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学校文化こそが…

2006年10月06日 | 雑記帳
 宮城教育大学の学長である高橋孝助先生の講演を拝聴した。
 「教員養成の今」と題されたお話の中身は、今大学が置かれている財政的な実情から教員養成大学の持つ根深い内部対立の話まで広範囲にわたるものだった。
 その中で先生が何度となく強調され、私自身も深く印象に残ったのは次のことである。

 評価主義と学校文化

 大学はもちろん義務教育の公立校まで押し寄せている「評価の波」は、私の住む地方でもかなり高い。
 今進められている評価制度がどうなのかという判断は難しいところだが、現実には受け止めざるを得ないし、その制度が少しでも役立つように努めるのが現場の責務だと心得ている。

 しかし、確かに危惧されることはある。
 その一つに、制度(いやそうした雰囲気なのかもしれないが)に押しつぶされそうな教員の存在があるだろう。
 教員養成大学いわば教員の供給者のトップとして、高橋先生は初任者の動向にも当然目が向いていたはずだ。
 そして、このようなことを語られた。

 校長や教頭がいいと、指導力の乏しい初任者でも大丈夫だ。それは職場に高めあう雰囲気があるからだ。それが学校文化であり、初任者も伸びていく

 管理職が職員の意見を受けとめ、それを職場に振って話し合う…そうした態勢が、評価主義を乗り越えられるはずと仰った。
 具体的な場面でどんな言動になるのか、かなり多岐にわたっているが真剣に考えなければならない問題だ。

 「学校文化」といったとき、従来のような横並びの精神が色濃く残ると思うが、それはどの場面で発揮するべきことなのか、逆にそうでない関係性を保たなければならないのはどこなのか、はっきり見分けなくてはならない。

 高橋先生が、「スクールリーダー」というお話をされたときにこのようなことを言われた。

  スクールリーダーは、行政のテクニックやコントロールのテクニックが優れているからなれるものではない。授業力がない人は駄目である

 これは象徴的であると思う。
 管理職とスクールリーダーが同じとは限らないが、授業こそが学校教育の中核であり、それに向って討論していく態勢を築く中心的人物がいない限り、評価はきわめて表面的で形式的なことに左右されるだろう。
 そうして、そんなことが続く学校という場は、子どもたちを蝕んでいくに違いない。

 学校文化の維持?再興?創造?が、子どもたちの成長を保障する。