一期第四巻、松田毅一監訳、同朋舎、一九八八年
『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一期第五巻、松田毅一監訳、同朋舎、
一九八八年
『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第二期第一巻、松田毅一監訳、同朋舎、
一九九〇年
キリシタン文化研究会編『キリシタン研究』第二十四輯、吉川弘文館、一九八四年
『松井文庫所蔵古文書調査報告書三』
上妻博之著、花岡興輝校訂『肥後切支丹史』エルビス、一九八九年
レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』吉田小五郎訳、岩波文庫、一九三八年
『キリシタン研究』第二十四輯、キリシタン文化研究会、吉川弘文館、一九八四年
『福岡藩分限帳集成』海鳥社、一九九九年
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加藤一純『筑前国続風土記附録』文献出版、一九七七年
上野例蔵『八幡市舊蹟史』一九三六年
福田千鶴『後藤又兵衛』中央公論社、二〇一六年
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『RILAS 早稲田大学総合人文科学研究センター研究誌』
『戦国期の豊前国における宇佐郡衆在地領主について』
ミカエル・シュタイシェン『キリシタン大名』吉田小五郎訳、乾元社、一九五二年
フーベルト・チースリク『秋月のキリシタン』高祖敏明監修、教文館、2000年
福田千鶴『福岡藩士時枝氏の先祖墓参りー「遠賀紀行」を読む(1)―』九州産業大学国際文化学部紀要 第52号、二〇一二年
福田千鶴『福岡藩士時枝氏の先祖由緒地巡りー「遠賀紀行を読む」―』九州産業大学国際文化学部紀要 第54号、二〇一三年
福田千鶴『福岡藩士庄野家の由緒』九州産業大学国際文化学部紀要 第49号、二〇一一年
『郷土八幡』第4号、八幡郷土史界、二〇一四年
外園豊基『戦国期在地社会の研究』校倉書房、二〇〇三年
山根一史『戦国期の豊前国における宇佐郡衆在地領主について』
『キリシタン墓地調査報告書』熊本県天草市五和町御領所在の近世墓調査報告書、天草市観光文化部文化課、天草市立天草キリシタン館、二〇一九年
『鳴水・古屋敷遺跡』北九州市埋蔵文化財調査報告書第108集、財団法人北九州市教育文化事業団埋蔵文化財調査室、1991年
『黒崎城跡3』北九州市埋蔵文化財調査報告書第375集、財団法人北九州市芸術文化振興財団埋蔵物文化財調査室、2007年
竹中岩夫『黒崎の成り立ち』八幡郷土史会、2004年
『日本国語大辞典』小学館、2001年
富士川遊『日本疾病史』平凡社、1969年
宮崎克則・福岡アーカイブ研究会編『古地図の中の福岡・博多』海鳥社、2005年
『角川日本地名大辞典』角川書店、1988年
今回をもちまして小川研次氏論考「時枝平太夫」は完了いたしました。
次回からは同じく小川氏の「再考小倉藩葡萄酒」をご紹介します。
日帳(寛永七年十月)朔日~四日
|
| 朔日 奥村少兵衛
|
三斎ノ迎船 |一、鏡善右衛門、 三斎様御迎舟ニ被遣候処、今日罷戻申候事、
| (陣ヵ)
中国ヨリノ刀売リ |一、中国ゟ刀うりニ参候を、竹屋喜兵衛直段を相究、御かい被成候御横目に、かちノ御小性神野佐左
竹屋値極メ | 衛門遣候事、
| (ママ)
|一、佐分利兵太夫与三浦二郎右衛門
田川ヨリ松茸 |一、田川ゟ、松茸三百本参候事、
船頭鏡善右衛門 |一、鏡善右衛門ニ御米弐拾石被為拝領候事、
木下延俊へ松茸ヲ |一、木下右衛門様へ松茸壱籠幷御書箱、次飛脚ニ而被進之候事、
贈ル |
| (秀成)
生嶋秀成帰洛 |一、明日、生嶋玄番殿のせ上候御船頭ふ風斗五兵衛ニ、大坂へ之書状幷京へ遣候書状、共ニ七つ渡、
京大坂へ書状 | 遣申候、五兵衛京へ被遣ニ付、如此候也、
| (久盛)
|一、中川内膳殿ゟ御状参候、吉田縫殿御持上候事、
明寰帰任 |一、中津ゟ、明官罷帰候也、
|
| 二日 加来二郎兵衛
|
| (重義) 遠坂
竹中重義出府ニツ |一、竹中采女様、長崎ゟ御上被成ニ付而、御小早ニ而〇関内御使者ニ被進之候、御音信ニハ素麺弐
キ音信物 | 箱・粕漬鮑弐桶・栄螺百入弐籠被進之候事、
忠利鷹狩後米田是 |一、今朝は未明ゟ、御鷹野ニ被成 御座、昼ゟ、監物殿へ被為成候事、
季邸ニ臨ム |
|
| 三日 奥村少兵衛
|
