東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

田布施町 国木,光市 室積ほかを散策

2012年06月22日 | 歴史探訪他ウォーキング

 台風が過ぎ去った後、天気が回復してきたため町内を散策してみました。今回は、西田布施最西にある国木を抜けて光市室積を散策してみました。この国木には、私が中学校や高校の頃に友達の家を訪ねてよくきたことがあります。また、麻里府に住む友達の家に行くときに、麻郷側ではなくこの国木側を通って山越えして行きました。

      国木地域に広がる田んぼ            元国木小学校跡地
 

 最初、国木小学校跡地に行ってみました。私が中学校の時にはすでに西田布施小学校に統合されていました。この跡地で友達と遊んだ記憶があります。広場になっているため、子供の遊び場として最適だったと思います。ところで元総理大臣の岸信介が幼少の頃、この国木の田縫と呼ばれる地区で育ったとのです。そして、小学低学年時代、この国木小学校に通ったそうです。

                  のんびりした真殿地区の田んぼと家々


 国木小学校跡地で小休止すると、真殿地区に行きました。ここには、田布施と光市を結ぶ十字路があります。この十字路は国木側から見て、右手へは田布施町城南方面へ、正面は光市役所や岩田方面へ、そして左手に行くと千坊山を越えて光市室積方面に行けます。今回は千坊山方面に行って山越えして室積へ行きました。

        真殿の十字路、左手に行く         真殿奥に広がる棚田
 

 真殿から千坊山への道は、確か中学生か高校生の頃に実地授業か何かでみんなで行きました。当時は舗装されていなかったため、所々自転車を降りて押しながら行きました。そして、ふもとで自転車を置いて歩いて登りました。この千坊山には、その昔お寺の宿坊がたくさんあったとのことです。そして、火事で焼けた後に再建されず放棄されたように聞いています。

     田布施町と光市の境界        丸は亡き父が入院していた光輝病院
 

 高校生の頃、千坊山を含む尾根筋はほとんど木が生えておらず眼下に周防灘が一望できました。本当に絶景で今でも思い出します。しかし、今は木々が茂って展望は良くありません。光市と田布施町の境界線でもある尾根道(コバルトライン)を少し進んで、開けた場所に出ました。すると、急に視界が開けました。この場所は2年ほど前にも来たことがあります。

           コバルトラインから東を見て、平生、田布施が眼下に


 この場所から東を見ると、平生や田布施、また柳井市の余田、新庄などが見えます。遠くには、琴石山や大島の一部を見ることができます。小さく点滅する光があったので、注視するとそれは柳井港近くにある発電所の煙突でした。南側を見ると、つい一ヶ月前まで父親が入院していた光輝病院が小さく点のように見えました。この病院に行くことは無いのかと思うと、寂しいものが湧きあがります。

              平生湾から長島、牛島、祝島などの周防灘を見渡して


 景色を堪能すると、田布施町と光市の境から一気に光市室積に降りました。途中、室積の像鼻ヶ岬を見下ろしました。この室積は子供の頃に何度か行ったことがあります。最近では、子供たちを連れて像鼻ヶ岬の反対側にあるフィッシングパークに何度か行きました。

              コバルトライン途中から見下ろした室積像鼻ヶ岬


 光市かんぽの宿前に降りて室積街に入りました。街に入ったすぐ近くに、私が小学生時代の恩師の家があります。第1回麻郷小学校同窓会を私が企画した時、この恩師の家を訪ねたことがあります。残念なことに、酸素マスクが離せないご病気だったため出席がかないませんでした。室積街では、最初に郷土館を見学しました。次に、普賢寺を久しぶりに見ました。幼少の頃、このお寺の境内でのお祭りで陸性ヤドカリを買ったことを覚えています。

       光ふるさと郷土館              金剛力士像がある普賢寺門
 

 普賢寺は境内が結構広いので、のんびりと見て回っているとすっかり時間が過ぎていました。そこで最後に像鼻ヶ岬を散策しました。山口大学付属小中学校脇に車止めがあったので、そこからは歩いて散策しました。周防灘に面する外海は波が荒かったのですが、内海はとても波が静かでした。この室積が港として栄えた理由が分かります。

            波がとても穏やかな室積の内海(像鼻ヶ岬の内側)


 山口県には有名な民謡がほとんどありません。しかし、この像鼻ヶ岬に幕末建設された台場に関わる民謡があると、高校生の頃に何かで聞いたことがあります。この砲台場は、武士の妻や娘が石を運んで作ったそうで、その時の労働歌が民謡「男なら」だとのことでした。像鼻ヶ岬を一通り散策し終わると、海沿いの国道188号線を通って家に帰りました。

     石を積んで作られた台場跡       像鼻ヶ岬の突端から千坊山を見て
 

コメント
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