すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

迷路のようにくねくね

2009年09月10日 | 雑記帳
 びっくりする話だ。
 霊長類研究の権威である、かの正高信男教授のこんな文章を読んだ。

 三歳から六歳になるまでの四年間、人間はどれぐらいのペースで新しい単語を覚えていくと、お考えでしょう。 おおよそ一日平均にして、十五単語という値をはじきだした研究があります。
 
 他の調査結果も似たようなものだと言う。
 とすれば、小学一年生の段階では2万を超えていることになるが、はたしてどうなんだろう?
 小学生用の国語辞典がおよそ3万なので、6年生レベルで2万以上というのが私の勝手な予想だった。しかしこの文章できわめて自信がなくなる。

 それはともかく、幼い子どもたちの学習能力は凄まじいといっていいだろう。
 比べるべくもないが私などこの1週間、いや1カ月で何か新しい単語を覚えたのだろうか。使える単語を身につけたろうか。

 「再帰」…この前読んだ池谷氏の英会話本で知ったことばだ。
 勉強していればとうの昔に刷り込まれたはずだろうが、今さらこんな言葉に出会っても、使いこなせるわけないじゃないか。

 とは言いながら「再帰」について少し考え込んだのはなぜか。
 言葉への興味、獲得したいという気持ちが湧くからだろう。
 正高氏によれば、言語の学習を促すのは社会的関心を浴びたいという人間の本性らしい。これは別に年齢を問わずあるのだろうが、馬齢を重ねた者がいくら難しいことばを知ったとしても
「わあ、そんな難しいことば使えるの。偉いわねえ」と誉めてくれる人はいないだろうし、「へっ、知ったかぶりがあ」と思われるのがオチだろう。

 誉めてもらえるとすればそれは、難しい単語であっても聞く人の立場になって、わかりやすい言葉に置き換えたり、身近な事例と結びつけたりして、説明できた時であることは容易に想像できる。

 再帰なんて難しい言葉を真に知るということは、それを手持ちの平易な言葉に置き換えられるということだよ。

 これを再帰の形式にすると、
 私は、言葉を知るということは私がそれまで習得した簡単な言葉に置き換えたときに成立したと考えている。
 ということになるのかな。

 つまり再帰とは、主語と述語である事柄を括ってしまう文法のことだ。かなり限定的だけど。
 それが自己を客観視できるということにつながる。

 迷路のような文章になってしまった。
 行きどまりか。脱け出せるか。帰れるか。