| (小笠原長之)
鷹狩後小笠原長之 |一、今朝は未明ゟ、御鷹野ニ被成 御座、晩ハ備前殿へ被為成候事、
邸ニ臨ム |
竹中重義へ音信ノ |一、采女様へ被進之御音信之かも、取かへニ被遣候、御船頭ハ中靏弥吉也、
鴨 |
米搗車 |一、備前殿ゟ御帰ニ、古木こやへ被成御座、米つき車被成御覧候事、
鷹ノ寄 |一、唐ぼし嶺ノあたらニ、御鷹ノより御切せ被成御奉行ニ、井田小兵衛遣、
|
| 四日 加来二郎兵衛
|
|一、今朝、御鷹野ニ被成御座候事、
ビロードノ枕屏風 |一、ひらうとの御枕屏風五つノ奉行、久保田七右衛門と申仁也、但、歩之御小性衆也、
| (志水元五)
志水元五邸ニ臨ム |一、今晩、伯耆殿へ御申也、
十六、子孫
著者は一人の人物に注目する。寛保二年(一七四二)の黒崎代官「時枝次右衛門」である。 ちなみに同年、常春とされる「時枝長大夫」は粕屋郡代であった。(黒)
名からして、跡継ぎのいない平太夫鎮継没後、長政に四百石で召し出された弟次右衛門の系列とみる。(「元和分限帳」)
代官次右衛門は当然、黒崎にて平太夫夫妻の墓所のことを知り得たと思われる。
常春訪問の三十年以上前に次右衛門は先祖の墓について調べていたのではなかろうか。
常春の記録にも「近年古敷書付出、云伝へと云符合しければ、常春公今度庿参し給ひ、御塔所いさぎよく修補致し給へば、御霊益あらたならん、」(「遠賀紀行」)とあり、先祖について調べていた。
次右衛門は代官時代には墓所に行き、手入れをしていたが、任を解かれ黒崎から離れること三十年近くなった。そこで隠居後に再訪することにしたと推測すれば、常春は「時枝次右衛門」であったとも考えられる。
しかし、現在の供養塔は常春とは同族別系の時枝家による建碑とみられる。
時枝重記供養塔は重記(鎮継)を祖として八代目の清七鎮安による。正面の戒名「松嶽院殿御霊前」の裏面に「文化三年(一八〇六)寅十月九日依于 二百年回重記公八代之嫡孫時枝清七鎮安建之」とあり、清七鎮安が二百回忌の折に建碑したものである。この時に戒名を刻んだとみられる。この供養塔は灯篭型式である。平太夫の「宇佐宮弥勒寺」を意識したのだろうか。
また、左面に「安政三年辰十月九日依于弍百五十年回九代子孫時枝中鎮遠祭之」とあり、安政三年(一八五六)に九代目の中鎮遠が二五〇回忌を記念して彫ったものである。
傍に平太夫の妻の「寿春妙永信女」と彫られた墓碑があるが、命日の横に「安政三年辰三月廿日依于弍百五十回九代孫時枝中鎮遠修之」と刻まれている。
つまり、同じく九代目の中鎮遠が既存の墓碑を補修したということである。
鎮安と鎮遠は父子と考えられる。
八代目清七鎮安は「文化分限帳」(一八〇四〜一八)「百三拾石 中庄 時枝中」とみられ、「天保分限帳」(一八三〇~四四)に「百三拾石 時枝中武兵太」とあるが、鎮安と同一人物と思われる。
九代目鎮遠は「安政分限帳」(一八五四~六〇)「百三拾石 中庄 時枝中」とある。「中庄」は現在の今泉・薬院一〜二丁目辺りである。(『福岡藩分限帳集成』)
また、「明治初年分限帳」(一八六八〜七〇)に「百三拾石 時枝清七郎鎮撫」とあり祖父の「清七」を継いでいることから、十代目と目される。
慶應元年(一八六五)に起きた「乙丑の獄(いっちゅうのごく)」で、主犯格の筑前勤王党の加藤司書らが、処刑された事件であるが、この時、藩主長溥(ながひろ)から調査を命じられた目付の中に「時枝中」の名があり、九代目の鎮遠であると考えられる。(黒)
一方、弥勒寺寺務の時枝家は時枝重明(一八三七~一九一二)が継いだが、明治二年(一八六九)の神仏分離令により廃絶となった。同九年に宇佐神宮の権禰宜となり、十九年に退職、二十二年に初代宇佐町長を務めた。実兄は国学者の奥並継(一八二四~一八九四)である。(『大分県歴史人物事典』)
十七、キリシタン墓
墓碑の話に戻るが、上述の通り「時枝平太夫」の墓は存在しないのである。
実は著者はもう一つの疑問を持っている。それは、平太夫の妻の戒名である。
夫婦ともにキリシタンであった。幕府による禁教令は一六一二年と一六一四年である。敢えて仏式の戒名を入れる必要はないのである。洗礼名や姓名である。そしてクルス(十字架)である。
妻の墓碑も建て替えられた又は手を入れられた可能性はある。元はこのような加工された石材ではなく、平太夫と同じ「自然石」だった。先述の「遠賀紀行」にも「御塔銘わからざれば」とあり、妻の戒名も後年に刻まれたものである。
九代目鎮遠が「修之」時に現在の形にした可能性はある。
