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問いを立てる力を育てる

2009年01月27日 | 読書
 『授業深耕への架橋 続授業深耕への架橋』を読み終えた。

 「続」の後半部は、千葉氏が授業の具体的なあり方について記している。
内実のある授業を創造するためのポイントが列挙されていた。その時代(平成1~4年)の教育界を席巻していたともいうべき「新学力観」に惑わされることなく、目の前の子どもを見よ、学校の現実を見よと語りかけていたと思う。むろん、それは15年以上を経た現在でも忘れてはならないことである。

 こんな一節がある。

 現在、急速に変容する社会であればあるほど、前途に予測できない数多くの事態が待ち受けております。それに対応する人間は、自分で問い、自分でそれを解明するといった能力が強く求められるのではないでしょうか。
 
 「『答え』より『問い』を大事にした授業構想を」という項目で、森本哲郎氏や森隆夫氏の文章を引用しながら、その重要性を指摘している。この点はそうあまり変わっていない現実があるのではないかと思った。
 クイズ番組が垂れ流し状態のように流されて「解答」だけが氾濫しているし、学校の授業では活用重視と名づけられてはいるが実は「答え方」の練習に多く時間が割かれたりしている。
 本当の「問い」の立て方…それは容易く語られることではないが、少なくてもじっくりと時間をかけた取り組みの中でしか育たないのではないか。

 高度な情報化時代、かの超整理法の野口悠紀雄氏はこれからの基礎基本を「読み書き検索」と書いていたが、そこで決定的に重要になるのは「問題設定力」だと強調していた。その力のない基礎基本は結局役には立たない。
 情報の海を渡っていくためには、既存の灯台などに頼っていてはだめだ。自分で現状を見つめ問いを立てて、行くべき方向を見つけ針路をとることだ。

 そのための力を育てることが「知育」の核となっていくだろう。それは一年生の授業であっても意識しなくてはいけないのだと思う。