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言語陶冶は机上論ではできない

2006年10月16日 | 読書
 言語陶冶は凡ゆる場合に、凡ゆる児童をして参与せしめるもので、教師も亦之と共に動き、之と共に生活する場合に於てのみ、所期の目的を達成することが出来る。

 遠藤熊吉は、言語教育の総合性というものを特に強調している。
それは、「場」をトータルにとらえているに限らず、「内容」もまた総合的でなければならないことを繰り返し説いている。

 一般に言語教育は常に綜合的でなければ実績を挙げ得ない。音、アクセント、朗読、話方等は各々分解せず、有機的関係を保つのでなければ、言語教育は徒らに抽象的となるであらう。

 「標準語指導」は発音指導とも置き換えられるが、この練習の仕方つまり単語でするか文章でするかという取り扱いについても、はっきりと信念を持ち、しっかりと実施している。

 例えばハナの如き語も、単に語としてのハナとしてのみ取り扱はずに『サクラノハナ』『コレハサクラノハナデス』『サクラノハナガサイテイマス』と言ふやうな句、文章として、即ち思想表現としての言語活動として取り扱ひ、発音練習も、之に即した矯正が望ましい。

 こうした指導は、徹底をきわめたと思われる。
具体的な指導例もあり、練習のさせ方等細かい心配りも見られる。そのうえで、徹底ぶりが児童に苦痛を与えないか、という心配に対して、次のような主張を展開する。そこには計画性、継続性が明確に見えているといっていいだろう。

 ある限定された場合にのみ強制されることこそ却って苦痛で、適宜機会ある毎に矯正するのは寧ろ容易である。而して今の労煩は後の解放に至る前提なるを思へば、現在の苦心を避くべきでなく、入学時より初まり、晩くも略々三年間に於て深い、堅固な根底が作られねばならないと思ふ。

 その他矯正練習の仕方はもちろん、材料の求め方や遅進児の取り扱いなど、どれをとっても机上論ではなく、子どもにしっかり向き合って言語教育を進めたことが伝わってくる文章である。

 言語教育を通して、その時代の子どもの声と心の変革を迫った先達に改めて敬意を表したい。