キリシタンとして逝った平太夫夫婦のキリシタン墓は間違いなく存在していたはずだ。当時のキリシタン葬は「伸展葬」で長墓であった。形状は伏碑である。(写真参照、大分県臼杵市のキリシタン墓)
しかし、禁教令以降は幕府は「座棺」で戒名のある立碑を義務付けた。(『キリシタン墓地調査報告書』)
やがて、禁教令により弾圧から保護するために、村人(キリシタン)たちが埋めた可能性がある。
そして無銘の自然石を建て、「村民様」と呼び、密かにキリシタン柱石の平太夫に祈りを捧げていたのではなかろうか。しかし現在、当時の自然石墓碑さえも見ることができない。
しかし、鎮継夫婦が眠る貴船神社の裏山「葉山」を望む供養塔は彼らを静かに見守っている。
大分県臼杵市掻懐(かきざき)のキリシタン墓
『伊達政宗 書状(極月の文)』 1幅 古筆 古文書 古書 消息 仙台藩 大名 武将 細川忠利の記述
紛うことなき政宗の花押「鶺鴒(せきれい)の眼」が座っている。
そして一行目に「細川内記」三行目に「内記」と見える。随分高額になりそうな品物である。
政宗の書状は3,500通あるといわれるが、相手によって花押を使い分けたという。
時には秀吉から書状を突き付けられ詰問されたが、「鶺鴒に眼がない、偽物だ」と言い切って秀吉を沈黙させたという逸話がある。この文書の花押にはちゃんと眼が入れられている。
さて、忠利が「内記」を名乗るのは「證人」として徳川家にあった時代で、関ヶ原戰の直前、慶長五年九月、父・忠興が内記に宛てた書状から確認されるのが最初だとされる。秀忠から一字を頂戴し「内記忠辰」と名乗ったことに喜んでいる。
忠利と名乗るのは慶長八年とされるから、「内記」と名乗ったのはわずか三年に満たないほどの間である。
そんな歴史を楽しみながら、読み下しにチャレンジしようと思っている。
宛名の人物が判明すると良いのだが・・そして3,500通外のものであれば新発見か・・・?
日帳(寛永七年九月)廿七日~卅日
|
| 廿七日 奥村少兵衛
|
忠利鷹野ノ帰途誅 |一、今朝ハ、御鷹野ニ被成御出、御帰之時、御誅伐三人被成御覧、直ニ佐藤将監殿へ被成御成候事、
伐ヲ見テ佐藤将監 |
邸ニ臨ム | (不破) 借やニ (成定)
|一、今日ノ三人ハ、御さうり取ノ猪介、ふわ角丞小者一人、当町ニ〇居候もの、坂崎道雲下女を盗、
| 〃〃
| 田川へ走候を追懸、女をとらへ、小倉へ被召帰候処ニ、彼男罷出、女をきり候所を聞付、とらへ、
| しばり申候候て、つれ来候を、申上候ヘハ、此ものと三人被成御成伐負候也、
| 〃〃 〃
|
| 廿八日 加来二郎兵衛
|
鷹狩 |一、今朝ハ、御鷹野ニ被成御出候事、
鰹到来 |一、木下右衛門様ゟかつほ、関宿道にて参候事、
|一、萩ノ保庵と申、町奉行所へ、沅西堂ゟ之状持せ遣使、今日罷帰候、保庵知行所へ被参ニ付、彼知
| 行へ追懸ケ参候ニ付、おそくかへり候由申候事、
| (細川孝之女、小笠原長之室) (小笠原長元) (細川孝之)
小万下着ス |一、小万様被成御乗下候御舟ニ、御加子拾人、備前殿ゟ御ふる廻候由、幷 休斎様ゟも被 召連寄、
| 御酒被下候由、白井兵介書付上候へ共、懸 御目候儀にてハ無之ニ付、日帳ニ付置候也、
三斎ヘノ使者帰ル |一、三斎様へ、御音信之御使者ニ被遣候かちノ御小性、本庄喜三郎罷帰候、 三斎様へ、廿四日ニ
| (下津井、備前児島郡)
| 下ついにて懸 御目、 御書・御音信物上申候由ニ而、 御返書取、戻申候事、今日は、定而
| (豊後国東郡)
| 竹田津可被成御着と、奉存候由、御船頭白石井又左衛門申候事、
| 〃
明日溜池ノ通行ヲ |一、山川惣右衛門与内田七左衛門、ためいけへ、花坊所へ、明朝人を通し申間敷とノ 御意之通申遣、
止メシム |
|
| 廿九日 奥村少兵衛
|
三斎今朝中津ニ帰 |一、国東ゟ、蒲田次左衛門申越候ハ、 三斎様昨日申ノ刻ニ、竹田津へ御着、今朝中津へ御着可被成
城 | 旨、注進申候を、則、申上候事、
| (安下庄、周防大島郡)
|一、池上加介を、 三斎様へ御音信ニ、御迎ニ御上せ被成候処、あけノしやうと申所ニ而、懸 御目
| 御目録
| 候而、御音信物〇ニ、 御自筆ノ御書付・御書判被遊、被進之を持参被申候事、
| 真下半右衛門
少峯中津へ参上 |一、明日、中津へ少峯参候ニ付、歩之御小性長や二郎介付遣候事、
| 〃〃〃〃〃
| (規矩郡)
忠利横川ニ鷹狩シ |一、明日、横川へ御鷹野ニ被成御座候、次而ニ、石を可被成御取旨、永良長兵衛を以、被 仰出候、
採石セム | 則、岩田喜右衛門・永松右兵衛ニ申付候也、
