連休前から読み始めていたのが
『間違いだらけの教育論』(諏訪哲二著 光文社新書)
キーワードは
「啓蒙」としての教育
諏訪氏の一貫した主張によって、影響力の強い「教育家」たちの論が斬られていく。肯ける点は多いが、取り上げられている本は読んでいないものもあり、もう少し自分の読み込みが必要と思う。
それにしても「啓蒙」は強い言葉である。そしてその教育のためには強い指導性が必要であり、取り上げられた著名な人たちはみんなその要素を持っているだろう。
だからある意味でその方々はかなり有効な論を提示しているとも言えるのだが、同時に経済や政治の流れの中で大きく利用される存在であるゆえの危険性も持つ。
看視する目が必要なことを教えられる。
『考えあう技術』(苅谷剛彦・西研著 ちくま新書)
諏訪氏の新書に引用された箇所が興味深く、読んでみた。
実に刺激的である。
苅谷氏の論はいつも目を見開かされるが、西氏の指摘もまた鋭い。
例えば、「心のノート」はこんなふうに批判される。
教育というものを「心の問題」と考えているのです。社会や他人と関係していく力とか、集団をつくりあげる力をどう育てるかという観点が全然ない。
そういう意識で見ていなかった自分を振り返るとき、なんとなく社会状況に対して追従的な姿勢が浮かび上がってきた。
「どういう社会を作ろうとするのか」という議論が干からびてしまっている。
『間違いだらけの教育論』(諏訪哲二著 光文社新書)
キーワードは
「啓蒙」としての教育
諏訪氏の一貫した主張によって、影響力の強い「教育家」たちの論が斬られていく。肯ける点は多いが、取り上げられている本は読んでいないものもあり、もう少し自分の読み込みが必要と思う。
それにしても「啓蒙」は強い言葉である。そしてその教育のためには強い指導性が必要であり、取り上げられた著名な人たちはみんなその要素を持っているだろう。
だからある意味でその方々はかなり有効な論を提示しているとも言えるのだが、同時に経済や政治の流れの中で大きく利用される存在であるゆえの危険性も持つ。
看視する目が必要なことを教えられる。
『考えあう技術』(苅谷剛彦・西研著 ちくま新書)
諏訪氏の新書に引用された箇所が興味深く、読んでみた。
実に刺激的である。
苅谷氏の論はいつも目を見開かされるが、西氏の指摘もまた鋭い。
例えば、「心のノート」はこんなふうに批判される。
教育というものを「心の問題」と考えているのです。社会や他人と関係していく力とか、集団をつくりあげる力をどう育てるかという観点が全然ない。
そういう意識で見ていなかった自分を振り返るとき、なんとなく社会状況に対して追従的な姿勢が浮かび上がってきた。
「どういう社会を作ろうとするのか」という議論が干からびてしまっている。