すぷりんぐぶろぐ

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教師によって差し出された「毒」

2006年10月19日 | 雑記帳
 20年近く前に購読した本がある。

 『授業づくり上達法』(大西忠治著 民衆社)


 その時に読んで納得して身につけた技術が確かにあり、自分にとっては印象深い本である。
 今読み直してみて、また新たな発見もあった。
 「流れる視線 とらえる視線」をはじめ、今もって自分の課題となることが多く
なるほどと思いながら読み進めた。

 次の一節も深く頷ける。

 ムチも笛も、一人の教師のどういう教育についての考え方と、どういう教育方法の流れや教育技術(これをこそほんとは教育方法というのだが)の中に位置づけて使われているかということによって、はじめて批判の対象になるものなのである。


 「ムチと笛」は、「教師の言葉」にも置き換えられるなあ…
と思ったとたんに、中学生自殺報道に心が飛んだ。

 私たち教員の多くは、教師の言葉がそれだけで非難の対象にはならないことは感じている。
 これは、教師対子どもという関係だけでなく、対人関係一般にもあてはまるだろう。
 しかし、関係を築けなかったもしくは関係が捻れたなどという場合に、
教師の言葉は子どもを、刺す矢のごとく、絞める縄のごとく、痛めつけることも重々承知しているはずだ。
 その畏れなしにこの仕事をしてはいけない。

 教師は、関係を築くために、その言葉をつかったのか…
 関係が捻れ、裂けていることを知らずに、つかったのか…

 大西氏は「声は教師の一番重要な商売道具」と書いている。

 その道具に載せた差し出された「なかみ」が、
子どもにとって矢や縄や毒に変質していないだろうか
常に目をこらしていないと、気づくことはできない。