茶臼山古墳で昼食休憩を済ませると、大屋団地に行きました。10年以上前でしょうか、この団地では子供の声が聞こえたり、ベランダで洗濯物を干す姿が見えました。しかし、今回団地周辺を歩いて子供の声はしないし、どの団地も空き家ではないかと思うほど静かでした。
続いて、荒神山に行きました。大屋団地から直接荒神山に行けたのですが道がふさがっていました。今は古い住宅を経由して行くしかありません。その住宅は長屋で町営か県営ではないかと思います。まだ数家族が住んでいるようです。その住宅のすぐ上に荒神山があります。その荒神山入口には鳥居があるため、かつては神社があったのにちがいありません。今は小さな祠だけがあります。
荒神山の奥に鎮座する小さな祠
荒神山入口の石階段を登り鳥居をくぐると草地が広がっていました。平らで結構な広さです。かつては荒神様のお社がありその参道だったのではないでしょうか。その参道には草木が生えていて何年も手入れされていないようです。住宅に住む人が少なくなり管理できなくなったのではないでしょうか。鳥居には明治三十年代の年号が彫られていました。明治から大正にかけてとても賑やかだった神社のようです。手水石が残るなど当時の面影を残しています。
静かな大屋団地 県営か市営の長屋 草木が生える参道
荒神山から柳井市街を見下ろすことができます。明治時代には市街から離れた場所にあった住宅だと思われます。長屋住宅が手狭になり昭和の時代に大屋団地が作られたのではないでしょうか。ところで、大屋団地は茶臼山古墳に行く時にしか通りません。平生町で大屋団地終点のバスをたまに見かけることがあります。そのバスを見るたびに大屋団地や茶臼山古墳を思い出します。
石段を登り荒神山入口の鳥居をくぐる 荒神山から見下ろした柳井市街
ところで、県営か市営の長屋を見るととても懐かしくなりました。私が結婚した最初の住居が長屋だったからです。青梅市営の二階長屋でした。近くに地方裁判所があり、その裁判所の脇を通りながら出勤したものです。
当時は青梅駅始発の電車に乗って一時間半位かけて東京田町にある第五世代コンピュータ開発機構ICOTに勤務していました。今で言うAIの仕事をしていました。40年前にすでに日本はAIの研究に着手していたのです。まだマウスもなく、Windowもなく、パソコンも無い時代でした。しかし研究着手が早すぎました。ハードウェアが追いつかなかったのです。
そのICOTのWGメンバーの一人に国産OSのTRONを開発した坂村氏がいました。今TRONは産業OSの標準規格になっているそうですが、当時米国の圧力により流布が頓挫してしまいました。その結果Windowsが世界に普及してしまいました。TRONがオープンソースだったことが圧力原因だったのかもしれません。アメリカ企業であるMicrosoftのWindowsを伸ばすためアメリカは圧力をかけたのでしょう。今もそうですが、日本は米国の圧力に本当に弱いです。アメリカの属国と言われるゆえんですね。
柳井東方面の史跡巡りをしたウォーキングルート
暗い茶臼山トンネルを出ると、50m位歩いた後にT字路を渡りました。そして、恵愛会運動公園に沿う道を下りました。暑いためか恵愛会運動公園には誰もいませんでした。200m位道を下ると、今度は十字路を左側に曲がりました。その道の終点はは茶臼山古墳です。
この古墳は前方後円墳です。その前方部に回ってその角から古墳に登りました。簡易な石階段を登りました。ところで、古代において前方部で儀式をしていたそうです。皆が並べるように前方部は平になっています。古代、どんな装束をして儀式をしていたのでしようか。埴輪を見ると今とは全く違う装束や髪型だったようです。
冷房の効いた茶臼山古墳資料館内で昼食休憩をとる
飛鳥時代に防府が周防国の国衙に指定されました。つまり、それ以前の周防国の中心は防府ではなかったことになります。私見ですが、防府以前の周防国の中心は田布施の城南付近ではなかったかと思います。その証拠の一つとして、山口県内で古墳の数が一二位を争うほど多い事です。二つ目の証拠として、石城山神籠石(朝鮮式山城)の存在があります。古代において周防国の中心であった場所を守るため又は逃げ込む城が石城山ではなかったかと思うのです。
