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読みなおし、読みきるその二つめ

2009年01月12日 | 読書
 2001年にこの本を読んだとき「なるほど!」と大きな指針を得たように思った(という記憶がある)。

『インターネット的』(糸井重里著 PHP新書)

 しかし、今再び読みなおすと、いかに自分がわかっていなかったか、つまり表面的なことのなぞりでしかなかったかを思いしらされる。

 あれから8年。
 パソコンやインターネットに関する性能や普及の進歩、拡大は目を見張るものがある。ただ、糸井がこの本で語った「インターネット的」という概念には大きな違いはないと思う。

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(+グローバルということもある)

 「インターネット的」という考え方は、パソコンなどの情報機器の発達によって命名されてはいるが、実は必ずしもそれを前提としていないという発想に糸井の柔軟さがある。
 その本質を理解すれば、いかに自分が機器や流行にとらわれ「インターネット的気分」になっていたか反省させられる。
 つまり、自分の働きかけによって誰かとつながり喜びなどを分かち合い世界が広がりはじめたか、という観点ではほとんど変化はなく、いやむしろ停滞しているのではないか、ということである。

 ふと、昨日の朝テレビ番組で取り上げられた風景を思い出す。
 昭和の色を濃く残す地方都市の路地で、自分の作った野菜を売っている若者?のことだ。むろん売り上げは少ないだろうが、一定の客がいたり、会話を楽しみながら新しい野菜を勧めたり…こんなあり方、生き方もインターネット的と呼べるような気がした。

 懐古趣味ということではない。個の価値や実感を大切にした場を作り上げていく可能性を広げているということである。それはインターネットによって果てしなく大きくなったが、発端となる個人の姿勢としては昔と差はない。
 むしろ本質を理解して行動しなければ、道が大きく広がった分より困難な時期といえるのかもしれない。

 インターネットの普及がインターネット的であることを妨げる、という逆説的な言い回しは言い訳にしか過ぎないが、注意力散漫傾向の自分には警句として留めなければならない。