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「情報」から身の置き所を探す

2009年01月30日 | 読書
 『情報の文明学』(中公文庫 梅棹忠夫著)を読んだ。
 
 梅棹氏の本はあの著名な『知的生産の技術』ぐらいしか読んだことはないが、この本もまたえらく本質をついた内容だった。その発端となる論文が1963年に書かれたことを知って、またびっくりする。
 農業社会から工業社会そして情報産業社会へ、という流れをその時代に予告していたという事実は、解説者が書くように、人類文明史的にはプラトン、マルクスと並び称されると言っても大げさではないのかもしれない。ま、そこまでいかなくても名著であることは間違いない。

 糸井重里はこの著を「ほぼ日」の父と称したが、モノを作る、モノを売るということの本質とその歴史的な位置づけ、そして情報の将来像を明確にしてみせたという意味では、納得できる気がした。
 しかし、情報という言葉の持つあまりの範囲の広さに道に迷いそうで、明確に読みとれた自信がなく立て札ばかりを覚えている、そんな感じである。

 ところで、産業の歴史を人間の身体構造と絡めて説明するくだりで、ふと思い浮かんだのは、あの養老孟司の「脳化社会」という言葉。
 情報に経済的価値が発生し、その価値が高まれば高まるほど、相対的に農産物、工業製品といった物質そのものの価値は低くなっていく。それは結局、多くが脳化している状態と言えるのではないか…。
 ただ、結局のところ人間は食べなければ生きてはいけないし、身体を動かし筋肉を維持することも必要だ。その中で実感(ここが問題だが)できることを、「生」と呼んだりする。

 情報産業に依存している脳化社会への身の置き所は絶えず考え続けねばならない、このことだけは確かだ。