恵愛会運動公園 茶臼山古墳前方部 茶臼山古墳後円部
古代において柳井,田布施,平生は海でつながっていました。つまり海峡でした。その証拠が遺跡などから分かっています。古代地中海などではこのような地形にポリスが築かれました。当時の物流は陸路よりも海路が主でしたので。主に海伝いに人々が行き来していました。平安時代、清少納言は海伝いに父親の任地である防府に赴きました。柳井,田布施,平生を通って船で赴いたに違いありません。
後円部に置かれた数々の埴輪 後円部から見下ろした前方部
茶臼山古墳に登って埴輪を見たり周りを遠望してから資料館に行きました。下見時は休館でしたが今回は開館していました。涼しい館内で銅鏡などの遺物を見学しました。そして、涼しい館内でお昼休憩をとりました。休憩しながら、古代はどんなだったのかタイムマシンがあれば千年の時を越えて訪れてみたいと思いました。願わくばこの時代に生まれ変わってみたいものです。
柳井東方面の史跡巡りをしたウォーキングルート
先日、柳井東方面の史跡巡りウォーキングに行ってきました。まだまだ暑かったのですが、のんびり楽しく歩くことができました。集合はスーパートライアルです。出発時間になると旧国道188号線を跨いで最初のお地蔵様に行きました。線路端に建っているため昔何かの事故があったのでしょうか。立派な立像のお地蔵さまでした。ただ、砂岩かコンクリート製のためか背中にかけてひび割れていました。花崗岩のような硬い石を使うと良かったのですが。立派な顔立ちのお地蔵様だけに残念です。
茶臼山古墳に行く直前、茶臼山トンネル内を歩く
線路を跨いで次に中国電力の社宅前に出ました。そして、社宅所有の思われる小さな公園に行きました。手入れがあまりされておらず除草剤がまかれているようでした。寂しげなシーソーと祠が印象的でした。次にその公園傍を流れる川を上流に向かって歩きました。
スーパートライアル 線路端のお地蔵様 小さな公園内の祠
幅10m位の小さな川でしたが、意外に水は綺麗で小さな魚がたくさん泳いでいました。私が子供の頃の昭和30年代であれば、このような川は子供達の遊び場だったはずです。しかし、今は川から子供達の姿が消えてしまいました。川での遊びは楽しかったものでした。泳いだり、堰き止めたり、貝や魚を取ったり、石を投げたりなど、いろんな遊びを川でしたものでした。
草が生い茂る小さな川 棚田が広がる琴石山の麓
しばらく歩いて川から外れ琴石山の麓をめざして歩きました。古い団地を過ぎると棚田が見えてきました。もう少しすれば稲刈りできそうなほど穂が垂れていました。棚田の間をのんびり歩いた後、日陰で給水休憩をとりました。その後、柳井~大畠の山側ルートの舗装道路に出ました。時々車がすれ違
っては走り去りました。その後、暗い茶臼山トンネル内を通り茶臼山古墳に向かいました。
柳井東方面の史跡巡りをしたウォーキングルート
二泊した城崎温泉から我家に帰る日がやってきました。予定では新神戸から新幹線に乗って帰る予定でしたが、息子の予定変更により私は大阪空港から帰ることになりました。初めての大阪空港にモノレール,千里,そして50年ぶりの新大阪でした。そのことで、とんでもないドタバタ劇となりました。
さて、城崎温泉を出ると大阪空港に行く前に出石に寄りました。出石では桂小五郎が潜んでいた家を訪れた後に皿ソバと呼ばれるソバを食べました。初めてのソバでした。椀子ソバのようなたくさんの小さなお皿にそばが盛ってありました。次々に食べて、もう一人前追加注文しました。まだまだ食べられそうでしたが、時間がないため30分位した後に席をたちました。
椀子ソバのような出石の皿ソバを美味しく食べる
