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名前を大切にするという病

2008年11月10日 | 読書
 『落語の国からのぞいてみれば』(堀井憲一郎著 講談社現代新書)の第四章「名前は個人のものではない」もまた興味深い。

 落語家の襲名についての話題から始まっている。歌舞伎役者やヤクザなどの場合もそうだが「○代目~~」という言い方についてあまり考えたことはなかった。襲名とは何かなどと深く考えることなど、まず一般的にはない。
 筆者は「役割を継ぐ」ことだと言う。
 納得である。
 社会的役割がある氏名というふうに考えると、それを継ぐことは役割を背負うことになる。役割の歴史を重ねてきた稼業にしかないものだろう。芸事であれ、商家であれ、人に影響を与える存在になることが襲名の持つ意味なのである。

 そうした事に比べれば、個人の名前などいかほどのものか…
 という発想にたつこともできる。

 誕生日を祝うことと同様に、子どもたちにも「名前を大切に」といったことをずいぶんと言ってきた、それに関わることしてきた。
 これもまた間違ったことをしてきたとは思わないが、逆にたかが一庶民の名前などどう変えてもたいしたことはないという気持ちも芽生えてくる。
 こんな文章がある。

 自己同一性やら、自分探し、という近代ならではの病は、やはり「人から勝手につけられた名前を自由に変えることはできない」という不愉快な強制から発していると思う。みんな、何かにならないといけないとおもっているのだ。

 平気で3回ぐらいは名前を変える世の中の方が生きやすいかもしれない、と勝手に思う。

 そういえば、とここでかつて同職したある女の先生のことを思い出した。
 あるとき、氏名に読み仮名をつける必要が出てきて、その先生に念のために問うたことがあった。

「先生の名前って、○エコですか、○イコですか?」
(この質問は、イとエの発音が微妙に混じる東北地方独特のことですね)

 その先生は、真顔でこう答えたものである。
「あらあ、どっちだろ。」

「どっちだろうって、先生、自分の名前ですよ!」

「んだな。私は、○エコの方が好きだな」

「・・・・」

 実に大らかな仕事をする人であった。
 もう退職なされたが、相変わらず人生を謳歌している様子である。