|
| 卅日 加来二郎兵衛
|
藍島ノ海士雁ヲ弓 |一、あいノ嶋海士鴈壱つ持参仕、申候ハ、嶋へ参候而、程近ク居申ニ付而、弓にて射申由申候而、持
ニテ獲ル | 参申候事、
大坂ニテ鮭ヲ買求 |一、大坂ゟ、鮭壱尺買下申候事、
ム |
| (有吉英貴) (鬚 籠)
忠利三斎帰国ヲ祝 |一、三斎様中津へ被成御下着ニ付、頼母佐殿御使ニ被遣、今晩被成御戻候、御所柿ノ入たるひけこ弐
ヒ使者ヲ遣ス | つ被進之、頼母殿、則、 御前へ被成御上候事、
十四、平太夫墓の謎
福岡県北九州市八幡西区東鳴水五丁目三番に鎮座する貴船神社に「時枝平太夫」とその妻の墓が伝わる。
「時枝重記(しげのり) 慶長十二年十月九日」とあり一六〇七年に没している。筑前国に入ってわずか七年である。また如水の死から三年後である。
「重記」とあるが、「鎮継」と同一人物であろうか。
まず、この墓については検証を要する。それは不可解な点があるからだ。
寛政十年(一七九五)頃に福岡藩士加藤一純、鷹取周成により編まれた『筑前国続風土記附録』の「鳴水村」の条に「村中貴船社の後林の中に古き墓あり。里民時枝重記か墓といふ。長政公に仕へし時枝平太夫なるへし。傍に其妻の墓もあり。」と記されていて、明らかに夫婦の墓碑二基存在していた。
「鳴水村」だが、一九九〇年、北九州市による「鳴水・古屋敷遺跡」の発掘調査が行われた。貴船神社に隣接する東鳴水四丁目一〜三番に位置し、河頭山(ごうとうやま、標高二一三m)の西側山裾部にあたる。長崎街道以前に「古道」という幹線路が通っていたという。(『黒崎の成り立ち』)
「堀立柱建物跡や井戸などの生活遺構とともに、輸入陶磁器、龍泉窯の青磁椀などが副葬された土壙墓など数基検出されており、(略) 中世においてこの台地一帯に多くの人々が生活を営んでいたものと思われる。」(『鳴水・古屋敷遺跡』)
この一帯に平太夫は住んでいたと考えられる。
安永四年(一七七五)四月四日、平太夫の子孫時枝常春が鳴水村の平太夫住居跡と墓所を訪ねていた。
「住居の所今もいちじるしく、村民は殿屋敷と云、山の北の方也、門有し所を木戸と云、内畠と成、二、三反程有」(「遠賀紀行」『福岡藩士時枝氏の先祖墓参り』福田千鶴)
「山の北」は河頭山の北側で「殿屋敷」はのちに「古屋敷」と呼ばれることになったと考えられるが、かなり大きな屋敷である。常春が見たのは屋敷跡の畠であった。また、平太夫の墓所の具体的な記録が残されている。
「御塔所は村(鳴水)より三町程行、小高き山に貴船の社有、其上平なる所に石垣築廻し自然石の塔有、村民殿の墓と云伝へ尊敬す、御塔の石垣の内より松一本生出、今は大木と成る。(中略) 北の方弍間程隔て塔有、是は御室の墓也」(同上)
昭和十一年(一九三六)に発行された上野例蔵著『八幡市舊蹟史』(きゅうせきし)に「時枝重記夫婦の墓 字葉山(貴船社の裏大
松の下)にあり」と記され、「石碑二個あり、一ニ時枝重記 慶長十二年十月九日 一ニ時枝重記室 慶長十二年三月二十日」
「其側に松嶽院殿御霊前とあり安政三年(一八五六)辰十月九日依て二百五十年回九代の孫時枝中鎮遠祭之と云ふ碑あり」とある。
これらの墓碑は貴船神社の裏手にある「葉山」の大きな松の木の下にあったという。この「葉山」は「山なみの中で、人里近い低山。端近い小山」の意である。『日本国語大辞典』)
『八幡市舊蹟史』の「石碑二個」は夫婦の名前が彫られた自然石とその傍の妻の「戒名」のある石碑とも考えられる。それは、「其側」にある碑と合わせると三基になり、かつては夫婦二基だったのが、現在の三基と一致するからだ。
この三基の石碑は現在の位置に移されたのは、ここ十数年間のことである。
つまり、私たちは原風景ではなく二次的な風景を見ているのである。
手前「説明文」から見る平太夫(右)と妻の供養塔(貴船神社)
十五、供養塔
三基の石碑を分析してみよう。
まず、自然石に彫られた文は二基の古墓を説明している。
「古墳二 南 時枝重記 慶長十二年十月九日卒 北 同室 同年三月二〇日 安永末初夏日彫之」
安永末とは(一七八一年)である。重記夫婦が没してから一七〇年以上経っているが、この碑文により「平太夫」が「重記」と知ることができる。
二基の古墓は南側に重記と北側に妻の墓を指している。墓が西向きだったと考えられる。妻の命日は奇しくも如水と同じ三月二〇日である。
この石碑は時枝重記子孫時枝常春が祖先の地を訪ねた折、鳴水に在る重記等を祭る墓所を参拝し建碑したものである。