出石は京都から城崎温泉に向かう街道の途中にある街です。江戸時代5万石の領地で街から見上げるような山上に城がありました。ちなみに出石名物の皿ソバは、信州から領地替えでやってきた殿さまがソバを持ち込んだことが由来とのことです。信州ソバを出石向きにしたのが皿ソバなんですね。
城崎温泉の朝食 二泊した旅館 夜に入った温泉
出石を出て2時間後頃に大阪空港に到着しました。息子達は飛行機で東京に戻りましたが、私は一人で田布施の我家に戻ることにしました。ところが、初めての大阪空港モノレールで慌てました。モノレール大阪空港駅は終点兼始発であることを知らずに数台モノレールを見逃してしました。また、モノレールに乗ったものの降りた千里中央駅から北大阪急行の駅への移動が分からず時間を潰しました。さらに、知らない駅名ばかりで上り下りのどちらに乗れば良いのかすぐに分かりませんでした。
出石で皿ソバを食べたお店 大阪空港までの途中に寄った出石街
やっとのことで新大阪駅に着いたのですが、約50年ぶりの新大阪駅の変わりように驚きました。10分後に出る新幹線の指定席券を購入したのですが、構内のあまりの広さに新幹線改札口が分からず走り回りました。おまけに新神戸までの乗車券が無いため改札で止められました。やっと改札に入ると今度はホームの番号が分からず困りました。切符にそれが書いてあるのでしょうが、あいにくメガネが無くて読めません。発車時間のその時、ドアが閉まりかけた新幹線に慌てて飛び乗りました。ところが、その新幹線はなんと上りでした。
がっくりして、しばらくうなだれてしまいました。でもなんとか気を取り直して京都から折り返して帰りました。プレゼントされた敬老旅行でしたが、最後はとんでもないドタバタ劇で終わりました。ですが、今思い出すと楽しい敬老旅行でした。
城崎温泉から大阪空港までのルート 大阪空港でモノレールに乗り換え
城崎温泉街を離れて10km位でしょうか、丸山川傍の玄武洞ミュージアムに到着しました。駐車場に車を置いてから、ガイドさんに先導されて玄武洞に行きました。玄武洞に着くと、地学などの教科書に出てくる柱状節理の岩肌が目の前に迫りました。教科書に小さく載っている写真と違って、本物の岩肌は迫るものがあります。六角形のチューブのように岩が筋状に伸びています。面白いことにその岩自身がレンガのように20cm位ごとにひびが入っているのです。昔は、その岩を運んでレンガを積むようにして石垣にしていたそうです。柱状節理の岩で作られた石垣も展示されていました。
筋のように伸びている柱状節理、玄武洞公園の青龍堂
城崎温泉近くの柱状節理を、江戸時代の儒学者が玄武洞と名付けたそうです。玄武,青龍,朱雀,そして白虎にちなんだ柱状節理が玄武公園にあります。よく耳にする「玄武岩」はこの玄武洞の岩から来ているとのこと。玄武洞と名付けた儒学者に感謝すべきでしょうね。ガイドさんが岩に磁石を近づけるとくっつきます。つまり玄武岩には鉄の成分が含まれているのです。
玄武岩の磁極の向きを調べることによって、溶岩が固まる何万年も前の地球の磁極の位置が分かるそうです。今の地球は北極と南極が磁極ですが、何万年も前は南北に磁極がない時期があったとか。例えば日本がN極でブラジルがS極の時代があったかも知れません。
玄武洞ミュージアム玄関 玄武洞の岩肌 朱雀堂の岩肌
ガイドさんから丸山川と平野の成り立ちなどにも教えていただきました。その後、玄武洞ミュージアムに戻って小さな石を二つほど購入しました。その一つは蛍石で紫外線を当てると青く光ります。11月になると思いますが、麻郷小学校で奈良地区にある大岩の由来や伝説についてお話をします。その時に玄武洞や蛍石などの石や岩についても話そうと思っています。
城崎温泉に戻るとしばらく休憩しました。そして、夕食をとってから温泉に繰り出しました。そして、城崎温泉の中心を流れる川沿いに歩きました。夜遅くまで店が開いており、たくさんの家族連れ,子供,若者,カップル,そして外国人が歩いていました。この温泉街は繁盛しているようです。
城崎温泉の中心を流れる川 玄武洞と城崎温泉のルート
