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「高価で有限な教師」という自覚

2009年01月31日 | 読書
 『勉強しなさい!を言わない授業』(西川純著 東洋館出版社)を読む。

 去年のうちに最初の部分は読み始めていたが中断したままになっていた本である。
 いつもながら西川先生の小気味のいい文章が続いている。
 こんな一節に目が止まった。

 現行の教師主導を根づかせているものの最大の要因は、学習の最大の手段が、高価で有限な教師であるというモデルに則っているからだ

 こういう見方もあるのか、と思わず唸ってしまう。
 たしかに教師は「高価で有限」である。それに比して、印刷物、視聴覚物、ネット等々は低価であり、圧倒的な量をほこる情報を提供するだろう。
 それでもなおかつ、学習の手段として教師に価値があるのは、「モデル」としての部分なのだということがいえる。
 つまり「学ぶモデル」としての教師。
 それを具現化している学校、教室は、指導法がどんなものであれ子どもたちの多くにとっていい教育の場だということだ。

 それにしてもというべきか、それだからというべきか、いやおそらくというべきことなのだが「高価で有限」という自覚を持っているか否か、それが芯になる。