「石屋吉郎兵衛召連、鳴水村へ行、御塔銘わからざればいかがせんと評議す。幸に御塔脇に縦横三尺斗の石有、此石に彫付べしとて決断し給ひ、黒崎旅宿へ帰り、石に彫付文字常春公書給ふ、」(「遠賀紀行」)
これが現在に伝わる「説明文」の石碑である。安永四年(一七七五)四月八日、石屋弟子宇兵衛の手によるが、(同上) 「安永末」と刻んだ。
この段階で既に「銘」が不明なのである。つまり、無銘の自然石が二基建っていたことになる。常春は戒名ではなく、俗名「重記」を記したのである。
この根拠は不明だが、『黒田三藩分限帳』に「重起」とあるが、誤字なのか。
また、奇妙なことに「武蔵守の時、秀吉公九州下向の節、速に従ひければ、黒田孝高公の与力にせらる、武蔵守は翌年致仕し給ひ、平大夫重記、孝高公・長政公に従ひ、日本・朝鮮にて武名を顕わし、高禄を得て福岡に来り仕へり、誠に当家中興なり」(「遠賀紀行」)とあり、天正十六年(一五八八)に武蔵守鎮継は隠居し、「重記」が文禄の役に参戦したとある。つまり鎮継と重記は別人としているのである。常春の系図に「重記」があったのだろうか。
しかし、先出の「時枝平大夫鎮継と申時枝城之城主」とする「庄野先祖之覚 貞享元年記」(一六八四年)は「遠賀紀行」(一七七五年)に百年近く先行し、また「黒田家譜」や「宇佐神宮史」により、鎮継は「重記」と同一人物と見るべきであろう。
「遠賀紀行」を収集した元福岡藩士の長野誠(一八〇七~一八九一)によると常春は時枝長大夫重政の老号とし、その養子を「平大夫重直」と考察している。
この一族は「長」の通名が特徴であるが、「明治初年分限帳」(一八六八〜七〇)の「二百十石 時枝長十郎 荒戸三番丁」とあり、後述する「時枝家」とは同族別系であると考えられる。
日帳(寛永七年九月)廿五日~廿六日
| (ママ)
| 廿五日
|
京大坂へ音信覚 |一、小野九右衛門・佐藤少右衛門へ、御書箱壱つ、
|一、右両人ニ、続権右衛門ゟ銀子有之状壱つ、
|一、佐藤少右衛門へ、松井宇右衛門ゟ銀子有之状壱つ、
| (秀成)
|一、生嶋玄蕃ゟ、京都へ之状数多有之を、一つニ包、京衆へ当、我等共ゟ遣、
|一、京都衆へ、我等共より御用之儀申遣状三つ、
|一、同所へ、加々山主馬ゟノ御用ノ状壱つ、
|一、坂崎清左衛門所へ、方々ゟノ状、其外京衆へ之状とも六つ遣候事、
| 右之分、西沢文右衛門与樋田少兵衛ニ渡、京差上せ申候事、
| (宕)
愛宕福寿院祈祷札 |一、愛岩福寿院之ゟ、九日御祈祷之御札参、御返事幷使僧兼任ゟ扇子進上之礼状、主馬方ゟ遣、但、
ヲ上グ | 使僧ハ御国ヘハ不参候、大坂まて被参候也、
| 右ノ御飛脚ニ遣、
松茸 |一、岩石ゟ松茸壱籠百廿七本、次飛脚にて参候事、
| (山本)松井家家司
下関ノ能太夫作左 |一、下関ゟ、太夫ノ作左衛門尉参申候、式ア殿ゟ、源太夫を以、被仰聞候ハ、先度参上仕、御能被
衛門来ル | 仰付候時、めをまハし、不調法之仕合ニ御座候、其後終ニ不致参上候間、万事為御礼、参上仕由
| 申候間、 御目見え仕せ候へと、被仰聞候、得其意申由、御返事申候事、
三斎へ松茸進上 |一、三斎様へ、松茸被進之御小早之御船頭桑田左兵衛也、御使者ニハ、かちノ御小性原田理右衛門、
三淵重政京都へ使 |一、長岡右馬助殿、京都へ御使ニ被成御上せ候ニ付而、上方にて賄銀子相渡候由ニ而、米田左兵衛・
者ニツキ上方賄銀 | 仁保太兵衛方加印之切手、豊岡甚丞方へ相渡候也、
切手 | (螺)
小螺三升ノ用 |一、小にし三升御用候間、可取上旨、主馬奉にて被申渡ニ付、御裏奉行ニ申付候ヘハ、門司ゟ五合ほ
| (塩 中 満)
| と持来候、休心を以、主馬方へ渡ス、京ハ塩中ミちニてニ被仰付候付而、三升取出不申候、明
| 日残分取上可申由、門司ゟノ使申候也、 〃〃
屋敷改御印帳ヲ明 |一、やしき御改ノ御印在之帳一冊、森六左衛門尉・波多理右衛門かし申候也、
家奉行へ貸ス |
屋敷絵図 |一、同ゑづ弐つ、溝口理兵衛に渡候、右ノ家奉行衆両人ニ、よくおしへ候へと、申渡候也、
平井某遺物三原ノ |一、平井五郎兵衛遺物として、三原之刀一腰被上候、寺川兵右衛門被持上候也、
刀ヲ上グ |
|
| 廿六日 加来二郎兵衛
|
| (扇脱)
竹西堂船頭へ賞与 |一、帷子壱つ・団一本、竹西堂ゟ南喜右衛門ニ被下、
洪長老ヨリノ賞与 |一、帯一筋・扇子三本・たひ一足、洪長老ゟ川村弥右衛門ニ被下、
卜西堂 |一、扇子弐本、卜西堂ゟ同人ニ被下、
|一、たひ一足・扇五本、洪長老ゟ同人舟ノ梶取ニ被下、
水主ヘノ賞与 |一、扇子五本、同人ゟ同人舟ノとも・おもてノ御加子ニ被遣候、