城崎温泉街を見下ろせるロープウェイから降りると、今度は新鮮な魚介類を食べるため海鮮丼で有名と言われるお店にいきました。温泉街の外れにあることと、その後に玄武洞に行くため車で行くことにしました。ロープウェイ駅のすぐ近くにある旅館指定の駐車場に向かいました。その駐車場は一台一台に屋根が付いている小屋風な駐車場です。その駐車場前には極楽禅寺があり、蓮の池がありました。本堂と楼門を見学してから車に乗りました。
川の傍に建っている玄武洞ミュージアム
城崎温泉街の中心道路を通ってJR城崎温泉駅に行き、すぐ傍にある市営駐車場に車を置きました。そして、海鮮料理で有名な海中苑まで歩いて行きました。海中苑は二階にあり一階は魚屋さんになっています。つまり、魚屋さんと海鮮料理がセットになっているお店のようです。一階にはひっきりなしに魚介類を積んだトラックが行き来していました。
極楽禅寺の本堂 極楽禅寺の楼門 城崎温泉の中心道路
二階への階段を登って海中苑に行きました。土日祝日は予約しないとすぐには席に座ることができないとのこと。しかし、平日でしたので空いた席がありました。でもすぐに席が埋まってしまいました。後に来たお客さんは待たされることになりました。早く来て良かったです。
注文したのは看板メニューの海鮮丼御前です。日本海の漁港が近い城崎温泉ならではの料理です。とても美味しかったです。
一階は魚屋、二階は海鮮料理の海中苑 新鮮な魚介類を使った海鮮丼御前
海中苑で美味しい海鮮丼御前を食べると、城崎温泉から少し離れた場所にある玄武洞に向かいました。玄武洞は社会の教科書に乗っていたので知っていました。溶岩が固まる時に柱状節理となった岩です。確か萩市の海岸近くにもこれに似た柱状節理となった岩があったように記憶しています。
玄武岩ミュージアムに到着すると、お願いしていたガイドさんに案内されて玄武洞に向かいました。
ロープウェイなど、城崎温泉街を行き来したルート
兵庫県の日本海側にある城崎温泉周辺の史跡巡りに行ってきました。主催は息子で、数日後が敬老の日だからとのこと。やれやれ、私も敬老される年になったようです。関西に住んでいた息子によると、大阪・京都では温泉と言えば城崎温泉だそうです。関東の箱根温泉、山口の湯本温泉のようなものでしょうか。
城崎温泉は幕末に桂小五郎が潜んでいたので名前だけは知っていました。その桂小五郎が潜んでいたその宿に泊まりました。桂小五郎自筆の書や幕末の写真がたくさん展示されていました。幕末の歴史が好きな人の密かな宿のようです。まさか敬老で行くことになろうとは思いませんでした。歴史、温泉、神社仏閣、海鮮料理などを楽しみました。
ロープウエイの頂上から見下ろした城崎温泉街、向こうに日本海が見える
前日、新神戸駅で落ち合いました。息子と家内は羽田空港から大阪空港経由で新神戸に来ました。新神戸に着いた私と合流して城崎温泉に向かいました。瀬戸内海が見える新神戸を後にして、中国地方を横断して日本海側に向かいました。今は高速道路が縦横無尽に走っているため、容易に日本海に出ることができます。
宿の朝食メニュー 温泉寺前のお地蔵様 太田垣士郎翁資料館
桂小五郎が潜伏していた宿に着いた次の日、城崎温泉郷を中心に史跡を回りました。最初に黒部ダムを作った元関西電力社長太田石垣士郎資料館を訪れました。次に城崎温泉郷を見下ろせるロープウェイに乗りました。このロープウェイは中間地点に温泉寺駅がありました。頂上に到着すると温泉郷を見下ろしました。遠くに日本海が見えました。頂上にある喫茶で、下界を見ながらしばらくくつろぎました。
ロープウェイ中間地点の温泉寺駅 新神戸から城崎温泉への移動ルート
先日完成したミツバチの巣箱を待ち上げる装置(巣箱昇降機)を実際に使う機会がやってきました。巣板が一番下の巣箱に到達するかもしれないため、継箱を入れることにしたためです。そして、同じくミツバチを飼っている友達に巣箱昇降機の使い勝手を確かめてもらいました。
