原著は2015年に出版された洋泉社版(歴史新書y)であるが、本書はそれを底本とし補論を加えた増補版となっているのでお得だ。
2015-6年だったとおもうが、京都に家族連れで数泊したオーストラリアの友人、彼らは市内のAirbnbの宿を使ったらしいのだが、最寄り駅(京阪七条駅)への途中に「耳塚」というのがあるんだけれど、知ってる?という(調べてみると国立京都博物館の西北、豊國神社近くにある)。あいにくそのあたりには立ち回ったことがなく、知らなかったので、それ以上突っ込んだ話はできなかった。
奇しくも底本が出版されたのは同じ頃だったので、アンテナに引っかかっていたのだが、購入はしてはいなかった。
耳と鼻を削ぐというのは刑罰としてもはなはだ野蛮な意味を持つが、著者の立論は、中世の刑罰は、女性と僧侶は殺さず、耳鼻を削ぐに留めるといういわば寛容な刑罰であったものが、次第に意味内容が変容を遂げていく。この文の冒頭の耳塚は近世の豊臣の時代に朝鮮に送られた将兵の報奨の証拠としての耳鼻へと変貌を遂げ、その後、更にジダが下るにつれて、耳鼻を削ぐことについて否定的な時代に移り変わっていくというのだが。しかし、同時に、中国朝鮮の儒教体制では否定されているにも関わらず、周辺国では耳鼻削ぎの刑は相変わらずのこり、文明では否定、周縁では肯定という流れになるという。同時に、全国に散在する耳塚鼻塚のおおくは、必ずしも耳や鼻を葬ったものではなく、様々な習俗が関わっていることを著者は明らかにする。
私にとっては、補論が興味深い。身体毀損の文化史的意味付けである。人類学のフィールドからの報告では、たとえば、ニューギニアでは死者を葬るために指を切断するという事例が報告されている。つまりは、身体の部位を毀損することが当該社会にどのように認識されているかということが問題であり、それが、近代・現代に向けて、否定されるという流れである。命や魂に変わるものとして、あるいは、命や魂に関わるものとして、身体のどれがふさわしいのか、といった問題とも関わってくる。たとえば、心という表現で胸を叩くのはどういうことだろうか。感情をつかさどるのは現代自然科学では脳であるはずで、胸を叩くのはいかがなものであろうか。頭は叩かないのだろうか。
何を命の代替物とするのか、これは、大きな問題である。本書の問題提起は、おそらくは、臓器移植の問題についても派生するはずではないだろうか。
わたしが関わるオーストラリアアボリジニ社会では、葬送儀礼において悲しみの表現として自傷行為に走ることが報告されている。血が流されることによって、その儀礼は完結されるのである。こうした現象も含めて理解する必要があるということなのだろうと思う。