芳長老ヨリノ賞与 |一、樽壱つ、芳長老ゟ上田惣吉舟ノ御加子ニ渡遣、
| (ママ)
卜西堂ヨリノ賞与 |一、同壱つ、朴西堂ゟ同人舟ノ御加子ニ被遣候、
| (松井興長)
| 右之書付、懸 御目候処ニ、式ア少所ゟ心得可申遣旨、被 仰付候ニ付、式ア殿へ相渡候也、
|一、木下右衛門尉様へ、一昨晩戌ノ刻ニ、次飛脚にて 御書被進之、今日辰之下刻ニ、御返書時飛脚
| にて参候事、
|一、三斎様へ、今日松茸被進之御使者、かちノ御小性池上加介也、
道服用ノ唐物ヲ高 |一、京都ヘ之便宜ニ、御道服ニ成申ばと申から物、何ほと高直候共、弐端成共、三端成共、かい調可
価ナリトモ購ハシ | 被申候、地白ク候ハヽ、くろちやニそめさせ可被申旨、加々山主馬を以、被仰出候事、則、主馬
メム | ゟ京都へ被申上せ筈也、 〃
| (津川辰珍) (湘雲守沅)
|一、内裏へ、四郎右衛門殿・沅西堂なと御座候ニ、銀子持せ遣候、かちノ御小性ハ三木少介也、
三斎大坂ヲ出船ス |一、大坂ゟ御小早、今晩戌ノ刻ニ下着申候、 三斎様去廿二日ノ申ノ刻ニ、大坂へ御着被成、すくニ
海舟 | 海御舟ニ召被成、御出船候、今晩は、定而上ノ関へ可被成御着と奉存候由、小早ノ御船頭河村喜
| (正次) (周防熊毛郡)
| 左衛門申候由、嶋又左衛門ニ野嶋にて相申候由申候、
十三、如水追悼記念聖堂
「(如水の遺体は)博多の町の郊外にあったキリシタンの墓地に隣接している松林のやや高い所に埋葬した」(前出「マトス神父の回想録」)
さて、如水の遺体はどこに埋葬されたのであろうか。それは長政が遺言通りに追悼記念聖堂を建立した場所である。
一六〇五年には博多に新しく教会(如水追悼記念聖堂)が建てられた。
「彼(長政)の父が自分の埋葬場所として彼に委ねていたので、殿の許可を得て美しい教会が建てられ、博多にある最も見事な寺院となった。」(『1605年日本の諸事』『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)
既に五千人のキリシタンがいたが、この年に新たに六百人が受洗した。翌年の一六〇六年には、如水の三回忌にあたる記念追悼ミサが挙行された。
「長崎から準管区長フランシスコ・パシオ神父が多数の神父と修道士を連れて、我らの教会堂において如水の葬祭を行うために来た。これに筑前国殿(長政)およびその国の大身はみな参列した。(中略) 殿は我らの家で食事をし、また城内での食事に我ら一同を招待した。」(「マトス神父の回想録」)
さらに、準管区長一行は小倉に向かう。
「博多から準管区長神父は越中殿(細川忠興)の妻であった夫人の追悼式のため、小倉へ行った。その時、筑前殿は自分の厩舎から同宿やイルマンたちのため馬と乗物を芦屋まで提供し、そこからみんな船で小倉へ行った。」(同上)
ガラシャの七回忌に当たる。長政のキリシタンへの寛容なる姿勢が伝わる。
平太夫鎮継は「重だった家臣」「大身」として葬儀や記念祭追悼ミサに参列したのは容易に想像できる。また如水との絆が深かった鎮継の悲しみも察することができる。
貝原益軒『筑前国続風土記』(一七〇九年)に勝立寺に関する記述がある。
「慶長八年(一六〇三)四月二十五日、博多妙典寺において、日忠と耶蘇の僧いるまん(修道士)と、宗旨の優劣を論じ、問答に及び、日忠あらそい勝ける故、長政公感じたまい、耶蘇が居たりし寺地を給わり、此所に梵刹を建させ、宗論勝て立たる寺なればとて、勝立寺と號を給りける。」
日蓮宗妙典寺(博多区中呉服町9-1)にて、日蓮宗の僧とキリスト教の修道士が論争した「石城問答」(せきじょうもんどう)である。「石城」は博多のことで、生の松原の元寇防塁にちなむ。
日忠は勝利し、キリシタン寺の土地を譲渡されたとあるが、一六〇三年は如水も生存しており、また長政も家康に気を遣いながらもキリスト教に協力的であったので矛盾している。
日蓮宗勝立寺(中央区天神四丁目1-5)は、須崎に近く、那珂川河口の左岸に位置する。かつて博多から中島橋を渡った所の橋口町である。この付近は、延宝二年(一六七四)には藩の獄屋ができ、牢屋町と称された。また、後の宗門改の寺となる。(『角川日本地名大辞典』)
さて、「マトス神父の回想録」によると「博多の町郊外」とは、那珂川左岸の福岡側を指している。(当時は右岸側は博多町、左岸の城下町は福岡)(『古地図の中の福岡・博多』) つまり、居住している博多側から見ているのである。
一六〇四年頃は、須崎浜の「松林」もあったと推測できる。