その結果、巣箱昇降機(三つの部品で構成)は現場で組み立てやすく、巣箱を難なく持ち上げやすく、高さ18cmの継箱を簡単に挿入することができました。さらに、充電式ドライバーを使えば早く持ち上げることができます。また、微妙な昇降をしたい時には指で回します。そのため、ミツバチを挟むことがありません。
巣箱を早く昇降させたい時は充電式ドライバーを使ってジャッキを回す
自作巣箱昇降機は巣箱のどの方向にも差し入れることができます。今回はミツバチが出入りする巣門方向から差し入れました。そして、巣箱を持ち上げる2本の腕を取り付けました。あとは充電式ドライバーでジャッキを回して3段の巣箱持ち上げました。手でジャッキを回してもかまいません。既定の高さに巣箱を持ち上げると、先日作った継箱をゆっくりと差し入れました。
巣箱昇降機を差し込む ジャッキを回す 指で回して微調整
継箱をピッタリ挿入すると、今度は上にあげた巣箱を下ろします。この時、ミツバチを挟まないようにゆっくりと下げます。ゆっくり下げるため指をひねるようにしてジャッキを回します。ミツバチを挟むようでしたら、わずかに巣箱を上げてミツバチが逃げやすくします。一匹のミツバチも挟むことなく巣箱を継箱の上に下ろしました。
友達の話では11月頃に蜂蜜を頂くことができるかも知れないとのことです。この秋にどれだけミツバチが蜂蜜を集められるかにかかっているようです。来年はもう1箱ミツバチを飼ってみたいものです。
巣箱を上げた隙間に継箱を挿入 継箱をいれて4段になった巣箱
祇園社廃墟の古びた階段を降りると田んぼがありました。田んぼから振り返ると、降りてきた階段はお年寄りなどの足の悪い方が登る緩い階段だと気が付きました。降りた場所に、直線状に登るとても急な階段があることが分かりました。この急階段の方が正式な階段のようです。
その正式と思われる石階段の左右に立派な石塔が建っていました。碑文を読むと明治三十周年頃に建てられたようです。この石塔が建てられた時期が、最も祇園社が栄えた時期だったのでしょう。その後、氏子が絶えるなどして維持管理ができなくなり廃墟になったと思われます。
廃墟となっていた祇園社跡直下から振り返ってみた琴石山
石塔から琴石山方面を振り返ると、少し前に休憩をしていた茶臼山古墳の後円部がちょこんと見えました。その前の方に柳井病院がみえました。この猛暑では琴石山に登っている人はほとんどいないと思います。
祇園社跡の石塔から火伏地蔵尊が見えました。名前からして火事が起きないように願った地蔵尊ではないかと思います。柳井市は江戸時代に大火事があったとか。そのため柳井市各地にお地蔵様が建てられています。そのうちの一体ではないかと思われます。
祇園社跡の階段と石塔 屋根付きの火伏地蔵尊 宮本大師堂
火伏地蔵尊は地域の方々に大切にされているようです。花が活けられており、電気ではありますが燈るロウソクがありました。住居傍なので地域の方々が管理しやすいのでしょう。その点、祇園社跡は山の上ですし、滑り落ちそうな石階段なので特にお年寄りが管理できなくなったのでしょう。
自然を崇拝する神道のような宗教は、山奥や山上などに神社が建てられる傾向があります。一方で、自然と無関係な宗教は人々が集まる町中に教会が建てられる傾向があるようです。後者の宗教施設の方がお年寄りになってもお参りしやすいのではないでしょうか。
久し振りに参拝した代田八幡宮 國木田独歩の三角餅「藤坂屋」
火伏地蔵尊を出ると旧道に出ました。この旧道は江戸時代から明治にかけてのメインルートです。私が幼児の頃、この旧道に親戚が住んでいました。この親戚の家前で、私は自転車に引かれたことがありました。自転車の車輪が手が届かないほど高かったことを覚えています。突然に飛び出したのでしょう。今ならば車に引かれていたかも知れません。
続いて宮本大師堂に行きました。そして、傍にある代田八幡宮を久しぶりに参拝し休憩を取りました。猛暑にも関わらず数家族が参拝をしていました。代田八幡宮を出ると國木田独歩の小説に出て来る三角餅の藤坂屋前を通り出発地点に戻りました。短いウォーキングでしたが良い運動になりました。自分にお疲れ様!
