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詩の種を育む眼差し

2008年11月18日 | 雑記帳
 地域文集の審査会で、中学校2年生の教科書に載っているという汐見稔幸氏の「人はなぜ書くのか」という文章の一部を引用して挨拶をした。

 言葉によって、自分の心が刻まれて磨かれる

 時間がかかり面倒な「書き言葉」は、そうしたチャンスを持つということだ。
 文章の上手さだけでなく、そういう面を想像力を発揮して見抜けるかも大切なことだと思う。

 さて、このところ審査員の不足もありもっぱら中学生の詩を担当しているのだが、これは、と思う詩はなかなかないものだ。
 多いのが、形は整えているが観念的な言葉のオンパレードという類である。
 しかし、考えてみれば、自分も少し詩を齧ろうとしたときは、そんなものだったのではないか。
 今になって思うのだが、そんな詩は一読すると、伝えようとする相手がいないことに気づく。
 いや、対象はいるにはいる。
 まさしく、自分。

 自分に向かって書き殴った印象を持つ詩。
 そんな詩が力を見せているとすれば、やはりぎりぎりの体験や言葉を掘り下げていく根気を持つ者に限られるだろう。
 残念ながら、今の中学生にそれほどのものはある子が多いとは思えない。

 改めて汐見氏の文章を読み、障害を持ったTちゃんという子の詩をみると、かなり古典的な言い回しとは思うが一つの言葉が浮かぶ。

 詩は願いであり、祈りである

 それを見つけることに難儀する世の中だ。
 仮に見つけたとしてもその種のようなものを育むための眼差しが不足しているし、周囲も見過ごしていることが多いといえないか。