このことから、如水追悼記念聖堂である教会は勝立寺の地にあったと考えられる。
一六一二年の禁教令に対し、長政は「天下の主(将軍)に自らの正当性を主張できることを望んでいたので、彼の最も親しい家来たちに信仰を棄てるように命じた。しかし、これが彼の意図でないことを示すために、信仰に特に熱心な数名の者だけに命令し、他の者には苦難を与えず、比較的身分の低い者や農民たちにはいっそう苦しめはしなかった。」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)と上級家臣だけに棄教を命じている。
また、長政は司祭にキリシタン家臣の名簿を作成するように依頼したが、拒否されている。「殿は名簿に記されている数人を困らせるつもりはなく、数人を隠しておくよりは、(名簿を作って)何千人ものキリシタンを救うほうがよいではないか」と言われたが、再度拒否された。(同)
長政はキリシタン保護の姿勢を崩さなかったが、ついに幕府に知れることになる。
「今年、彼が国王の政庁へ参勤した際に、国の支配者たちは、教会を破壊して神父たちを領内から追放しなければ罰すると彼を威嚇した。そこで、彼は国へ帰ってくると、たいそう丁重に神父にこのことを知らせ、神父が修道士たちや説教者たちとともに長崎へ行くように指示した。管区長神父には、自分としては他に方法がなかったことでもあるので、今回の措置をゆるしてもらいたい、また、神父たちにはキリシタンを世話するために、都合のよい時には、いつでも自由に来て差し支えないと述べた。」(「一六一三年度の日本諸事」同)
長政がやむなく教会の破却を命じた。先述の勝立寺の寺地は教会破却後の一六一三年以降に譲渡されたと見る。
その時、如水の遺体はどうしたのだろう。
一六〇六年、長政は父の菩提寺として京都大徳寺塔頭として龍光院を建立し、如水の墓碑を建てた。そして教会破却後に遺体(遺骨)を移したのであろうか。分骨も考えられるが。
また、崇福寺(博多区千代)にも墓所を設けたが、一九五〇年の発掘調査により「空っぽ」と判明した。(四月十八日付朝日新聞夕刊)
キリシタンとして逝った父の御霊救済にはキリスト教式でなければならないことは、かつて洗礼を受けた長政は理解していたに違いない。
しかし、敬虔なキリシタンは信仰の灯火を消さなかった。 元和三年(一六一七)八月二十六日の「イエズス会士コーロス徴収文書」に署名したキリシタンは筑前国のコンフラリア(信徒組織)の組頭として三十九名もいた。(『近世初期日本関係南蛮史料の研究』)
中には、末次家の「末次惣右衛門トメイ」、末次興善(コスメ)の養子とされる「末次善入ドミンゴ」や神屋宗湛の身内と思われる「神屋肥後右衛門バルタサル」の名もある。
崇福寺の黒田如水の墓
出版社(吉川弘文館)内容情報
戦国の荒波を乗り越え、肥後熊本藩主となった細川家。主君への忠義が絶対ではなかった時代、筆頭家老松井康之と息子興長の価値観は細川家の存続にいかなる影響を与えたのか。天下人とのつながり、主君の守り立て、島原・天草一揆における九州諸藩との連携などから、主家の存続を第一義とし、藩政の維持・発展のため力を尽くした家老の生き様を描く。
内容説明
戦国の荒波を乗り越え、肥後熊本藩主となった細川家。主君への忠義が絶対ではなかった時代、筆頭家老松井康之と息子興長は細川家存続にいかなる影響を与えたのか。主家と藩政の維持・発展に尽くした家老の姿を描く。
目次
細川家を支えた家老の忠義―プロローグ
家老への道のり
政権移行期の松井康之
御家第一主義の継承
八代城主としての松井興長
家老による藩主守り立て
細川家を永続ならしめた康之と興長の生き方―エピローグ
著者等紹介
林千寿[ハヤシチズ]
1968年、熊本県に生まれる。2009年、熊本大学大学院社会文化科学研究科文化学専攻博士課程修了、博士(文学)。現在、八千代市立博物館未来の森ミュージアム学芸員
日帳(寛永七年九月)十九日~廿四日
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| 十九日 奥村少兵衛
|
| (細川立孝) (田川郡) (長氏)
立允書状ヲ岩石へ |一、立允様ゟ御飛脚、御文箱持参申候、岩石へ持参可仕通申候間、平野九郎右衛門所へ、状をそへ遣
届ク | 申候、御鷹之儀にて御座候と相聞え申候間、此方ゟ之御飛脚相添不申候、
| (皆川)(林隠岐)
宇佐ノ占地茸 |一、宇佐郡ゟ、しめち少参候を、御奥かたへ払被申候へと、治ア・おきへ申渡事、