柳井市 柳東地区の史跡巡りウォーキングの下見コース
茶臼山古墳を降りて大屋団地に行きました。バスの終点になっている団地です。以前は子供の姿をよく見たのですが、猛暑のためか一人も姿を見ませんでした。ここも少子高齢化なのでしょうか?続いて荒神山公園に行きました。大屋団地から直接この公園に行けるはずなのですが、入口が閉っていました。廃止された公園かも知れません。
そこで、一度脇道を通って市営住宅を回り込んで公園に行きました。公園入口には荒神社の鳥居が立っていました。明治三十年頃建てられたようです。公園内は荒れており、公園として使えないようでした。雑草や灌木をかき分けて荒神社の祠に行きました。
青い空に白い本殿が映える正行院
この荒神山公園、元々は荒神社の参道広場だったと思われます。今は雑草と灌木に覆われていますが、その昔はたくさんの人が参拝していたに違いありません。鳥居に刻んである明治三十年頃は賑やかだったに違いありません。廃棄された祠が寂しく残り、今後は少しづつ山に返るのだと思います。そして、鳥居,手洗い石,そして灯篭だけが残る森になるのでしょう。
寂しげな灯篭 旧荒神社の祠 荒神山公園からの眺め
荒神山公園下の市営住宅も静かでした。花を育てている家が一軒だけありました。その一軒の方が退去すればすべての長屋が解かれるのでしょう。大屋団地にしろ市営住宅にしろ空家が目立ちます。これらの団地を見ていると昭和の風情を感じます。ちなみに私は結婚した当初、青梅市の市営長屋に住んでいたことがあります。洗濯機が外に置いてあり、暖房と炊飯器を同時に使うとヒューズが飛んでしまうようなわびしい長屋生活でした。
樹が生い茂り暗い祇園社廃墟 落葉が積もる石階段廃墟
荒神山公園を出ると、正行院に行きました。お寺は、堂,庵,寺,そして院と立派になります。柳東地区一番のお寺かも知れません。お墓もなかなか立派に見えました。
続いて、正行院の南にある暗い森の中に入りました。ぎりぎり道が続いています。ここはかつて祇園社があったようです。しかし、今は荒れ放題で放置されてから数十年経つようです。落葉が積もる階段を降りました。ここも昭和時代には賑やかだったに違いありません。なぜ放置されるに至ったのでしょうか?
柳井市 柳東地区の史跡巡りウォーキングの下見コース
猛暑の中、来月の史跡巡りウォーキングの下見に行ってきました。暑いので三時間ちょいの歩きにとどめました。歩いた場所は柳井市の柳東方面です。スーパートライアルの駐車場から歩きました。
最初、柳東小学校を経由して春日神社を参拝後に茶臼山古墳に行こうと思っていました。しかし、猛暑の上に春日神社は何度かウォーキングで行ったことがあります。そのため柳東小学校手前から琴石山の裾野に向かって歩き、直接茶臼山古墳に行きました。
久し振りに訪れた、葺石の間に雑草が生える茶臼山古墳
駐車場を出発すると、最初に旧国道188号線を見守るお地蔵様に行きました。大きく立派な立ち姿のお地蔵様でした。続いて団地(中電社宅?)内にある公園の祠を訪れました。猛暑のためか子供は誰一人おらず、やや荒れた公園でした。公園周辺は立ち枯れた草で覆われていました。除草剤がまかれているようです。
トライアルの駐車場 旧国道を見守るお地蔵様 荒れた公園内の祠
その後、川の上流に向って歩きました。しばらく歩くと、琴石山麓のなだらかな田んぼや畑に出ました。左右を田んぼに挟まれた畦道をのんびりと歩きました。たまたま野良仕事をしている方と談笑しました。この暑いのにご苦労様です。
琴石山麓ののんびりした田んぼ 茶臼山古墳からの柳井市街
緩い坂道を歩いていると舗装道路に出ました。柳井市と大畠の往還道路ではないかと思います。その道を柳井側に歩いているとトンネルがありました。そのトンネルを出ると、左に歩いて茶臼山古墳に行きました。
前方部から登って後円部の頂上に登りました。しばらく眺望を楽しんだ後、資料館前の木陰に入って休憩しました。休憩後立ち上がると、座った箇所がハート型に濡れていました。汗でお尻が濡れたようです(笑)。
柳井市 柳東地区の史跡巡りウォーキングの下見コース
