すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

初冬の頃の読書メモ②

2010年12月07日 | 読書
 先日少し引用した『メメント』(森達也 実業之日本社)
 
 著者に同世代として親近感を持ったことがあると以前書いたことがある。しかし、その仕事の範囲の広さや洞察には到底迫りきれない。
 とすれば自ずと身近な話題にくっつくわけだが、先日書いた「現代史の教育現場」のことに加えて、もう一つ書き留めておきたいのは「“規則をやぶる”自覚と陶酔」の章。
 ここで記された言葉は本当に共感できる。中味については立場上詳しく書かないけど(苦)。

 「品格」とか「凛々しい」とか「美しい」とか「気高い」とか、そんな語彙ばかりでは息がつまる。卑屈になってほしい。姑息な自分を体験してほしい。卑小な自分を体感してほしい。

 してはいけないことへの誘惑に勝てない自分を堂々と認めたり、居直ったりできないのは、心の底にある価値観、倫理観がまとも?と信じているからだろう。どこかでそういう教育があったからこそとも言える。
 それらが本当に根っこにあると気づくのは、おそらく反発し、挫折した末に湧きあがってくる時ではないだろうか。
 ただ法に背く行動を堂々と続けることによって感覚は麻痺する。自分であれ、他者であれ、それを崩れだと意識できる心の存在は常に問わなければ強度を失っていく。


 『途方に暮れて、人生論』(保坂和志 草思社) 

 芥川賞作家だそうな。著書が目に入ってくることはなかったが、出版社の小冊子で短いエッセイを読んだことはある。
 本書は雑誌やWeb上でのエッセイを編集したものらしいが、実に読ませる内容だった。程よく難しい言い回しなどもあり、読み返したくなる文章も多いという感じをもった。
 印象に残るこのフレーズ。

 「愛」は指で差し示すことができない。 

 何か哲学的のようにも思えるが、単純には言語理解のことである。
 「視覚を起源に持つものとそうでない抽象的な概念」という区別。時間が介在しなければ理解できない様々な言葉を、どう身につけさせていくかはとても興味深いことだなあ、と今さらながらに思う。
 繰り返し見る、唱える、経験する、表現する…としても、「それは愛か」と問われたら、どうしようもなく言い淀んでしまう自分がいる。
 ちなみに、この著者も同い年生まれ。