|
| 廿日 加来二郎兵衛
|
|一、夏間少三郎病死仕由、金山ゟ申来候事、
| (ママ)
|一、木原猪右衛門尉、湯治ゟ去十罷戻、去十七日ニ、爰元へ御礼ニ罷出候へ共、十八日ニ 殿様田川
| 〃
| へ被成御座ニ付、御礼不罷成、于今逗留仕居申候、逗留仕候而も相替儀も無御座候間、知行所へ
| 返し可申由、山田加左衛門方ゟ、山田忠三郎を以、被申聞候事、
宇佐郡御借米奉行 |一、八木田丹右衛門尉、湯治ゟ罷帰、うさ御借米奉行ニて候間、すくニうさへ参候由、不破平太夫を
| 以、被申聞候事、
|
| 廿一日 奥村少兵衛
|
| (叟)
祇園社神事能ノ三 |一、祇園御能之時、三番さの面、祇園ノ面箱二入て御座候由にて、神主持参仕候、吉山熊介ニ渡候也
番叟ノ面ヲ納戸奉 |
行へ渡ス |
|
| 廿二日 加来二郎兵衛
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中将ノ面ヲ木下延 |一、木下右衛門尉殿ゟ、中将之面かりニ被遣候、奥納戸衆へ申、認させ、遣候也、
俊へ貸ス
|一、中将之面壱つ、右衛門様之御使菅勘四郎ニ渡ス
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| 廿三日 奥村少兵衛
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忠利帰城ノ報 |一、曽根ゟ、平野九郎右衛門尉被申越候ハ、 殿様今日可被成御帰城旨ニ御座候間、得其意、御風呂
| なと可申付通、被申越候事、
| (松井康之室)
松井興長江戸大廻 |一、式ア殿ゟ被仰聞候ハ、江戸へ大廻ノ御舟参候由、承及申候、左候ハヽ、自徳院殿へ、樽三・さか
ノ船ニ自徳院ヘノ | 願申候、
進物積載ヲ願ウ | な弐包・麦五斗・大唐五斗、右野分遣度候間、下ニ而御つませ候事成申候ヘハ、申事無御座候、
| 左も無之候ハヽ、得 御諚候而給候へと、被仰聞候事、 〃
大里ノ市ニテ駄馬 |一、内裏ノ市にて、浅野七左衛門・柳瀬茂左衛門ニ、駄馬被成御買せ候、代銀三百め、歩之御小性窪
ヲ買ハシム | 田七右衛門ニ持せ遣、渡候へと、申渡候事、
|一、北崎弥三右衛門、京ゟ被罷下候事
|
| 廿四日 加来二郎兵衛
|
江戸ヨリ飛脚 |一、江戸ゟ御飛脚、御鉄炮衆谷忠兵衛与大塚権左衛門・井関久馬与塩田所左衛門罷下候、江戸を今
ソノ行程 | 月十四日ニ立、同十九日ニ大坂ニ着仕候、大坂を其間まゝ出船仕、京下着申候事、
| (慰英) (是次) (蜂須賀忠英)
忠利書状 |一、寺嶋主水・仁保太兵衛・米田左兵衛へ、 御書ニ、あわのかミ殿への御文箱添、
大坂奉行へ |
| (坂崎)
京都買物奉行へ |一、佐藤少左衛門・小野九右衛門・志水安右衛門へ、 御書箱ニ、坂崎清左衛門へ一角ゟノ状壱つ添、
| 右之分、明日之御舟ニ差上可申旨也、
|
|一、松井宇右衛門ゟ佐藤少左衛門所へ、銀子包こめ候状壱通、寺嶋主水所へ之状壱通、続仁右衛門ニ
| 渡シ、上せ候事、
熊本地震からそろそろ5年、大被害を被った熊本城の大天守や小天守は4月26日、内部の一般公開が始まる。
これを前にして熊本城調査研究センターから嬉しい御知らせをいただいた。
以前私がヤフオクで手に入れた「米田屋敷平面図」を何かのお役に立てばとお貸ししていた。
今般の一般公開を前にして、展示予定の「熊本城城郭模型」を一部作り直されたらしいが、その主たるところが「米田屋敷」である。
城郭については粗方資料がありこれに基づいて作られているが、二の丸広場にある重臣たちの居宅については古写真等を精査されての事ではあったろうが、ほぼ想像上の代物であったと思われる。
幸い「米田屋敷」の平面図が存在したことで、この平面図に基づき模型が作り直されたとの事である。
展示にあたっての許諾の要請であったが、一も二もなく了解のご返事を申し上げた。
私は以前■「二ノ丸・米田御屋敷絵図について」なる小文をこのブログに書き、同時に配置図に建物の位置を落としたものも表示したところである。
私はどうやら大きな間違いを犯し、スケールを間違ったらしい。今般送られてきた模型の写真を見ると、まったくスケールが違っている。
この米田邸については、明治期の作ではあるが、絵師・赤星閑意の「熊本城西北面図」の中に書き込まれており、当時の状況を知ることができる。
これは建築に携わってきた私としてはミステイクな話なのだが、今一度精査の必要がある。
早い段階で展観したいと思っている。