那須岳に登山してきました。しかし、山頂に着くも雷雨のためすぐに下山しました。霧もかかり時々道が見えなくなりました。ところで、那須岳は福島県と栃木県の県境に位置する比較的低い山(1915m)です。しかし、山裾には木が生えておらず森林限界が低いようです。それだけ気候が厳しいのでしょう。
この山は去年の秋に2回も遭難がありニュースになりました。歩いてみて霧がかかると数m先が見えなくなるのです。がれ場が多く一度滑ると10m位滑落しそうです。急斜面は石が滑りやすくぐらぐらするので落石も多そうです。尾根道は強風が吹きますし、風がないと硫黄の匂いに悩ませられます。イノシシの群れが硫化水素で死んでいたことがニュースになりました。なかなかやっかいな山です。
天候不順のため、山頂の祠にお祈りをするとすぐに下山
登り始めは笹原に木がポツポツ生える緩やかな登りです。しかし、山頂付近は草木も生えない急登が続きます。去年遭難が続いたためか左右にロープが張ってありました。このロープの内側を歩けば道を間違える心配はありません。天気が良ければ那須高原を広く見渡すことができるのですが、霧のため下界はまったく見えませんでした。
霧がかかる山腹 急な岩場をひたすら登る やっと山頂に到着
ところで那須岳は山全体の総称で、今回登ったのは茶臼岳です。その火口を回る予定でした。いわゆるお鉢巡りです。しかし、雷鳴が聞こえてきたり霧が深くなってきたため、頂上の祠に行った後に近くの三角点に触ってすぐに下山しました。そのうち雨が降り出したのですぐに下山したのは正解でした。
私が若い頃、神奈川県の山岳会に所属していました。ある年の秋、谷川岳に登ったことがありました。その日の午後に気候が急変して雪が降り始めました。そして、吹き溜まりの場所にいたためかあっという間に雪が積もりました。やむなく雪洞を掘ってビバークしました。天候を予想し、スコップ,ランプ,余分な食料,テントなどをあらかじめ用意していたので慌てずに済みました。
那須岳の三角点を撫でる 那須岳頂上のお鉢(火口)
この猛暑の中をウォーキングしてきました。このウォーキングの会を立ち上げて12年、ひたすら史跡巡りウォーキングをしてきました。今回は最初で最後となりますが、この宇宙での太陽系の広さを体感してもらうウォーキングをしました。
田布施町役場がスタート地点です。役場玄関の幅14mを太陽の直径に見立ててのスタートです。太陽の直径を14mに見立てると地球は直径12cmです。役場玄関を出発すると田布施川に沿って海に向かって歩きました。この歩く速度は、太陽の大きさを14mとすると4km/時間となります。つまり歩く速度は光の速さとなるのです。光の速さで太陽(役場)を出発です。
4分後に到着するのは交流館近くの距離にある水星(直径4cm)です。太陽から出た光は4分後に水星に届くのです。続いて、金星、地球、火星、木星の位置に向かって歩きました。
浮島神社の涼しい木陰で、談笑しながら休憩
宇宙の広さを体験してもらう催しは、何年か前に観光協会の理事をしていた時に提案しました。しかしながら却下されてしまいました。そこで今回、いつものウォーキング仲間に体験してもらうことにしました。
さて、水星の位置を出ると、3分後に桜橋に到着です。この桜橋の位置にあるのは金星(直径12cm)です。さらに田布施川に沿って歩き、図書館を50m過ぎた位置にあるのが地球(直径12cm)です。続いて火星の位置に向かいました。
関戸橋近くの堰 向こうに見える川添橋 田布施町交流館に戻る
火星(直径7cm)の位置は旧関戸橋の位置です。ここまで来ると猛暑日で突き刺さるような日差しがこたえます。タオルで汗を拭きながら歩きましたが、風が吹いているため汗は塩になります。そのため、額を触ると塩でサラサラしました。
新関戸橋近くの桜の木陰で最初の休憩を取りました。今日は距離を稼ぐウォーキングではないため焦らずいつもの仲間と談笑しながら楽しく歩き続けました。これだけ暑いと、楽しくおしゃべりしないと歩けません。
旧関戸橋を交流館に戻る 交流館に着いてかき氷を食べる
灸川の河口近くに来ると幕末期の奇兵隊のお話をしました。また、私が子供の頃にあった人島橋に付いてお話をしました。どんどん歩いて八海橋の位置にある木星(直径1.4m)に着きました。今回のウォーキングはここで止めです。それ以降の惑星の位置は、土星が佐賀、天王星が尾国、海王星は上関になります。これ以降は遠くて歩けません。
木星までの位置を体験すると、高塔公会堂の木陰に行って昼食休憩にしました。その後はひたすら交流館に向かって戻りました。午後1時頃でしたので猛烈な日射でした。交流館に着くと、かき氷を食べました。暑くなった体には最高のプレゼントでした。この猛暑日のウォーキングに参加さたれ方々お疲れさまでした。
太陽系の大きさを体験したウォーキングのコース
猛暑の中を柳井市の琴石山に登ってきました。友達の一人がまだ琴石山に登ったことがないとのことで、先月登る日取りを決めていました。梅雨が明けず雨との予想をしていましたが、好天の猛暑でした。最初から汗だくの歩きでした。
酷暑のためか誰ともすれ違いませんでした。ただ救われたのは風がそれなりに吹いていたことでした。何度か立ったまま休憩をすることを繰り返しながらなんとか登りました。頂上に着くと、絶景が広がっていました。四国も九州もくっきり見通せました。頂上からの景色はこれまで何度も見ましたので、360度ざっと見渡しただけですぐに木陰に入りました。一時間位昼食兼水分補給をしました。
周防大島、平郡島、皇座山、その向こうに四国を望んで
最初は舗装されたくねくね曲がる道をゆっくりと歩きました。それでも日差しが刺さるように照るため汗が出ます。手で汗を拭いてもすぐに流れ落ちます。一番困るのは汗が目に入って痛むことです。持ってきた手拭で汗を吸い取りました。
歩きながら、多めに持ってきた水分を喉が渇かなくても飲みました。琴石山の階段からは山の陰に入ります。樹々の間を歩きましたが、通る風が涼しくて気持ち良かったです。
琴石山の階段を登る 日積方面を振り返る 琴石山頂上の立て札
琴石山直下の階段は距離は短いものの日陰がありません。最後の力を振り絞って登りました。すると、木製のテーブルや椅子が見えてきました。頂上に到着です。椅子に数分間座って休憩した後、頂上の絶景を楽しみました。その後は木陰に入ってたっぷり休憩しました。充分休憩をすると、来た道をのんびりと下りました。暑かったですがほど良い運動になった山登りでした。
頂上より周防大島を望んで 手前に笠佐島、向こうに平郡島を見て
柳井市相ノ浦の史跡巡りウォーキングの下見をしてきました。何年か前に相ノ浦小学校跡地や傍に鎮座する相ノ浦神社や近くにある池ノ浦神社を訪れたことがあります。今回はそれ以外の仏閣,祠,そして庵などを訪れました。ただ梅雨時期なので隅々まで歩くことができませんでした。また、皇座山の登山口まで行くことができませんでした。相ノ浦は交通がとても不便です。バス路線が無いため車で行くしかありません。本番ウォーキング時には柳井に集合して、乗り合わせて行くしかないようです。
平成年間に建て替えられた宝照庵
さて、車を相ノ浦小学校跡地横に止めました。その小学校の校庭跡地で工事をしていたため入ることができませんでした。また、相ノ浦神社は以前来たことがあるため今回は行きませんでした。そこで、少し海岸を歩いて地域内を歩くことにしました。皇座山に向かって緩い坂道をのんびり登りました。振り返ると、周防大島が見えました。左端には周防大島大橋が小さく、右端には平郡島がみえました。どの地域もそうですが、田んぼで米作りはやっていないようで、放棄田がたくさんありました。
放棄された田んぼ 報恩寺で少し休憩 報恩寺から宝照庵に向かう
緩い坂道を登っていくと先に報恩寺の本堂屋根が見えてきました。ややきつくなった坂道を登ると報恩寺に着きました。少しばかり休憩させてもらおうとご住職を探しました。すると、廊下横で投薬中で横になった方がおられました。たぶんご住職だと思われます。挨拶をすると休憩を快諾していたいただきました。ありがとうございました。
宝照庵の上に安置された七人地蔵 道路に面した祠と御旅所
報恩寺で15分位休憩すると宝照庵に向かいました。地域によっては倒壊寸前の庵が少なくありません。しかし、宝照庵は平成年間に建て替えられたようでまだ新しい趣が残っていました。庵の東側は墓地でした。相ノ浦の方々の安寧に地なのでしょう。宝照庵を出ると、海岸道路の祠や御旅所に行きました。その後は、海を見ながらのんびりと車に戻りました。
柳井市相ノ浦の史跡巡りウォーキング下見コース